episode 3 最悪のファーストキス

 西条章の武勇伝は中学校の同級生の間では有名な話で、彼自身がさすがの自分でも私の才能を否定しないと話したのとつながっている。つまり彼は、私の才能とは別のものを武勇伝の中で否定したのだ。そして私が「恥ずかしい武勇伝」と言ったように、彼にとって恥ずかしい過去。でも自ら学校中に暴露したがる私には恥ずかしいことではなかった。

 そう、だから私が無理矢理されたキスは武勇伝とは関係がない。また私は、最悪のキスを浴びておきながら彼と同じ高校を選んだ。それは私が彼のことを嫌いにならなかったからである。

 いじめ――といえなくはない。

 私に対するいじめではない。

 中学三年生の秋、西条くんは想像より硬い唇で私の唇にふれた、命令されて。彼は私を近所の仲良し以上には感じておらず、命令を出した同級生が生意気な女だと私、河坂美沙を指定したという。彼はただ言われた通りにキスを終えられれば良かった。逆に気になりかけていた私はかといって喜べるほど大人ではなく、もしかして好きってこと?なんて混乱してるうちにへらへら男たちから裏があると知らされて最悪のキスになった。

 いや、西条くんは悪事を決行したあとで必死に何度も何度も謝ってきたから、言われた通りにすればいいと思ったのはきっと私が犠牲になるまで。彼の心をそのように惑わせたのも命令した男たちである。私を選んだのは女子だったけど。

 私は葉桜の陰で半分以上がツタに被われた門を抜けた。私たちを傷つけた悪い男子も女子もこの学校にはいない。女の子が大切にするファーストキスが自分に気がない人で最悪ではあったが、私は彼が同じ遠くの高校を第一志望にしても平気だった。寒いなか二人だけが合格し、今に至っている。

 夏が終われば、あのキスからも三年が経つ。

 それにしても、私はその前に起きた西条くんの武勇伝を本当に書けるのだろうか。今の私は彼がまだ四分の一くらい好きで、彼の立場を傷つける話を書き上げてしまう心配はないし、またこれまでの「実績」から考えて完成できないとも思えない。では何が心配なのかというと、問題は話の中で私の唇ではなく、人の命が奪われることだった。

 緑色の帯を巻いた気動車ディーゼルカーに誰よりも長く乗って、私は谷間の家に帰り着いた。両親は丘の風車を点検しにいっているらしい。私は居間の小ぶりな白いノートパソコンの前に腰を下ろした。

「武勇伝……、放送したくなるのを書くんだ」

 冷たくなった両手で顔を覆い、ああ、口にふれた手のひらで三年近くも前の男の唇を思い出すなんて。私は「関係ない、関係ない」とくり返しつぶやいて腕を下ろした。

 ――河坂もちゃんと、それにかなう立派な小説書いてこいよな。

 今日の西条くんの捨て台詞が頭に浮かぶ。あれは武勇伝などではなく小説を書けという意味だったようだけど、私は武勇伝を小説として書く気持ちを変えていなかった。ただ真実のまま人が死ぬ話のままでは、たとえ彼が「絶対読む」と宣言しているとしても、また読まれない紙の束に積まれるだけになりかねない。

 ならば私は、読まれることを優先して誰も死なない話にすべきである。うそはつかない、彼の恥ずかしさも変わらない。私はふううううと長めに息を吐き、頭をとんとんたたいてパソコンのディスプレイを上げた。中学生の彼が私を否定したのはささいなこと。その一件はキス以上に私に彼を嫌いにはさせなかった。

 でもこっそり怒ってる?

 まさか。

 明けて月曜日の朝、登校中の列車内で武勇伝小説を突きつけられた西条くんは、こめかみを引きつらせて紙を受け取ってくれた。朗読に使える放送時間は六分と実はけっこう短く、今回も二日かけてあっさり必要十分な長さを超え、削るのに苦労したくらいである。

 意外なことに、彼の手に渡ってからも悩まされたのは私のほうで、昼休みが来るまで何度も何度もどきどき彼に目をやる自分には本当に困った。好意のかけらは持っているとはいえ、激しい恋に落下中の子みたいだと思った。だっていくらその日の昼休みに朗読させるからって授業中に読むほど不まじめではなかった彼が、今日は一時間目の日本史で早速やらかしたんだもの。もちろん絶対読まれる私の小説の確認で、居眠りではない。

 さあ、ここからは昼休みの終わりに會川さんが朗読した小説で、私の原稿からは一部が変更されている。

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