ピアスホールに捧げる

@uomaru0623

ピアスホールに捧げる

 「夢華、出かけるよ。」

ある日の昼下がり。私の姉、佐々野綾華は妹である私、佐々野夢華に話かけた。それに対し、私は無表情で答える。

「……は?」

 姉が、このように突然、出かけに私を誘うのはこれが初めてではなかった。このようなことは常にあり、私はいつも、『やめてほしい』と思っていた。しかし、やはり、先に生まれた特権だろうか。この姉に逆らうことなど絶対にしてはいけない。それが私達姉妹の暗黙のルールだった。

 季節は夏。家の外に一歩でも出れば、一瞬で体は熱風に包まれ、汗がじんわりと滲む。セミ達がミンミンと鳴き、向こうの方ではうっすらと陽炎が立っている。空には入道雲が浮かび、太陽が痛いくらいの日差しを私達に注いでいた。まさに『夏』である。

 そんな暑さをかき分けるように、私達は歩いた。

「ねえ、どこ行くかそろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」

「ん?ああ、うん。」

無風だった私達の周りに生暖かい風が吹き、姉の白いワンピースの裾が広がる。

「ピアススタジオ。」

姉は静かに言った。姉の耳にはめられた二つのピアスがきらりと光る。

「まだ、開ける気なの?」

姉の耳には耳たぶに左右一つずつピアスが開いている。これは姉の彼氏が開けたものだった。

「ピアスの開いてる数が奇数個だと男運が上がるんだって。」

「彼氏がいるのに、まだ男運上げるの?」

「何言ってんの。男なんていついなくなるかわかんない生き物なんだよ。」

姉は今までに三度も浮気をされたことがある女だった。つまりは、男運はそこまで高くないのだ。

 変わらぬ並木道を通り、道を曲がって、駅前に行く。

 駅前には何でもあった。スーパー、電気屋、本屋、美容室、有名チェーン店……。そこにいる人もまちまちで、ランドセルを背負った元気な小学生から、杖を突いた老婦人まで、色々な老若男女が歩いている。人々は何も気にせずに、人と人の間を器用に抜けていく。私達も、人々の間を器用に抜けていく。

 気が付くとそこはスタジオ前だった。その場所は暗く、日の当たらない場所にあり、なんとも言えない雰囲気を醸し出していた。まるで、隠れ家のようだ。

 「ここ。」

姉は何のためらいもなく、その店に入っていく。私も恐る恐るその後に続く。

 中は以外にも明るく、棚が並んでいる。棚の中にはいろいろな種類のピアスが並び、中にはSM用品も並んでいた。店の奥には小さなカウンターが設置されており、どうやらそこが受付らしかった。

 姉はどの商品にも目をくれず、真っ直ぐ受付に向かった。その後ろを、キョロキョロしながら、私は付いていく。

 受付には一人の男が立っていた。男の風貌は、顔に数えきれないほどのピアスが開き、スキンヘッドで、体には無数のタトゥーが入っていた。

 その男を見た瞬間、私に衝撃が走った。それは稲妻のような強い衝撃とも、恋の訪れを知らせる心地よい春風とも言えるものだった。

カッコいい……。

私の目は一瞬にして、その男に捕らわれた。脳天からつま先までを走った電撃はまさに脊髄からの反射のようで、自分の意志とは関係なく私は惹かれた。頭の中はもう彼のことでいっぱいだった。

 「こんにちは。キョウさん、今日はタンクトップなんだ。」

「おう。」

キョウと呼ばれたその男は、表情を変えずに頷いた。

「じゃあ、予約してた通りによろしく。」

「おう。」

「夢華、店の中で待ってて。」

「……うん。」

二人はカウンターの奥にある部屋に消えた。店の中で、私は一人になる。

 私の頭の中は、キョウさんのことでいっぱいだった。すでにそのことしか考えられなくなっていた。今、この壁の向こうで、姉はあの男に一生消えない傷をつけられている。そう思うと、どこからかメラメラと嫉妬心が湧き、怒りに震えるのだった。まだ会って、数分しか経っていないというのに不思議だった。もしかしたらこれが運命というものなのかもしれない。

 ふと顔を上げると、一枚のポスターが目に入った。そのポスターは、女の人が写ったポスターで、そのポスターに写っている女の人は大股を開き、女性器を丸出しにした格好をとっていた。そしてその女性器にはキラキラ光る銀色のピアスがはめられている。

 あのピアスもキョウさんが開けたのだろうか。

 その隣のポスターには横向きに写った女の人の顔が写っており、その耳には大量のピアスが開けられていた。その下には文字が書いてある。

『ピアス一穴二千五百円』

そうか、私も開ければいいんだ。

 私はかろうじて持ってきていた、財布の中身を確認した。

『三千二百七十八円』

一つ開ける分くらいのお金はある。

 その時、奥の部屋から姉とキョウさんが出てきた。

「めっちゃ、痛かった……。」

「たかだか軟骨に穴開けたくらいで、大げさすぎ。」

「痛いものは痛いの!」

「はいはい。」

姉はブツブツ言いながら、お金を支払った。

「じゃあね。キョウさん。」

「おう。」

夢華も一礼する。

 二人は、ピアススタジオを後にした。

 スタジオからの帰り道、私達は黙って歩いた。二人の横を自転車に乗った小学生たちが通っていく。先の方では、日傘をさしたおばさまが歩き、コンビニの前では、ツナギを着たおっちゃんたちが煙草をふかしている。太陽は相変わらず暑い日差しをサンサンと降り注いでいた。

 信号が赤に変わり、私達は止まる。私は姉を見つめた。姉の耳にはさっきまではなかった、三つ目のピアスが右耳で輝いている。

「どうした?夢華も開けたくなった?

信号が青に変わったとき、姉が口を開いた。

「……うん。」

「お、いいじゃん。」

「でも、校則で禁止だから。」

「校則ぅ?いいんだよそんなの。真面目ちゃんだなぁ。いい?夢華。校則なんてもんはね、先生たちが生徒を従わせるために作った意味のないルールなんだよ。だから、別に守らなくてもいいの。」

姉は胸を張って言った。姉には、自分が正しいと思ったことが正しいと考える癖があった。

「それは違うと思うけど。」

「あのね、夢華。この世で一番大切なのは、周りに合わせたり、ルールを守ったりすることじゃなくて、自分の思った通りに生きていくことなんだよ。それで人様に迷惑かけるのはいけないことだけどね。」

「ふーん。」

「だからもし、ピアスを本当に開けたいと思ってるんなら開けた方がいいよ。」

 ピアスを開ける。一生消えない傷を自ら体につける。それはどこか自傷行為に似たものを私は感じていた。だからこそ、どこか軽蔑するような気持ちが少なからずあった。しかしその気持ちを持っていたとしても、もう私の気持ちは止められないものになっていた。

 キョウさんにもう一度会いたい。

その気持ちは足を一歩前に踏み出す事に強くなっていく。もう一度会えば、どうしてこんな気持ちになるのかその答えがわかるかもしれない。そんな淡い期待も出ては消えを繰り返していた。

 そもそもどこにそんなにも惹かれているのか、私には全くわかっていなかった。『一目惚れ』と言えばそうなのだが、そのたった一言で片づけられる程、この気持ちは軽くはなかった。それどころか重すぎるくらいだった。もう、彼のことしか考えられない。まるで自分の全てが彼のみになったみたいだった。

 家に着き、私は真っ先に自分の部屋に向かった。

 暗く、生暖かい空気が立ち込めている自分の部屋。そこには最低限の物しか置かれていない。ベッドに勉強机、椅子に勉強道具。洋服も寝巻が二セット、外出着が二セット、下着が三組しかなく、毎日同じ組み合わせの服を着まわしていた。

 私のこの部屋を見て、多くの友達は『物が無さ過ぎて落ち着かない。』と言う。だが、私はこの部屋が結構気にっていた。なぜなら、この部屋は私を表していたからだった。

 昔から好きなことも、苦手なことも特になく、趣味も無かった。これといって人生において何かにつまずいたこともなく、なんでも器用にこなすたちだった。毎日に苦労もなければ、幸せも楽しみもない。ただ事務的に人生をこなすだけだった。

 だからこそ、今日の出来事は私の中で最高に衝撃的で、最高に刺激的な出来事になった。まさか私が人を好きになれるなんて。人生は予測できないことの連続だとはよく言ったものだ。確かにこんなこと誰が予測できようか。私のような人間が人を好きになるなんて。

 部屋に着いた私はベッドに仰向けに寝っ転がった。エアコンが付いていないからか、いつもより、シーツが体に密着しているように感じた。

 私はゆっくりと目を閉じた。瞼の裏側にはキョウさんが焼き付いている。綺麗な指に、逞しい腕、タトゥーの入ったカッコいい顔。そして少し寂しげな瞳。目をつぶるだけでその全てが鮮明に思い出せる。普段から人の顔や名前を覚えるのは得意だったかが、こんなにはっきり覚えているのは初めてだった。

 ふと、耳が気になり、私は耳たぶを触った。

 もうすぐこの耳に穴が開く。一生消えない傷が残る。

 そう思うと、手に力が入った。

 どんな感覚なんだろうか。痛いのだろうか。それとも、ケガをした時のような痛みとはまた別の感じなんだろうか。

 覚悟が鈍るような不安な悩みが頭を巡る。私は今まで大きなけがをしてこなかった。だからか、痛みにはめっぽう弱かった。

 もし、開けた時に泣き出してしまったら?失神なんてまねしてしまったら?キョウさんに呆れられてしまうかもしれない。

 そんな考えを打ち消したくて、私は枕に顔を埋めた。そして深呼吸をする。

 肺いっぱいに自分の匂いを吸い込む。

 鼻腔に柔軟剤とその奥に潜む私の匂いが広がる。悩みはその匂いに包まれ、私の意識が届かない何処かへプカプカ去っていく。

 私は落ち着きを取り戻した。

 落ち着いた頭でもう一度考えた。本当にピアスを開けるか否か。開けてしまったら、もう後戻りはできないだろう。沼にはまっていくように、その行為から抜け出せなくなるような気がした。引き返すなら今だと、私の脳細胞の全てが言っている。反射或いは本能的に動くのは危険だと、理性が告げている。しかし、残念なことにそんなことを言う理性はこの時あまりにもちっぽけで、弱く、力がなかった。そして本能はあまりにも大きく、強く、理性を潰して消してしまうくらいには、力が強かった。

 もう誰にも、私でさえも、この気持ちを止めることはできないだろう。きっとキョウさんにもできない。

 次の日私は二千五百円を握りしめて、あのピアススタジオに向かった。


 スタジオに着くと私はゆっくりとその扉を開けた。来客を知らせるベルが鳴る。

「いらっしゃいませ―。」

棚の後ろから声がする。並んだ棚が死角になり、姿は見えない。

 その声に驚き、入り口のところで私はもたついた。モゴモゴと動き、中に入ったり出たりする。するとしびれを切らしたのか、棚の後ろに隠れていた声の主が顔を出した。

「冷やかしなら帰れよ。」

声の主は男だった。耳と口元に大量のピアスが刺さり、髪の毛は真っ赤に染まってる。身長はたぶん百七十ないくらいだろうか。顔は童顔で、そのせいか、すごく幼い印象がある。

「何見てんだよ。」

男は鋭い視線を向けて言った。どうやら、私を完全に敵と見なしたらしい。

「…あのっ、キョウさん…います…か?」

私は声を振り絞って言った。今からキョウさんに会えるかと思うと声も震えた。

 その一言を聞き、男はその鋭い顔からすぐに笑顔に顔を変えた。

「なんだお前、キョウさんの知り合いか。ちょっと待ってな。」

そう言って男は、棚の後ろにある扉を開けて、その中に消えた。私一人が店の中に取り残される。

 しばらくして、男は申し訳なさそうに、店に帰ってきた。

「悪い。今、キョウさん接客中なんだ。だから、しばらく待っててくれ。」

「……はい。」

 あの扉の向こうで誰かがキョウさんと一緒にいる。そう思うだけで、腸が煮え繰りかえりそうな気持ち悪さに襲われる。あの扉の向こうで、キョウさんは何をしているのだろう。まさかあのポスターみたいな綺麗な女の人の女性器にピアスを開けてたりするのだろうか。それとも、あの綺麗な指を、耳に這わせて消えない傷を作っているのだろうか。考えるだけで吐き気がする。キョウさんはまだ私の物でも何でもないけど、それでも私以外の人を触るなんて許せない。キョウさんには今のままこの仕事を続けてほしいが、私以外の人には触らないで欲しい。そんな矛盾した考えが頭にこびり付く。

 「お客さん、名前は?」

「えっ。」

突然男が口を開いた。私はその時初めて、目の前に男が立っていることに気が付いた。

「…佐々野夢華です。」

「へー。字は?」

「佐々木の佐々に野原の野で佐々野。夢に中華の華で夢華です。」

「へー。俺は、一夜。数字の一に夜で一夜。ホストみたいな名前だろ。」

「…まあ。」

「俺のおふくろが結構ホストに貢いでて、俺が生まれた時に、一番お気に入りだったホストからつけたんだと。まったく、迷惑だよな。」

一夜さんは笑いながら言った。さっきまでの敵意が嘘みたいだ。

「さっきは悪かったな。言い訳になるけど、最近冷やかしが増えてて、うんざりしてたんだ。」

「いえ。」

「今日は何処に開けに来たんだ?」

「えっ?」

「ピアス。」

「あ、ああ。耳に。」

「へー。」

一夜さんはまじまじと私の顔を見つめた。私は急に恥ずかしくなり、耳を触った。

「なんですか、一夜さん。」

「…あ、そうだ。俺のことは、一夜でいいよ。あと敬語もやめて。苦手なんだ、敬語使われるの。」

「あ、ごめんなさい。」

「それ。」

「あっ、えっと…。ご、ごめん。」

「うん。」

そんな話をしていた時だった。あの扉が開いたのは。

 キョウさんは大柄な男と一緒に出てきた。二人で、レジに向かっていく。

「あ、キョウさん出てきたな。今呼んでくるからちょっと待ってろよな。」

「…うん。」

 キョウさんのもとに、一夜が走っていく。それにキョウさんが気が付き、わずかに微笑む。二人で何か会話をしているようだった。

 こうして離れたところで二人を見ているとなんだか兄弟のように見えてくる。キョウさんと一夜の身長差からかもしれないが、一番は、一夜の人間性だろう。数分一緒に居ただけで彼が、根が優しい人間であることは一発でわかる。確かに、ピアスが至る所に開き、怖い顔であることは間違いないのだが、話はちゃんと聞いてくれるし、何より目を見て話してくれる。これは優しい人の特徴だと誰かが言っていた。

 そしてもう一つ、二人が兄弟のように見える理由があった。それは、顔が似ているとか、癖が一緒とかではなく、なんとなく笑い方が似ているということだった。似ていると言っても、目で見えるものではなく、何といえばいいのかわからないが、近しい言葉で言えば、雰囲気だろうか。そんなようなものが似ていたのだ。二人とも顔中にピアスが開き、お世辞にも優しそうな顔とは言えないが、でもその笑った顔は、どこか温かさを感じる。そしてその温かさは私がどこかで感じたことのあるものだった。どこかは思い出せないが。

 しばらくすると、二人は私の方に歩いてきた。

「いやー、悪い悪い。ちょっとばかし話がはずんじまって。」

「大丈夫。」

「キョウさん、こちら、夢華ちゃん。」

一夜が私を紹介する。すると、キョウさんは、何かを思い出そうとするように顔を歪め、そしていきなり何かを思い出したかのように、「君、綾華の付き添いで来てた人?」

と言った。

「はい。佐々野綾華の妹の夢華です。」

「綾華さんって、最近常連になった人っスカ?」

「うん。」

どうやら一夜も姉を知ってるようだ。

「で、どうしたの?」

「あっ、えーと……。私も姉みたいにピアスを開けてほしくて……。」

「耳だそうっス。」

それを聞いたキョウさんが突然私の耳を触る。私は信じられない体験に全身に流れる血が噴き出しそうになり、反射的に呼吸を止めた。

 キョウさんの匂いが私の鼻を刺激する。

 「ここ?」

「…はいっ。」

「……オッケー、じゃあ、こっち来て。」

キョウさんが私の耳から手を放す。この時、時間としては十数秒程だったが、私にとっては何時間にも思える長い時間だった。

 私はキョウさんに連れられ、カウンターの奥にある部屋へと向かった。

 その部屋には歯医者にあるような椅子が一つと、その近くに丸椅子が一つ、そしていろいろな器具が乗ったワゴンのようなものが一つあるだけだった。壁は真っ黒に塗られ、明かりも裸電球が一つ天井からぶら下がっているだけで、そのほかには何もない。私はその光景を見て、何かの本で読んだ実験室を思い出した。

 「そこに座って。」

「はい。」

私はキョウさんに言われるがまま、怖そうな椅子になんの抵抗もせずに座る。きっとこの時、キョウさんが『屋上から飛び降りろ』とか、『ナイフで自分の首を切れ』とか言っていたとしても何の抵抗もせず、その言葉に従っただろう。

 キョウさんが私の隣に丸椅子を置き、そこに座る。

「耳のどこに開けるの?」

「……実は、私今、高校生なんですけど、学校ではピアスが校則で禁止で……。」

「じゃあ、開けたら校則違反だ。」

「はい。なので、目立たない所に開けて欲しいです。」

キョウさんは私の言葉を聞いて何かを考えるように黙る。キョウさんがジッと私を見つめている。その顔が最高に官能的で、カッコいい。

「学校では優等生?」

「えっ……。まあ、自分で言うのもあれですけど、不良ではないと思います。」

「……そっか。なら、大丈夫。どこに開けてもバレないよ。」

私を安心させる為か、キョウさんがにっこり笑う。やはりその笑顔は、お世辞にも安らぎを与えるとは言えないが、やはりどこか温かみを感じる。

「それにその髪の長さだったら、おろしてればバレないと思うよ。」

そう言ってキョウさんは私の髪を見つめる。

 私の髪は腰の所までの長さがあった。特に伸ばしてる理由はないが、強いて言うなら、綺麗だからだろうか。

 この髪は誰よりも美しい自信があった。それは、美容師を目指す姉が、毎日丁寧に手入れをしてくれているからだった。姉は昔から、私の髪を触るのが大好きだったらしい。そう、姉が美容師を目指し出した頃、私に言った。私自身、自覚は無かったのだが、確かに言われてみれば、よく姉に髪を弄られていたような気がしないでもない。五つ離れた姉のおかげで、小さい頃の私の写真はどれも頭が華やかな物しかない。

 「耳たぶに開けます。」

「了解。」

キョウさんがピアスを開ける準備を始める。キョウさんの細い指が私に触れる。

 私はこの指が好きだ。さっき、そう気が付いた。もしかしたら、キョウさんの部位の中で一、二を争うくらいに好きな所かもしれない。

 その細い指が私の耳を消毒し、アイシングをする。段々と耳の感覚が無くなっていく。

「緊張してる?」

「少しだけ。」

「…初めてだっけ。」

「えっ。」

「ピアス。」

私は頷く。

「そっか。……怖い?」

「はい。」

 嘘だった。私の中にはもう、怖いなんて言う感覚はなくなっていた。あるのは、好きな人が近くにいるという幸福感と、何か失礼な事をしていないかという心配だけだった。これから、好きな人に一生消えない傷をつけてもらうのだ。怖いわけがない。

 

「じゃあ、いくよ。」

「はい。」

私は手にギュッと力を込めた。そしてこれから私の体に起こる予告された痛みに対して、全神経を集中させた。死ぬまでこの痛みを忘れないように。

 ブスッ

 頭の中で効果音がなる。

 一瞬だった。特にひどい痛みもなく、一瞬にしてその行為は終わりを告げた。ひどい最低な痛みを期待していた私は拍子抜けしてしまった。もっとこう、一生忘れられないものになると思っていたのに。心底残念だった。

 キョウさんは優しくニードルを抜き、その後ろからピアスを入れた。ピアスが入った瞬間私は、謎の幸福感に包まれた。

「はい、終わり。」

あまり、痛みを感じなかった残念さと、謎の幸福感でいっぱいになっている私に向かって、キョウさんは言った。

「どう、痛かった?」

「……いえ。」

「ならよかった。」

キョウさんが器具を片付ける。

「…あの、もう終わりですか?」

あまりの速さと、痛みのなさに私は思わず、聞いてしまった。

「…あ、もう一個開ける?」

キョウさんのその一言で私は本当に終わってしまったんだと実感した。

「いえ。……大丈夫です…。」

「……今日は耳だったから痛くなかったかもしれないけど、他の場所だったら痛かったりするから。」

「耳以外……。」

「眉とか、首とか、舌とか。」

 眉、首、舌……。耳じゃないほかの部位に開ければ、忘れられない痛みを感じることが出来るのだろうか。

 私の頭に色々な妄想が浮かぶ。色々な痛みの妄想が。

 私はキョウさんに連れられその部屋を出た。耳には少しずつ感覚が戻りつつあった。そんなモヤモヤした体と心を抱えながら、私はカウンターでお金を払う。

「二千五百円になります。」

「はい。」

財布から二千五百円を出す。

ジャラジャラジャラ

 「また、来てください。」

帰り際、キョウさんが言った。

「今度は、俺にも開けさせてくださいね。」

一夜が言う。

「…はい。」

私は二人に一礼し、店を出た。外に立ち込める熱風が私を包み込む。エアコンの聞いていたスタジオ内とは違い、外は暑い。私は来るときに被っていた麦わら帽子を被り、歩き出した。

 駅前は相変わらず、人で溢れている。ここに来ると私はいつも自分が風景になったように感じていた。自分がピンボケした街に植えられている木、もしくは雑貨屋に置かれている商品の一つかのように思うのだ。しかしそれはさっきまでの事。正確には、ピアススタジオを訪ねるより前の事。今はまるで、自分が主人公になったかのように思える。これが果たして、ピアスの力か、恋の力か定かではないが、少なくとも今までの自分とは全く違うことは確かだった。

 電車に乗り、私は自分の町に帰る。人が乗り、降り、そしてまた乗る。窓の外の景色は似たような景色が移り変わり、小さく変化していく。

 私は窓の外を眺めた。しかし頭は外の景色なんかに目もくれず、キョウさんの事ばかり考えていた。

 私のピアスを開けて、キョウさんは何を思っただろうか。次を誘ってくれたということは、また私に穴を開けたいということだろうか。それともただの社交辞令?

 まるで湯水のごとく、色んな思いがあふれ出して止まらない。嬉しさと満足感、不安と心配。そんな感情が交互に私の頭の中を駆け巡る。もし感情に色があったら私の今の色はすべ手が混ざり合い、真っ黒になっていただろう。

 降りる駅に着き私は下車し、自分の家を目指して歩いた。

 真っ直ぐ行き、二個目の角を右に曲がり、突き当りを右に行き、次の角を左に行く。その間、太陽は容赦なく、私を照らし続けた。日焼け止めを塗っている肌も貫通して、焼いてしまうような暑さだ。私は休み休み歩いた。

 遠くで陽炎が揺れている。意識が朦朧としてくる。

 そんな頭でも私が考えていることは、キョウさんの事だけだった。

 家に着いた私は二階に上がり、自分の部屋に行く。私の部屋は熱に包まれていた。私はすぐにエアコンを付ける。

 段々と熱が冷気に変わっていく。

 私は椅子に座った。体の表面にくっ付いていた熱が離れていくのを感じながら、私は開けたてのピアスを触っていた。

 痛い。

 開けた時は全く痛くなかった耳たぶも、段々冷却が溶けていき、感覚が戻りつつあった。いや、もう完全に戻ったといってもいいだろう。

じわじわと広がる痛みが私の耳を包み込む。その痛みが私は心地よかった。ピアスを開けたのが夢ではないことを教えてくれているみたいで。消えてしまいつつあるキョウさんの体温の代わりになるかのように、その痛みは次第に強くなっていく。泣き叫びたくなる程強くはないが、気にならないほど弱くない痛み。血液が脈打つたびにその痛みは、強くなる。

私は目を閉じ、その痛みに集中した。よりその痛みを強く感じられるように。

ピアスがどくどくと脈打つたびに私は刺したあの瞬間を思い出す。冷たい耳を暖めるかのように触る、細く美しい指。キラリと光る針。標準を合わせる目。耳に突き刺さる一本の棘。

はまってしまいそう。

そう思った。この感覚に。この高揚感に。この気持ちに。この後味に。

最高な気分だった。まるで、キョウさんに愛されてると言われているようで。このピアスはきっと愛の証明なんだとさえ思えた。もう私の中にピアス=自傷行為なんて考えはなく、ピアス=愛情表現というものに変わっていた。

そして、それと同時に私は、あることに気が付いていた。それは、本気でキョウさんを好きになってしまったという事。寝ても覚めてもずーっと彼の事ばかり考えている。これを恋と呼ばないとしたら一体何を恋と呼ぶのだろうか。それだけではない。私は、ピアスを開けた瞬間、何か一つ大切なものをキョウさんに捧げたような気持ちになったのだ。それこそ、純潔を捧げたような感じだろうか。まあ、私はまだその純潔を守っているのだが。

私は椅子から立ち上がり、カレンダーを見る。そのカレンダーには、お小遣いがもらえる日が書いてある。次のお小遣い日は二週間後だ。

二週間後私はまたピアスを開けること決意した。


初めてピアスを開けた日から二週間。高校二年の夏休みはもうすぐ終わりを告げる。しかし外はまだ『夏』を主張するように暑い。もうすぐ夏が終わるだなんて、きっと誰も信じられないだろう。

この二週間で色々なことが起きた。まず起きたのは、姉に新しい彼氏ができたことだ。時間は一週間前に遡る。どうやら、その時まで付き合っていた彼氏が浮気をし、どうやら相手の女の人の方が本命だったらしく、振られてしまったらしい。これで姉の浮気記録がまた更新されたと家族内で盛り上がっている中、姉はその熱が冷めていないうちに新しい彼氏を作ったのだった。普段なら、最低でも一カ月は引きずる姉が、こんなにも早く新しい彼氏を作るなんてと家族内がまたざわついた。

姉の話では、元カレと付き合っていた時から、『いいな~。』とは思っていたらしい。そして元カレと別れた時に、ダメもとで告白したら一発OKだったらしい。付き合っていた時からいいなと思うのは浮気にならないのかとか色々と突っ込みたいことは多いが、まあ、姉がそれでいいならいいような気もする。これもピアスを奇数個にした結果なのだろうか。

 そして姉はほとんど家に帰らなくなった。元々、父と馬が合わず、専門学校に行ってからは寝るとき以外は学校かバイト先にいることがほとんどだったが、最近はどうやらその彼氏の家が学校の最寄り駅の近くらしく、そこから学校に通っている。だから、姉は日曜日にしか返ってこなくなった。少し寂しい気もするが、私が高校に上がってからは時間が合わずほとんど会話をしていなかったので、私の生活には何ら影響はなかった。

 変わった事はもう一つあった。それは、一夜とラインを交換したことだった。つい先日、ノートを買いに駅前に行ったとき偶然店の買い出し中の一夜に出会った。本来なら、お客さんと連絡先の交換はトラブル防止の為禁止らしいが、

「絶対秘密な。」

ということで交換した。一夜らしいと言えばそうなのだが、それは大丈夫なのかと心配になる。

 そこから、ほぼ毎日メッセージのやり取りが続いた。特にこれといった話はしていないが、今日思う起こった事や、世間話、上司の愚痴なんかが主だった。そしてそんなメッセージのやり取りが日常になりつつある、そんな日の事だった。

 私が舌ピアスを開けに行ったのは。

 店のドアを開け、店の中に入るとそこには棚の商品にはたきをかける一夜がいた。

「おっ、おはよう!今日はどうしたんだ、夢華。」

「ピアスを開けに来た。」

「へー。どこに?」

「決めてない。」

「ふーん。」

一夜が掃除をやめて私に近づく。

「なあなあ、今度は俺に開けさせてくんね?」

一夜が言う。

 私は考えた。この問いに対する返答を。確かに一夜はいい奴だ。明るいし、私の話もちゃんと聞いてくれる。ここで、キョウさんじゃなくてもあの感じは味わえるのか試すのも手だ。だが、私はどうしてもそんな気になれなかった。実のところ、別の人で試してみたいという探求心が無いわけじゃない。しかし、その好奇心を打ち消すほど、キョウさん以外の人に私を捧げたくないという気持ちの方が強かった。私は気が付かないうちに、ピアスを開けるという行為は、神聖で、限定的な行為だと強くに感じていたのかもしれない。

「ごめん。私、キョウさんに開けてもらうって決めてるから。」

「えー、なんで?」

「だって一夜に頼んだら、余計なところにも開けそう。」

「そんなことないよ。」

一夜がハハッと笑う。どうやら、傷つけては無いみたいだ。

 「じゃあ、キョウさん呼んでくるからちょっと待ってて。」

「うん。」

一夜がキョウさんを呼びに走る。

 この二週間でキョウさんは何が変わったのだろう。何を思って過ごしたのだろう。待っていた二週間は私にとってはすごく長く感じた。じゃあ、キョウさんは?同じように感じた?それとも……。色んな考えが交差する。いつもなら、すぐに考えがまとまるのに、キョウさんのことになるとそう簡単にはいかない。きっと、何時間も何日も何年もかかるだろう。それぐらい、キョウさんは私の中で不可解な存在なのだ。そして一番興味を惹かれる存在。彼の研究なら何年でもできそうだ。

 キョウさんがやって来る。

「久しぶり、夢華ちゃん。」

「はい。」

名前を呼ばれて、飛び上がりそうになる。それを必死に抑えて私は返事をした。

「今日はどうしたの?」

「また、ピアスを開けて欲しくて……。」

「フフッ。君もワルだね。」

キョウさんの笑い声に私の心臓はまた跳ね上がる。訳のわからないドキドキで、お腹の奥がゾクリとする。その感覚はどこか気持ち悪くて、どこか刺激的だった。

「じゃあ、早速開けようか。」

「はい。」

キョウさんが歩き出し、私もそれに着いて行く。私は一生懸命歩幅の大きいキョウさんに遅れをとらないように着いて行く。

 また、あの部屋に連れていかれ、ベッドと椅子の中間のようなものに座らせられる。

 キョウさんが私の近くに座る。

「今日は何処に開ける?」

「……おススメってありますか?」

「見えない所?」

「はい。」

キョウさんが自分の顎を触る。どうやらそれが、考える時の癖らしい。

「舌とかどう?舌ピアス。」

「舌、ですか……。」

「うん。結構人気で可愛いよ。あんまり目立たないし。それに可愛い。」

その時私はビビッときた。舌ピアスを開けたいと心の底から思った。キョウさんが可愛いと言ったからか、感覚か全くわからないが、その時私は開けたくてたまらなくなった。

「その代わり、めっちゃ痛いよ。」

 別に痛みなんかどうでもいい。むしろ痛い方がよかった。

「じゃあ、舌にします。」

「OK。」

 キョウさんが準備を始める。

 私は二重にドキドキしていた。一つはピアスを開けることへの恐怖。もう一つは本当にこれから私はキョウさんにやっと捧げることが出来るのかという幸福感。そのドキドキが今の私の心臓を動かす活力なのではないかと思えるほどだった。

 キョウさんが私の前に座る。

「じゃあ、いくよ。」

「はい。」

私は目を瞑り、舌を出す。全身の神経を舌に集中させる。

ブスッ

 ニードルが舌に刺さる。その瞬間、私は全身に力を込めた。その反動で体が一瞬上下にピクリと動く。

 痛い。

 耳たぶに開けたピアスなんかと比べ物にならないくらい痛かった。痛すぎて、目には涙が滲んだ。

 その時初めて穴を開けるとはどういうことかわかった気がした。

普段怪我した時とは、また違った痛みが、神経を通り、全身に広がっていく。その感覚がとてつもなく心地いい。手足が痺れ、口の中には血の味が広がり、頭には『いたい』の三文字だけが浮かぶ。しかし、この三文字が言葉では到底表せないような幸福感というか心地よさというかそんな感じの物を私に伝えていた。そして、その痛みが私に歌えかけていた。

『私は今、最高に幸せだ。』

と。

 キョウさんはニードルの後ろにピアスをあて、そっとニードルを抜いていく。その感覚も分かった。ピアスホールの中で動いているニードル。ザリザリと肉を切り、穴を広げていく。その感覚がまた痛く、また愛おしい。

 穴はどんどんと広がっていき、最後にはそこにピアスがはめられた。

「はい。終わり。」

舌が痛すぎて、私は声を発することが出来ず、しかなく頷く。

「痛かった?」

コクン。

「しばらくは痛みが続くからご飯とか食べづらくなるけど、頑張って。」

コクン。

「……ゼリーとか食べやすいから。」

「アドバイス。」

そう言ってキョウさんは舌を出した。キョウさんの舌には五つのピアスが開いていた。その姿に私の心臓が脈打つ。

 私たちはカウンターに向かった。カウンターでは一夜が暇そうに雑誌を読んでいた。店内に人の気配はなく、どうやら今は誰もいないらしい。

「あっ、夢華!」

一夜が私たちに気付く。

「どうだった?痛かった?」

コクン。

「へー。…で、どこに開けたんだ?まあ、見ればわかるけど。」

私は一夜に舌を見せ、指を指す。

「おおっ!めっちゃ可愛いじゃん!」

一夜がはしゃいで私の舌をまじまじと見る。

「なあなな、次は俺に開けさせてくれよな。」

「……。」

「って無視すんなよ!」

一夜が笑い、それにつられて私たちも笑う。

 最高な気分だった。ピアスを開けれて、キョウさんに会えて、愛を感じれて。幸せだった。もう、死んでも悔いはないかもしれない。それくらい私は今幸せだ。だって、大好きな人に人が最も苦手とするであろう痛みを捧げられたのだから。

 私はキョウさんと一夜に挨拶をし、お金を払って店を出た。もう五時が近いというのに空はまだ明るかった。

 家までの帰り道私はずっと口の中のピアスを触っていた。歯に当ててみたり、舌をまげてどうにかこうにか触ってみようとしてみたり。そして、そのたびに激痛が走り、口の中に血の味が広がった。

 家に着くと私は真っ先に、母に舌ピアスを見せに行った。耳たぶの時はそうでもなかったが、今のこのピアスは無性に誰かに自慢したくてたまらなかった。

「お母さん、私ピアス開けた。」

「えっ!」

始め、お母さんは驚いていた。きっと私はそんな人間にならないと思っていたのだろう。しかしそんな動揺はすぐに消え母は、

「お父さんにバレないようにね。」

と一言言っただけだった。

 なぜ母がそんな風に言ったかには訳があった。それは父がピアスアンチだったからだ。

正確には耳たぶ以外のピアスアンチだが、それはまあいいとして、どういうことかというと、これの話は二年前に遡る。

 姉がまだ専門学生になりたての頃だ。当時、姉の周りではへそピアスが流行っていたらしくその流行りに姉が乗ってしまい、へそにピアスを開けてしまったのだった。それを知った父が烈火のごとく怒り、『親から貰った体を傷つけるとは何事か!』と姉に言い放った。それに姉が反論し、大喧嘩になった。事態は日が増すごとに大きくなり、ついには姉の勘当にまで発展してしまったのだった。そうなって初めて母は動き、二人の喧嘩を止めた。そのおかげで、それこそ姉はまだ私の姉でいてくれているが、もしまた何かあれば、それが現実になりかねない。そんなの私もだ母はもっとご免らしい。だから、私にあんなことを言ったのだった。

 ちなみに父曰く、『耳たぶに開けてるピアスは宗教的な意味もあるから良い。』らしい。まったく、訳の分からない謎理論だ。

 そんなことがあり、私は父にはこのピアスのことは絶対バレないようにすることに決めた。いいや。心に誓った。面倒事はご免だ。

 その日の夕食は顔を下に向け、お茶碗で口元を隠しながら食べた。これが案外バレないが、やはりご飯を食べるのは苦痛だった。痛みもそうなのだが、それよりも血の味がするものを飲み込むのが何より大変だった。食事が終わると、私は自分の部屋に行き、ベッドに横たわった。

 その日の疲れがドッと出て、私は泥のようにベッドの上に手足を伸ばした。そして、今日あったことに思いをはせた。

 今日の痛みは良かった。最高だった。耳たぶよりも痛みを感じられた。愛を感じられた。そして今もそれを強く感じている。幸せだ。キョウさんに会えて。キョウさんから痛みを、愛を貰えて。最高に幸せな気分だ。

 私はこの時すでにピアスの沼にずぶずぶとはまっていた。いや、もう地上には体は出てなかっただろう。とにかく、私の頭の中はキョウさんとピアスを開けるという行為でいっぱいだった。

 私はカレンダーを見て、日付を確認する。まだ、夏休みが合わるには時間がある。

 私はベッドから起き上がり、財布の中身を確認した。その中にはまだあと一回開けれるくらいのお金はあった。

 明日、また行こう。

 耳たぶのピアスはまだ定着しておらず、舌のピアスもまだ血が出ているし、痛みもある。だがもう、それだけでは私は足りなかった。もっと強い痛みを、もっと強い愛を体が欲していた。ここは砂漠かと思うほど、もう私のもとには痛みも愛も何も無くなっていた。あるのは微かに残るキョウさんの断片的な記憶のみ。だがそれももうすぐ無くなってしまうかもしれない。だって、人間は忘れる生き物だから。

 だから、早く行かなくちゃ。

 私はそんな逸る気持ちを抱えながら、明日開けるピアスのことを考えていた。


次の日私はまた、ピアススタジオを訪れた。カウンターにはキョウさんが座っていた。

「おはようございます。キョウさん。」

「おはよう夢華ちゃん。」

キョウさんは眠そうに言った。

「どうしたの、こんなに朝早く。昨日なんか忘れて行った?」

「いえ。また、ピアスを開けに来ました。」

それを聞いて、キョウさんは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐににっこり笑って、

「そっか。」

と言った。

 朝早いこともあってか、店の中には私とキョウさん以外誰もいなかった。

「キョウさん、一夜はどこにいるんですか?」

「あ、あー。一夜は今日は休み。なんか大事な用があるらしい。」

「そうなんですか。」

つまりこれはキョウさんと二人っきりと言う事だった。私はその事に心臓を高鳴らせた。

 私はキョウさんに連れられて、あの部屋に入る。中ではあの器具たちが私を待ち構えていた。

「今日はどこに開けるの?」

「今日も、見えない所で、お願いします。」

私は椅子に座りながら答えた。

「じゃあ、口周りなんてどう?」

「口ですか?」

 キョウさんは器具が置いてあるワゴンの引き出しの中から、アルバムのような物を取り出して、あるページを開き、私に渡した。

「口だとこんなデザインがあるけど……。」

キョウさんが見せてくれた写真には、色々な人間の口元が写っていて、その口元には皆ピアスが刺さっていた。刺さっているピアスは様々で、リング状の物もあれば、悪魔の角のようなものもあった。

「口元のピアスって、どうやって隠すんですか?」

私は不思議に思い、キョウさんに聞いた。どう考えても、そのピアス達は見える位置にあったからだ。

「これはマスクで隠せるよ。」

キョウさんが優しく教えてくれる。私は静かに納得した。

「で、どれにする?」

キョウさんが私が見ている写真をのぞき込む。キョウさんの息が私の耳にかかる。

「俺のオススメはこれ。」

キョウさんが指さした先にあったのは、悪魔の角のようなものが刺さってる唇だった。

「じゃあ、それにします。」

私はその写真を指さす。

「わかった。これだったら、二つ開けた方が可愛いけど、どうする?」

「あっ、でも私、一つ分しか持ってきてないです……。」

私は俯きながら言った。

 せっかくキョウさんが提案してくれたのに……。

「いいよ。俺が勧めたし、おまけしとくから気にしないで。」

キョウさんが微笑む。その顔が眩しくして、私は目を背ける。

 「じゃあ、開けるよ。」

「はい。」

ブスッ

ニードルが私の唇に刺さる。ニードルが引き抜かれ、穴にピアスが差し込まれる。

「いくよ。」

私は頷く。

ブスッ

私は顔を歪めた。ニードルが引き抜かれ、その代わりにピアスが刺さる。

 ズキズキとした感覚が全身に伝わる。それが心地よかった。私は全身でその愛を受け止めた。

 キョウさんが私に手鏡を渡す。

「どうかな。左右対称を意識したんだけど……。」

キョウさんが心配そうに私に尋ねる。

「大丈夫です。ありがとうございました。」

私の言葉を聞いてキョウさんは嬉しそうに笑った。

 私はキョウさんにお金を払って店を後にした。

 その後、一日中鏡を見ていたことは、言うまでもない。


そしてそれからまた数日経った日。私はまた、キョウさんのもとを訪ねていた。

 月のお小遣いが五千円の私がなぜそんなに何回もここに来れたかと言うと、母のおかげなのだ。本当は禁止のお小遣いの前借を許してくれたからだった。私はその前借したお金を握りしめて、キョウさんのもとに向かっていた。

ピアススタジオについて扉を開けると、カウンターには一夜が座っていた。

「お、夢華!」

「一夜、久しぶり。」

一夜が笑いながらこっちに走って来る。

「てか待って、そのピアスめっちゃ可愛い。すんげぇ似合ってる。」

「ありがとう。」

私は素直に頷いた。それくらいこの口元のピアスは気にっていた。

「で、今日は何しに来たんだ?」

「キョウさんにまたピアスを開けてもらいに。」

一夜の顔が曇る。どうやら、まだ私にピアスを開けることを諦めていないらしい。

「言っておくけど、一夜は絶対ダメだから。」

「なんで~。」

「この間も言ったけど、絶対変な所に開けるから。」

「そんな事無いって。」

「絶対、ある。」

私は譲らない。いや、譲れない。これだけは。

 私が一夜と言い争っていると、いつの間にかキョウさんが来ていた。

「わぁ⁉な、なんだキョウさんか……。もう脅かさないでくださいッス。」

私も驚いて一瞬ビクッとなる。

「ごめん。」

「ほんとキョウさんは音もなく近づいてくるっスよね。もしかして、本職忍者とかっスカ?」

「いや、本職はピアス開け職人だよ。」

「なんスカそれ。」

一夜が笑いだす。それにつられて私も笑いだす。キョウさんだけがきょとんとしていた。

私はキョウさんに連れられてあの部屋に入る。 部屋はさっきまで誰かが居たのか妙に冷房が効いていた。

「で今日はどこに?」

「また、見えないとこでお願いします。」

「見えないところかぁ。後はどこに開けてないかなぁ。」

キョウさんがうーんと唸る。考えている姿もカッコいい。

「あ、そうだ。」

何かを思い出したように、キョウさんが言う。

「首なんてどう?」

「首……ですか…。」

「そう俺と、おそろい。」

そう言ってキョウさんは自分の長い襟足をかき上げて首元を見せてきた。そこにはきらりと光るピアスがあった。それがキラキラ光る首元がサイコーにセクシーだった。

「そこにします。」

「了解。」

見えないというのも魅力的だったが、そこに開けることを決めたのにはもう一つ理由があった。それはキョウさんとおそろいだという事。その言葉に私は恐ろしく惹かれた。

 キョウさんがニードルを準備する。

 キョウさんがいつもよりも至近距離に近づいてきて、私は正直失神しそうだった。キョウさんの細くて綺麗な指が私の首に触れる。

「綺麗な首だね。」

「あ、ありがとうございます。」

キョウさんがニードルを持ち、それを私の首に当てる。

「いくよ。」

「はい。」

ブスッ

痛みが私の全身を駆け巡る。その感覚が心地いい。

「これで、おそろいだね。」

キョウさんが微笑む。その顔に私は全身の細胞を震わせた。

「見えないと思うけど一応言うと、綺麗にできたよ。」

キョウさんが自慢げに言う。その顔がなんとも言えないほどに可愛らしかった。

 私達の間に沈黙が流れる。

 いつもの事だった。でもその日は私の気持ちに違いがあった。多分その日は、『おそろい』が出来て舞い上がっていたのだと思う。だから私はわざわざ沈黙を破って、

「なんでキョウさんは、この仕事をやってるんですか?」

と聞いてしまった。

『しまった』と思った時はもう遅かった。すでに口からは言葉は出きっていて、空気にフワフワと浮かんでいた。

「ご、ごめんなさい。急にそんな事言われても困りますよね。あの、その、これは実は宿題で…、って何言ってるんだろう私、と、とにかく、忘れて下さい!」

私はどうにかしてごまかそうとしたが、口はクルクルと勝手にまわり、冷や汗が噴き出た。もう何を言ってるか訳がわからなかった。

「ノリかな。」

「えっ。」

キョウさんがいきなり呟き、私は驚いた。

「始めたきっかけは、多分ノリかな……。俺の父親さ、わかるかな。彫師っていう職業だったんだけど、その影響で彫師になりたくて。頭も悪かったし、こんな見た目だしさ。それで彫師目指しながら、なんとなく高校卒業して、今なんとなくここにいる感じかな。」

 キョウさんは言い終わると恥ずかしそうに頭をかいた。

「どう宿題の答えにはなりそうかな。」

「……はい。」

私はぼんやりと答えた。なぜなら、こんなに真剣に答えてくれるとは思ってもいなかったから。私はキョウさんは人情にあふれる人だと感動した。

私はキョウさんと一緒に一夜のいるカウンターに向かった。カウンターでは一夜がうたた寝をしていた。

「おい一夜!」

キョウさんが一夜を叩き起こす。

「ふぇ!」

一夜が変な声を出して飛び起きる。その声が面白くて、私とキョウさんは笑い出した。


それからまた数日後、ちょうど夏休みが終わる一週間前の日。

 その日も私はピアススタジオに居た。

 この日も私はピアスを開けに来ていた。

 いつものようにカウンターで一夜と話す。

「なあ、こないだ開けたピアスどんな感じ?」

「ああ、これ?もう痛みはほとんどないけど、まだ安定はしていないかな。」

「俺も、また開けようかな……。なあ、開けるとしたら、どこがいいかな?」

「えー?」

私は一夜の顔をまじまじ見る。

「眉毛とか?」

「眉毛か……。」

一夜が自分の眉毛を触る。

「ってか、俺、夢華がこんなにもピアスにハマるなんて思わなかったわ。」

「私も。」

 確かに私自身も、こんなにはまるとは思っていなかった。もっと、徐々に熱が冷めていくように、穏やかに消えていくと思っていたのだ。しかし現実は違った。どんどんキョウさんと言う沼にはまっていく。もう私は抜け出せない所まで来てしまったのかもしれない。最近の私は寝ても覚めてもキョウさんの事ばかり考えている。ここまで来てしまってはもうどうすることもできない。後はもう、流れるように身を任せるしかない。それしかもう私に方法は残っていない。

 私はキョウさんとあの部屋に入る。そして、キョウさんは私に聞いた。

「今日はどこ開ける?」

「今日も、見えない所で、お願いします。」

私は椅子に乗って言った。

「夢華ちゃんが来たらオススメしたい部位があったんだよ。」

キョウさんがまたあのアルバムを取り出し、パラパラとめくった。

「お、あったあった。」

キョウさんが私に一枚の写真を見せる。

「へそピアス。」

そこには誰かのお腹が写っていた。そのお腹の中心にあるへそには金属が刺さっている。

 「夢華ちゃんのお姉ちゃんもへそピアスしてたよね。」

キョウさんが聞く。

「綾華ですか?」

「うん。」

「はい。してます。」

「じゃあ、おそろいだね。」

「……はい。」

その時、私は何も感じていなかった。同じ『おそろい』のはずなのに。それがとても不思議だった。

「どうする?」

キョウさんが優しく私に聞く。その顔がいつもながらに眩しい。

「はい。じゃあ、そこにします。」

私は言った。

 「じゃあ、いくよ。」

「はい。」

キョウさんが私のへそに軟膏を付けたニードルを刺す。かがんだキョウさんの旋毛が見える。

ブスッ

首とも唇とも全く違った痛みが私の全身を蝕む。

 私はその痛みを忘れないように集中していた。

 キョウさんがニードルを抜き、ピアスをはめ込む。穴がようやく完成形になったように感じる。

 キョウさんは片付けをし、私と共に部屋を出た。もう、慣れたものだ。

 カウンターでは一夜が雑誌を読んでいた。一夜が私達に気付く。

「どうだった?」

「痛かった。」

「当たり前だろ。穴開けてんだから。」

キョウさんが私達の話を聞きながら、煙草に火をつける。キョウさんが吐いた煙を吸ってるかと思うと、私は興奮した。

「キョウさん、俺の眉毛にピアス開けてくださいッス。」

「そんぐらい自分でやれ。」

私が支払いをし、店から出ようとすると、カウンターの方から、二人の声が聞こえた。私は何も思わず、そのまま出ようとすると、キョウさんが声をかけてきた。

「なあ、夢華ちゃん。」

「はい。」

私は振り返る。

「最近、綾華ちゃん見かけないんだけど、元気かなぁと思って。」

キョウさんが走って私の所へ来る。

「元気ですよ。でもなんか試験が近いとかで、大変みたいですけど。」

私がそう言うとキョウさんは安心したみたいにあからさまにホッと息をついた。

「じゃあ、気を付けて。」

「はい。」

私は気持ちがモヤモヤしたまま、店を後にした。

 その日の夜。私は久しぶりに姉にメールを送った。

『お姉ちゃんへ

私は最近ピアスを開けるのにはまってます。今は全部で六個開いています。お父さんにはもちろん内緒ですが、お母さんはこのことを知っています。だから、あんまり心配しないでください。私は不良になったわけじゃないので。

それから今日、私はへそピアスを開けました。お姉ちゃんと同じ位置です。これでおそろいですね。

試験が忙しいと思うけど体には気を付けて

               夢華より』

 そして私はベッドに入った。


 そんな日々を過ごしている内に、夏休みは終わり、新学期が始まる秋が来た。

 私はピアスがばれないようにするために、長そでを着、マスクをして、髪を下した。前髪はできるだけ厚くして、眉ピアスを隠した。そしてそのまま、ドキドキしながら登校した。

 学校に着き、教室へ向かう。教室では多くの人たちがわちゃわちゃと夏休みにあった事を話していた。お互いにお見上げを渡しあったり、自慢をしたりしている。私はその人たちの間をすり抜け、自分の席に座った。

「おはよう、夢華ちゃん。」

準備がひと段落し、本を読んでいると、私の幼馴染の堤玲奈が話しかけてきた。

「おはよう。」

玲奈はおっとりした性格で、肩までしかないふわんとした茶色の髪に丸い眼鏡をしていて、おばあちゃん譲りの青い目が特徴的なクオーターの女の子だった。

 玲奈とは幼稚園からの付き合いで、小中高と同じ学校だった。今はもしや大学まで同じにはならないよなと心配している。

 玲奈は私を見るとどうやらすぐに何かに気が付いたようで、私の顔をまじまじと見た。そして私のピアスに気付き、目をまん丸に開いて、驚いた。

「夢華ちゃん、その耳のヤツって……。」

「ああ、これ。ピアス。」

「ええーーーー‼」

「シーッ!声が大きい!」

玲奈はしまったという顔をして、サッと手で口を覆った。

「いつ開けたの?」

小さな声で玲奈が問う。

「夏休み中。」

「どうしたの?何かあったの?」

玲奈の顔が今にも泣きそうな顔になる。

「別に。興味があったから開けただけ。」

「校則違反だよ。大丈夫なの?」

「わかんない。」

「わかんないって……。」

「バレなきゃ大丈夫だよ。」

玲奈が心配そうにこっちを見ている。

 玲奈の心配性は幼いころからだった。備えあれば患いなしを素でやるような子で、常にカバンはパンパンだった。しかも、カバンからどんなものでも出していたので小学生の時のあだ名はドラえもんだった。

 「まさかほかにも……。」

「ほれ。」

私はマスクを外し、口周りのピアスを見せる。

「……どうしよう、夢華ちゃんが不良に……。」

「なってないよ。」

 ピアス=不良なんて考えはやめて欲しいものだ。まったく。

「そっか……。あれ、でも夢華ちゃんのお父さんって、ピアス嫌いじゃなかったっけ。」

「うん。だから今マスクとかで隠してる。」

「ふーん。」

玲奈は納得したようにうんうんと頷き、どうやら納得したみたいだ。

 そして話は世間話へと移り変わり、私たちはおしゃべりを続けた。しばらくしてHR開始のチャイムが鳴る。玲奈は名残惜しそうに自分の席に戻って行く。

 何も変わらないある日の朝。

 その日は特に何も起きなった。先生にピアスで怒られることもなく、気付かれることもなかった。まあ、玲奈には気づかれてしまったが。でも、キョウさんの言った通りだった。本当に気が付かれなかった。さすがキョウさんと言うべきか。

 実を言うと今日の朝、本当は学校に行かないつもりでいたのだ。ピアスがばれるのが怖かったから。そのことを昨日キョウさんに話したら、『大丈夫。夢華ちゃんは優等生だから大丈夫。』と、言ってくれた。その言葉が今日、私を学校に連れてきたといっても過言ではない。キョウさんはすごい。たった一言で、私を安心させてくれるのだから。

 キョウさんの言葉は魔法だ。きっとこの言葉を他の人が言ったのでは同じ効果は無かっただろう。キョウさんだから使える魔法。きっと、キョウさんが『空を飛べる。』と言ったら、私は本当に空を飛べるようになるだろう。

 家に帰る帰り道。電車に乗り、自分の家の最寄り駅まで本を読み時間を潰す。周りには色んな人がいる。時間はまだ三時ぐらいなので、OLやサラリーマンはいないが、お出かけ中の家族や病院帰りのように見られる老人、大学帰りの学生などがいて、朝のラッシュ時間には絶対見れないようなのんびりとした雰囲気が漂った景色が私の目の前に広がる。

 私はこの時間の電車が好きだ。まあ、朝のラッシュも嫌いではないが、この時間は特にゆっくり人間観察が出来て楽しい。まあ、人間観察と言うほどでもないのだが、この人たちにも家族がそれぞれいて皆、自分の人生があるんだろうなぁと思うのが楽しいのだ。そう思うと、なんだか生きているのが自分だけじゃない気がして、少し頑張ろうと思えてくる。人生の生き方を、もっと考えたいと思えるようになる。その感覚が好きなのだった。

 家に着き、制服を脱いで、部屋着に着替え今日出された課題をやる。

 部屋の中にシャーペンが動く音だけがする。

 私はふと耳たぶのピアスを触った。

 私が初めて開けたピアス。私の初めてを捧げたピアス。穴はほとんど定着し、もう痛くもなんともない。形だけが残り、痛みがない。まるで宙ぶらりんに吊るされた死体みたいだ。きっとこの穴はもう死んでいる。

 外すべきなのか、そのままにすべきなのか。悩ましい所だ。確かにピアスホールも愛の一部だ。だから、他のホールは絶対に閉じたりしない。だが、このホールは違う。一度失敗してしまったものだ。ここに新しい愛を付けるか、そのままか。

 私は悩んだ結果、結局そのままにすることにした。やっぱりこれも愛の一部だと思ったからだった。


 次の日、私は学校に行った。

 何も変わらずに過ぎていく毎日。怒られることも、止められることもなく、ただ過ぎていく日々。刺激もなく、かといって退屈でもないそんな日々を私はキョウさんに会えない数日過ごしていた。

 行けない理由は簡単だ。お金がないから。本当はもっとピアスを開けたいし、もっとキョウさんに会いたい。だが、お金がない。もう、今月の分は前借してしまったし、姉にはもうたくさんの貸しがある。父に借りれば、あとで何に使ったかしつこく聞かれるだろう。だから私は歯を食いしばって、来月まで我慢するしかないのだ。

 はぁ、キョウさんに会いたい。

 しかし幸か不幸か、時間は止まるというものを知らない。常に動き続けている。つまり、いつかはキョウさんに会える日が必ず来るということだ。私はそれまで絶対死ねないと思った。

 そして時は九月半ばになろうとしていた時の事だった。いきなり、私は相談したいことがあると、玲奈から電話がきた。

「で、相談って言うのは?」

「実は……実はね、夢華ちゃんにお願いがあって。」

「何?」

玲奈は何やらモゴモゴ電話の向こうで言っている。

「何?聞こえない。」

「あっ、ごめん。あ、あのね……。」

「うん。」

「……夢華ちゃんにピアスを開けて欲しいの。」

「えっ?」

「あ、あのね、私、夢華ちゃんのピアスを見てすごくいいなって思って、それで開けて欲しいの。」

「……ごめん。私、これ自分で開けてない。」

「えっ。」

「そういう専門の店で開けた。」

「そう…なんだ……。」

玲奈が電話の向こうで黙る。

「もし、本当に開けたいのなら、連れて行ってあげようか?」

「…いいの?」

「もちろん。」

「じゃあ、来週の土曜日って開いてる?」

「うん。じゃあその日の十二時くらいに学校前で。」

「うん。じゃーね。」

玲奈との電話が切れる。

 来週の土曜日に、キョウさんに会える!

 私は来週の土曜日が待ち遠しく思った。


 そして待ちに待った土曜日。

 私たちは学校に集合し、電車を乗り継いで、キョウさんのいるピアススタジオに向かった。

 ピアススタジオは何も変わらず営業していた。誰も座っていない待合室の椅子。ほこりが少し被った商品棚。カウンターで寝ている一夜。いつもの光景。

 私は一夜を起こした。

「ねえねえ。」

「ん?ふわぁー。」

一夜が眠そうに起きる。

「って、夢華じゃん。どうした?」

「ピアス開けに来た。」

「おっ、やっと俺に開けさせてくれる気になったのか?」

「違う違う。私じゃなくて、開けるのはこっち。」

私は、私の後ろに隠れていた玲奈を指さす。一夜は覗き込むように玲奈を見る。

「新規?夢華の友達?」

「うん。」

「ふーん。また、優等生っぽい子だな。」

玲奈が一礼を一夜向かってする。

「じゃあ、キョウさん呼んでくるから、待ってて。」

「うん。」

私たちは一夜がキョウさんを呼びに行ってる間、カウンターの近くにあった椅子に座って待つことにした。カウンターの上には聞いたこともないような怪しげな雑誌が積まれていた。私はその一冊を手に取って、パラパラとめくった。

 「こんな所があったんだね。」

突然、玲奈が口を開いた。

「知らなかった。」

「私もお姉ちゃんに連れてこられるまで知らなかった。」

 あの日、姉にここまで連れてこられた日。もしあの時姉の誘いを断っていたら、私が用事で家にいなかったら、ここに来ることもなかったのだろうか。キョウさんに会うこともなかったのだろうか。そんな考えが頭をよぎる。

「なんかさ、知らないことを知った時って、自分ってまだまだ子供だったんだなぁって思わない?」

「どういう事?」

「私達って、来年には十八歳になって成人になるでしょ。だからかな。最近、自分が大人になったような気がするの。」

「ふーん。」

「でもね、知らないことを知るとさ、『ああ、私はまだまだ子供なんだな』って思う。」

「大人って何だろうね。」

「わからない。」

玲奈が首を横に振る。

「私達は子供なのかな。」

「わからない。」

「なんでこんな真面目な話してるんだろう。」

私達はそこで笑いあった。なんだかとても面白くて。楽しくて。

 でも確かに、大人と子供の違いって何なんだろう。体が大きいこと?働けること?煙草やお酒を窘めること?色々違いはありそうだけど、きっと時の境目となる、ただ一つの証拠はないだろう。だから、子供はあっという間に大人になってしまうのかもしれない。

 そんなことを考えている内に一夜はキョウさんを連れてきた。どうやらキョウさんもどこかで仮眠をとっていたらしく眠そうに目を擦っている。

「どうしたの?夢華ちゃん。」

「キョウさん、おはようございます。今日はこの子のピアスを開けに来ました。」

「友達?」

「はい。」

「そっか。」

キョウさんが欠伸を一つする。

「君、名前は?」

「わた、私の名前は、堤玲奈です。」

「玲奈ちゃんね。」

キョウさんが玲奈を見る。玲奈もキョウさんを見る。混ざり合う視線。

 気に入らない。

 二人が、あの部屋に消えていく。あの薄暗い実験室に。その場には一夜と私だけになった。

 なんだか気に入らない。私の胸はモヤモヤしていた。さっきまでキョウさんに会えてあんなに嬉しかったのに、私は気が付いたら嫉妬をしていた。何が気に入らないのか私にはわからない。自分の事なのに不思議だ。

 玲奈はいい友達だ。そうでなくちゃ、幼稚園から一緒に居たりなんかしない。そして、キョウさんみたいな見た目の人が玲奈が一番苦手とする人であることは私がよく知っている。それなのにものすごく、不安なのだ。キョウさんを玲奈に取られてしまうのではないかと。もちろん玲奈のことは信じている。しかし、どうしても気になってしまうのだ。あの部屋の中で今、何が行われているのか。あの空間の中でキョウさんは何を思っているのか。

 私がしばらく部屋の扉を眺めていると、突然一夜が話しかけてきた。

「なあ、来週の日曜日って開いてるか?」

「え?」

「実はさ、俺のおふくろが知り合いから水族館の入場券貰ったんだけど、おふくろが要らないらしいんだ。だから、もしよかったら一緒にどうかなって。」

確かその日は何の予定もなかったはずだ。

「いいよ。」

「ほんとか!」

一夜が解りやすく喜ぶ。水族館が好きなんだろうか。

「じゃあ、十時にこの店でいいか?」

スマホで一夜が駅前にあるカフェの写真を私に見せる。私は頷いた。

 そんな話をしている内に二人が帰ってきた。玲奈の目にはうっすらと涙が滲んでいる。

「玲奈、どうだった?」

「ちょっと痛かった。」

「そっか。」

玲奈が私に耳たぶを見せるように顔を横に向ける。髪をかき上げ、彼女の綺麗な形の耳が露になる。

 お金を払って、私たちは店を出た。外は少し薄暗く、もうすっかり秋って感じだ。駅に続く並木道の木はもうすっかり黄色や赤に変わり、緑だった頃の面影は一切ない。だがあの夏特有の暑さはまだ少し残っていた。

 私たちは二人並んで帰る。

「ねえ、ピアス開けてみてどうだった?」

私は玲奈に聞いた。

「どうって、痛かった。」

「それだけ?」

「うん。」

玲奈が頷く。

「あ、でも、なんか少しだけ大人になれた気がするよ。」

「なんで?」

「よくはわからないけど、知ってることが増えたからかな。」

玲奈は少し誇らしげに言う。

「……あのさ、夢華ちゃん。私、ちょっと考えてみたんだけどね…。」

「何を?」

「大人の定義。」

玲奈は静かに言った。その横顔が太陽に照らされて、まるで物語の主人公のように光輝いている。

「明確な数はわからないけど、大人か子供の違いってどれだけ物事を知ってるかじゃないのかな。」

 私は玲奈の言葉を聞いて納得した。確かにそうなのかもしれない。だって、私は今まで一度も、父に話し合いで勝てたことがない。それは父が多くの言葉を知っているからだ。母にだって料理も掃除も家事も何も勝てない。きっと、知っていることに偏りはあるかもしれないが大人ってそういう物なんだろう。何でも知っていて、子供より経験豊富で、なんでも出来る。そんな人間を、私達は『大人』と呼ぶのかもしれない。

 「私は大人になれるのかな?」

「大丈夫。なれるよ。だって、少なくとも『ピアスは痛い』ってことを知ってるんだから。」

「うん。そうだね。」

 駅の改札に着き、私達は駅に入る。

「じゃあ、私こっちだから。」

「バイバイ。」

ホームで別れ、私達は別々の電車に乗り込んだ。

 なぜ幼馴染なのに違う電車に乗るのかと、不思議に思う人もいるかもしれないが、それは玲奈が中三の冬に引っ越しをしたからである。離婚が原因だった。私も人伝にしか聞いていないので、本当かどうか定かではないが、どうやら、母親が浮気をし、出ていったらしい。そこで二人で住むのに一軒家はでかいからと、引っ越しをしたんだそうだ。しかし、引っ越しをしても学校が同じになるとは、腐れ縁とは恐ろしい。

 私は電車に乗り込み、席に座った。土曜日だからか、人はいつもより少ない気がする。

 私は窓の外を眺めた。外には数えきれないほどのビルや店が並んでいる。

 私はその景色を眺めながら、キョウさんのことを思った。今は、どこで何をしているのだろう。寝ているのか。起きているのか。誰かの体に穴を開けているのか。もっともっと、キョウさんのことが知りたい。もっともっと、キョウさんのことをわかりたい。足の先から頭の頂点まで。過去に経験したことも、今思っていることも、これから感じることも。全てを知りたい。全部を知りたい。もっともっと、キョウさんから愛を貰いたい。

 私はふと、あのポスターのことを思い出した。あの女性器にピアスが刺さったあのポスター。そして私は思いついたのだ。どうすれば、キョウさんからの愛を独り占めできるか。キョウさんの思考を独占できるか。

 私もピアスを開けよう。

 来月、お小遣いが入ったら、私は女性器にピアスを開ける。そう心に誓った。

 十月まであと、一週間と三日。


 それから私は毎日何も変わらず、学校に行った。ただ、それだけの日々だった。先生にピアスが見つかることもなく、玲奈が怒られてその火の粉が私に飛び火することもなく、私は只々毎日を普通に過ごした。

 毎日が退屈だった。ピアスの痛みはもうとっくの昔に無くなっていたし、全てのホールも安定していた。気が付けばもう一か月近くピアスを開けていない。それがとてつもなく許せず、とてつもなく悲しかった。寂しかった。キョウさんと最後にあった土曜日が懐かしい。あれからまだ一週間も経っていないのにもうずいぶん昔の事のような気がしてならない。ああ、早く会いたい。

 そんな日々を送っていた矢先、ある大事件が発生した。その大事件は、久しぶりに帰ってきた姉の一言から始まった。

「ねえ、皆。ちょっと話があるんだけど。」

それは食後、リビングでゆっくりしていた時だった。いつも以上に真剣な顔をした姉が静かに言った。その言葉を聞いて、ただ事ではないと悟った母が、何も言わずに父の隣に座った。私も姉の隣に座る。

「どうしたんだ。」

最初に口を開いたのは父だった。それに姉は何の反応も示さず、ただ一つ深呼吸をした。そして自分のペースで話し出した。

「私、妊娠した。」

ただ静かに、しかしはっきりと、姉は確かにそう言った。

 姉の言葉に返答するようにリビングが静かになる。

「誰と。」

父がポツリと言う。その声はどこか悲しげだった。

「今の彼氏。」

「その人を、今すぐ連れてきなさい。」

いつもと同じ厳しい声がリビングに響く。

「無理。」

「なんでだ。」

「だって、その人と会ったら、喧嘩するでしょ。」

姉は父を真っ直ぐ見ていた。父もそれに応えるように姉を真っ直ぐ見る。

「当たり前だ。自分の娘を傷つけられたのだからな。」

「私、傷ついてないんですけど。」

「……とにかく、その人を連れてきなさい。」

「やだ。」

その場がどんどん凍り付いていくのが解った。

 その後は、もう大変だった。父の『連れてこい』攻撃と姉の『嫌だ。』攻撃がぶつかり合い、お互いがお互いの意見を譲らず、結局姉の家出で喧嘩は収束した。

 母は父と姉が喧嘩している間は何も言わず、姉が家を出ていこうとしたときに、

「これからどうするの。」

とだけ言った。それに対して姉は、

「この子は産む。学校は休学する。三人には迷惑かけないから。」

とだけ、ポツリと言った。

「そう。……体に気を付けてね。」

それは母が出ていく姉にいつも言っていた言葉だった。その言葉に姉は何も言わなかった。ただ、出ていった後ろ姿だけが寂しそうだった。

 姉は私に罵声も祝福も言わせずに、姿を晦ました。

 その日の夜、私は姉との思い出を夢見た。私がまだ小学生ぐらいの時で、姉が中学生になりたての時の夢。私達は二人で、自電車に乗って海に出かけた。その時はまだ五月頃で海には到底入れない季節だったのに、姉がある日の昼下がり、いきなり私の手を掴んで、

「出かけよう。」

と言った。私は訳の分からないまま、出かける準備をし、姉の後を追って自電車に乗った。

 今思えば、私はずーっと姉の背中を追いかけてばかりの子供だった。姉がどこかに出かけるときは必ず着いて行かないと気が済まなかったし、そこに誰が居ようとも、例え私の知らない人しかいなくても姉が居ればそんなことはどうでもよかった。だから姉は、私に気付かれないように出かけるのが大変だったらしい。

 姉はいつも手を変え品を変えて、時には私を騙して、私を家に置いて行った。小さい頃、私は家に置いていかれると必ず泣きながら姉を探し、見つからないと、グスグス言いながら、玄関で座って、姉を待っていたらしい。

 そんな姉が私を初めてお出かけに誘った。その出来事が私はとてつもなく嬉しかった。

 その時の姉は、友達と海に行ったばっかりで、そのことを自慢したかっただけだったのかもしれない。でも、私にとってそれは、ものすごい冒険だった。

 姉の大きな自電車に私の小さな自転車が付いていく。私の横を気持ちのいい風が過ぎ去っていく。姉のスピードが上がった。

「待ってよぅ。お姉ちゃーん!」

姉はどんどんスピードを上げていく。その背中がどんどん小さくなっていく。私もスピードを上げた。

「ハァハァハァ……。」

しかし、姉には追い付かない。姉の自転車が小さくなっていく。

 と、私はそこで目が覚めた。体はびっしょりと汗をかき、息があがっている。

 私は泣いていた。

 それをかき消そうと私は、バスタオルを頭から被って寝た。


 そして時は経ち、いつの間にか日付は、一夜と水族館に行く日になっていた。


 その日、私は白いワンピースを着て出かけた。

 白いワンピースに口元のピアスはあまりにアンバランスで、出かける直前に鏡を見た時、吹き出してしまった。

 集合場所に着くと、まだ集合時間の二十分前だというのに、一夜が待っていた。

「早くない?何時から居たの?」

「うーん、大体一時間前くらいかな。」

一夜が恥ずかしそうに笑う。

「楽しみだったから、早く来ちゃった。」

「私も。」

 私達はそのまま電車に乗った。どうやら、その水族館は海辺の方にあるらしい。私達は海行きの電車に乗った。

 電車内は日曜日の朝だからか人は多く、そのほとんどが家族連れだった。

「夢華はさあ、家族でどこか行ったことある?」

「あるよ。なんで?」

一夜は何かを懐かしむような目で、流れる風景を見ながら言った。

「俺さ、すんげー小さい頃、一回だけ家族で旅行したことがあってさ。海に行ったんだけど、その海がめちゃくちゃ綺麗で。小さかったからどこに行ったとか、何したとかはあんまりはっきりとは覚えてないんだけど、でも楽しかったんだ。」

「そっか。」

窓の外で景色が流れる。まるで時間を早送りしてるみたいに。

 人が乗ってきて、降りて、また乗ってきて、降りて。それを何回も繰り返して、気が付けば知らない、聞いたこともない駅名がアナウンスで流れている。

 見たことない駅。聞いたことない音。知らない町。いつの間にかタイムスリップをしていても私達はきっと気が付かないだろう。

 目的地にたどり着き、私達は電車を降り、バスに乗り換える。移動中私達は、他愛もない話をした。小さい頃、好きだったものとか、最近あった事とか、今学校で流行ってるものとか。そんな、記憶にも残らない何でもない話。

 十分くらいバスに揺られ、私達はようやく、水族館にたどり着いた。

 入場口でチケットを渡し、中に入る。

「何から見る?」

「うーん。とりあえず案内板に沿って、歩こうよ。」

「うん。」

私達は館内を歩きながら、多くの種類の魚を見た。タラ、ベラ、スズキに、キンメダイ。アンコウ、カレイに、サメ、アロワナ。タツノオトシゴ、フグ、エイ、クラゲ。そしてペンギン。ほかにも数えきれないほどの魚たちが優雅に舞を踊るかのように、泳いでいた。

 中でも一番すごかったのは、イルカのショーだった。美しい形をしたイルカたちが、各々が迫力満点の演技をし、観客たちの視線を集めた。

「すごいな。」

「うん。」

その圧倒的な演技力に、私達は圧倒された。ただただ息をのみ、そのイルカたちの鰭から生み出されるジャンプ力や、力に見惚れた。

 気が付くと時間は十七時をまわっていた。

 何時間くらいここに居たのだろう。正直、魚なんてすぐに見飽きると思っていたのに、そんなことは全然なかった。

 同じ種類でも個体によって、体のお模様が違ったり、一瞬ごとに変わる動きがとても面白く、何時間見ていても飽きなかった。

「そろそろ、帰ろうか。」

「うん。」

一夜の一言に、私は多少の不満はあったが、明日も予定があるので、帰ることにした。

 帰りの電車に乗る。両手にはお土産がたくさん握られている。

 楽しかった。

 日曜日の夕方だからか、ここが田舎だからか、ほとんど人は乗っていない。

「家まで送るよ。」

「いいよ、遠いし。」

「ううん。送る。」

一夜が頑なに譲らないので、私はその言葉に甘えることにした。

 電車がどんどん知ってる駅に近づいていく。今度はまるで巻き戻しをしているみたいだ。このまま、過去に行けないものかとさえ思ってしまう。

 私がもし、過去に戻れたら何をするだろう。いや、そんなの決まっている。キョウさんに会いに行く。私が知らない頃のキョウさんに。そしてもっとピアスを開けてもらうんだ。より痛いところに。愛をこめて。

 「ねえ、一夜。」

「ん?何?」

「もし、タイムスリップできるとしたら、どこの時代に行きたい?」

「タイムスリップ?」

「うん。」

私の突然の問いに真剣に考えてくれる一夜。一夜は目を瞑り、唸っている。

「そうだな……。俺のおふくろが俺の親父に出会う前に遡って、親父を殺すかな。」

「えっ……。」

予想していなかった返答に私は固まる。

「俺の親父さ、分け合って今ムショにいるんだ。まあ、当然悪いことしたからなんだけど、それがとんでもなくひどいことで、そのせいでおふくろも壊れちまってさ。おふくろはさ、優しいから親父のことを許してるんだけど、俺はどうしても許せないんだよな。」

「だから……。」

「うん。だから、事件が起きる前に親父を殺して、おふくろには幸せになってもらう。それで例え、自分が生まれなかったとしても。」

一夜の目は真剣だった。きっと、何度も考えてきたことだったんだろう。こんなもしもの話に真剣になるくらい、話題に出すくらい、日々考えてきたことだったんだろう。

「ごめん。暗い話して。」

「こっちこそ、聞いてごめん。」

 私はまた窓の外を見た。相変わらず窓の外には流れるように過ぎていくビルしかない。

 人を殺したいなんて、考えたこともなかった。私は、一夜と同じ立場になったとき、一夜と同じ選択をするだろうか。

『親父を殺す。』

さっき一夜が言った言葉が頭から離れない。父親を殺したいってどんな気持ちなんだろう。私には想像がつかない。いや、つかない方がいいのかな。もしかしたら、姉にならわかるだろうか。父を殺したい気持ちが。それとも姉にもわからないだろうか。

 最近は、キョウさんのことはあまり考えなくなっていた。その代わりに、姉の事ばかり考えるようになっていた。今日の水族館も姉のことを何度も思い出し、そのたびに胸の奥が締め付けられるような悲しい気持ちになった。

 私はもう二度と姉には会えないのだろうか。絶対ではないが、なぜだかそんなような気がする。も二度と会えないようなそんな気が。あの時、言っておけばよかったのかもしれない。引き留めてでも、伝えればよかったかもしれない。

『ありがとう。』

って。そんな後悔が常に私の胸を縛っていた。

 その縛りはいつ、ほどけるのだろう。

 私の家の最寄り駅に着き、二人で降りる。時間はそれほど遅くないのに、駅から家に帰る道には人も車も無かった。ただ寂しく、街灯がポツンと付いているだけだった。

 私達は歩いた。

 家の近くの公園の前に来た時、いきなり一夜が私の名前を呼んだ。

「夢華。」

「何?」

「なあ、ちょっとブランコ乗ろうぜ。」

 一夜の提案に私は頷いた。

 私達はブランコを漕いだ。より高く、高くなるように。

 まるで小さい頃に戻ったみたいだ。あの頃は良かった。まだ、何も知らない純粋無垢な頃。全てが光に包まれていて穢れなんか知らなかった頃。その時の私にはきっと想像できなかった今なんて無かった頃。最高に幸せだった頃。

「昔に戻りたい。」

私はポツリとつぶやいた。

「俺も。」

私達は笑いあった。なんだか楽しくなって。なんだか笑いたくなって。

「私、こんなに笑ったの久しぶりかも。」

「うん。」

 公園にある時計を見るとちょうど十九時を示したところだった。

 「なあ、夢華。」

突然、一夜が言った。

「ん?」

「……俺さ、本当はお前に話さなきゃいけないことがあるんだ。」

「何?」

一夜の顔が真剣になる。さっきのもしもの話をしたときみたいに。

「本当は言わない方がいいことはわかってる。でもこのままじゃ、俺が嫌なんだ。」

「うん。」

「いやなことを思い出させたらごめん。」

「えっ?何のこと?」

「……さっき、俺の親父の話したじゃんか。」

「うん。」

「その親父の罪状の事なんだけど……。」

「うん。」

「強姦で捕まったんだ。うちの親父。」

その時、一瞬時が止まった。ように感じた。

 私の中の何かが動く。

「俺の親父教師だったんだけど、その時担当だったクラスの女の子をレイプしたんだって。それも何回も。女の子は当時八歳だった。もう十年くらい前の話になるけどね。キモイだろ。いい年したおっさんが、何十歳も離れた子供に欲情して。同じくらいの子供が自分にもいるのにさ。本当、笑える話だよ。」

その話を聞いて私は何も言えなかった。

冷たい空気が私の頬を撫でた。

「親父が捕まってからは地獄だったよ。色んな奴らに後ろ指さされて、笑われて、バカにされて。毎日が地獄だった。」

「なんで、それを私に話したの?」

純粋に疑問だった。その話を私にするメリットが私にはわからなかった。

「そうだね。そのせいで、引っ越さなきゃいけなくなったし、知ってる人はできるだけ少ない方がいい。」

そうだ。そのはずだ。少なければ少ないほど、噂は広がらないし、何かを言われる回数も減る。でも、なぜ、それを私に言ったの?

「……君なんだ……。」

「えっ。」

「レイプされた子の名前は佐々野夢華。……つまり、君なんだ。」

その時、私の全身の毛が逆立ち、細胞たちがざわめきだした。

「ずっと、謝りたかった。親父がしたこと。俺が謝ってどうすんだって、ただの自己満足にしかならないけど、どうしても言いたかった。」

「……。」

「ごめん。」

一夜が深々と頭を下げる。

 その瞬間私は思い出した。あの年にあった一つのことを。絶対に忘れちゃいけない、あの思い出のことを。


 そうあれは私が八歳、小学二年生の時の話。




 あの時、私はどうしようもないバカで、どうしよもないくらいに純粋だった。


 最初、藤宮先生の印象は優しい先生だった。よほどのことが無ければ怒らないし、いつもにこにこしているしで、生徒からものすごい人気がある先生だった。また、保護者に対する対応も完璧で保護者からも好かれているいい先生だった。だから誰も気が付かなかったんだ。先生の闇に。

 私は小学二年生の時は、学級委員長だった。だが、年齢が低かったこともあり、大抵の仕事は雑務ばかりで、みんなをまとめたり、何かをしたりする役ではなく、先生の仕事の手伝いが主だった。

 その日も先生に頼まれたプリントを自分のクラスに運んで行った。

 先生は自分の席で大量のプリントとにらめっこをしていた。

「先生、プリント持ってきました。」

「ああ、ありがとう、佐々野。

先生は顔を上げ言った。

 その顔がものすごく疲れていた顔だったのをすごく覚えている。だから私は、

「先生、疲れてるんですか?」

と言った。

「ん?先生は疲れてないよ。大丈夫。」

先生は『ほら』と言わんばかりに力こぶしを作り、私に見せる。先生の二の腕の所がぷくりと盛り上がる。

「先生、嘘はだめですよ。疲れた時は疲れたって言わないと。」

「っ……。」

先生は一瞬顔を歪ませた。まるで我慢していた何かが溢れ出したみたいに。

「先生?」

「本当に大丈夫だよ。さぁ、そろそろ帰りなさい。」

「はーい。」

 その時、私はまだ知らなかった。言葉の重みと言う物を。言葉が持ってる魔法の力を。まだ知らないくらい、私は純粋だった。

 それから数日も経たないうちに、事態は私の想像を超えた結末へと動いて行った。


 また別のある日。金曜日の放課後だったと思う。その日も私は先生から頼まれたプリント制作を一緒にやっていた時だった。

 今まで黙っていた先生が口を開いた。

「佐々野はさあ、先生の事好き?」

「うん。もちろん。」

 私はこの言葉の本当の意味がわかっていなかった。ただ純粋に『好き』か『嫌い』かの二択になったとき、嫌いではないことは確かだったから、私は『好き』と答えた。

「そうか。」

先生は静かに答えた。その横顔がどこか寂しげで、どこか嬉しそうで、とても怖かったことを良く覚えている。

「先生、佐々野に見せたいものがあるんだ。」

「私に?」

「そう。佐々野は特別だから。」

 その時私は『特別』という言葉にとても惹かれた。まるでこの世界で私だけなのだと言われているようで、とても嬉しかった。そんなの初めてだったのだ。そんな風に言われたのは。そんな風に思われたのは。だからだったのかもしれない。私が先生の言葉を真剣に聞いてしまったのは。

「じゃあ、プリント作成が終わったら、荷物を持って、体育館倉庫においで。先生は先に行ってるから。」

そう言って先生は教室から出る準備を始めてしまった。私の頭の中は?でいっぱいだった。

 なんで体育館倉庫なんだろう?

 そんな私を気にせず、教室から出ていこうとしていた先生が振り返り、私に尋ねる。

「佐々野は、先生の事、好き?」

まるで何かを確かめるみたいに。

「うん。」

私は頷いた。それを見た先生は安心したように、教室を出て行った。

 しばらくして、プリント作成が終わった私は先生に言われた通りに、体育館倉庫に向かった。体育館倉庫には先生が居た。私が倉庫に入ると先生は倉庫のカギを閉めた。

ガチャン。

かび臭い匂いが私の鼻を空気くすぐる。

「もし、先生の事本当に好きなら、逃げちゃだめだよ。」

「?」

すると突然、先生が私にキスをしてきた。突然のことで、私の体は固まる。

「逃げないんだね。」

先生はキスを続けた。額、頬、鼻、唇……。私の顔中にキスをしていく先生。私の体はまだ動かない。

「佐々野、口開けて。」

体の動かない私は先生の命令に何もできなかった。代わりに先生が私の顎を下に下げて、私に口を開けさせる。

 先生が開けさせた口の隙間から何か生温かいものが入って来る。

「⁉」

舌だ。それは先生の舌だった。先生の舌が私の口の中を蹂躙する。口の中で蠢くそれはまるでナメクジのようで、私は吐き気を覚えた。しかし、先生の舌は止まらない。

 静かな倉庫の中に水音が響く。

 私は息が出来なくなり、酸欠状態になる。

 苦しい。

 それでも、先生の口は離れない。

「せんせっ……。苦しっ……。」

「あ、ごめんね。」

ようやく先生の口が離れ。私は大きく息を吸い込む。

「ゴホッゴホゴホッ……。」

「佐々野、キスをするときは、鼻で息をするんだよ。」

先生が優しく言う。だが、その言葉は、私の耳には入っていない。

「じゃあ、佐々野。こっちに来て。」

まわらない頭で私は先生の言葉に従う。

 先生は私を自分の膝の上に乗せ、私を抱えた。

「?」

その行為は私にとってわからないことだらけだった。

 先生はまず自分の指を唾液で濡らしそれを私の口の中に突っ込んだ。

「⁉」

「大丈夫。ジッとしてれば終わるからな。」

訳も分からぬまま口の中で指は動き、先生のもう片方の手は私の足を触る。そして徐々にその手は私のスカートの中に入っていき、私の下着を剥ぎ取った。

 声も出せない状態で、その行為は続けられた。

 そして先生は私の唾液で濡れた指を私の股の下へと持っていく。

「???」

「大丈夫。大丈夫。」

先生は私の頭を優しくなでた。

 その瞬間、先生の指が私の中に入った。

「⁉」

「佐々野、息して。」



先生の指が私の中にズブズブと入り込み、私の中で動く。

「せ、先生!」

私は怖くなって、先生に助けを求める。しかし、先生は続けた。

「大丈夫、大丈夫だから。」

私の中で動く指は私のお腹を押し広げるように中でひっきりなしに動く。そしてその指で拡げられる広さの上限を超えると、指は増え、また私のお腹を押し広げる。

 もう何が何だかわからなかった。ただお腹に溜まっていく気持ち悪さと、不快感が私を苦しめ、余計に私の思考を鈍らせる。

 先生は一体何をしているの……?

 コリッ

 突然、私のお腹の中にあった何かに先生の指が触れ、背中に電撃が走る。私の体は後ろに仰け反る。

「???」

「ここが、佐々野のいい所か。」

先生は私の中を押し広げるのをやめ、私の体が仰け反る所を押し続ける。

「やだ!やだやだっ!先生っ!」

「うんうん。気持ちいな、佐々野。」

私がいくら先生に助けを求めても先生はやめない。

 私は訳が分からないまま、その行為を受け止めるしかなかった。いつの間にか私の目には涙が浮かび、口からは唾液が零れている。

 私の前にいる人は誰……?本当に先生?

 それから十数分ぐらいたった頃だろうか。その頃には私は疲れ切っていて、もう抵抗もできなくなっていた。ただただ、涙を流してその行為に身を任せていた。

 すると先生がいきなり、自分のズボンを脱ぎだし、その姿を露にした。

「せ、先生何、してるの……?」

「ん?今から、これを佐々野の中に入れるんだよ。」

その瞬間、私の背筋に悪寒が走る。

 逃げなきゃ。

 全身の毛が逆立ち、体中の神経が危険信号を出した。体は極度の緊張状態になり、全体の筋肉が硬直する。

 私は全身をバタつかせ、先生から逃げようとした。しかし先生は私をがっちりとホールドし、私を離さない。

「ごめん。ごめんね。怖いよね。でも大丈夫だから。気持ちいいだけだから。」

先生が私を捕まえながら、私の耳元で囁く。

 そして徐々に先生のモノが私の中に入っていく。

「痛い!痛い痛いよお!先生っ!」

先生はかまわず、私の中に入っていく。私のお腹が膨れ上がっていく。

「先生っ、やめて!やめて!」

「佐々野、ちょっと静かにしような。」

先生が私の口の中にハンカチを詰めて私を喋れなくする。私はその状況に幼いながら絶望を感じ、ただもう何をするでもなく、全身の力を抜き、全てのことに身を任せた。

 先生が私の中に入ってきて、数分。先生は自分のものを私の中でなじませようと、しばらくは動かなかった。ただずっとその間、私にずっとキスをしていた。まるで本当に私を愛しているかのように。

 私の指を舐め、私の額にキスをし、私を抱きしめる。私はその感覚がなぜかすごく心地よくて、また涙を流す。

 そして先生は優しく腰を振った。ゆっくりとゆっくりと慎重に。私は先生のモノが壁にぶつかるたびに体を仰け反らせ、喘いだ。もちろん、口は塞がれているから、大きい声ではなかったがその吐息や生々しい水音が、倉庫に響きわたる。

「佐々野、痛い?」

私は泣きながら頷いた。先生は私の涙を拭い、

「佐々野、いいか。愛っていうのは、痛みから生まれるんだよ。本気でお互いがぶつかり合うから、本気でお互いが一番傷つきやすい所を見せ合うから、痛いんだ。」

 そうか、これが愛ってものなんだ。痛いは愛なんだ。じゃあ、先生は私を愛してるのかな?

 先生はその行為を続けた。ゆっくりゆっくりと。そして、私の中で果てた。

 先生のモノが引き抜かれ、私の中から、白い愛情が零れ落ちる。

 先生は私の口に押し込まれたハンカチを取り出し、私を離した。私は近くの椅子に座らされる。

「佐々野は先生の事好き?」

先生が悲しそうに言った。その顔がすごく痛そうで、可愛そうで、私は思わず、

「私、先生の事好きだよ。嫌いじゃない。」

と言った。

 先生はその場で、涙を流した。

私は初めて大人の人が無く姿を見た。その姿は私達が泣くのとはなんだか違うような気がした。もっとこう、重みがあるような感じがした。

 私にはなぜ先生が泣いているのか私にはわからなかった。


 こうして、私と先生の誰にも知られてはいけない関係が始まった。

 先生はいつも私に言っていた。

「佐々野、絶対にこの事は誰にも言っちゃいけないよ。」

「どうして?」

「先生は、佐々野に嫌がる事をしちゃったから、もしそれがバレたら先生は佐々野ともう会えなくなっちゃうんだ。」

「先生は何もしてないよ。」

「しちゃったんだよ。」

先生は悲しそうにそう言った。

 先生はいつも苦しそうだった。特に交わった後はその苦しさが増すようで、いつも何かを我慢するみたいに泣いていた。

先生はいつもこの関係をまるで壊れモノを扱うみたいに、大切にしていた。多分、先生にはこの関係がいかに脆く、壊れやすく、そしてお互いが傷つきやすいのか知っていたんだと思う。しかし、この時私は、この関係がいかに脆く、壊れやすいものか、いかに人に理解されない関係なのかがわかっていなかった。その差が、また先生を苦しめた。

まだ、『好き』も『愛してる』も知らない子供だった。ただ、先生に『特別』と言われたことが嬉しくて、ただただ嬉しくて。その行為がどれほどいけないことなのか理解する頭すら、私は持ち合わせていなかった。

 今考えれば、洗脳に近いものが無かったとは断言はできない。しかし、あの時は子供ながらに本当に先生のことを愛していたのだ。誰が何と言おうと。絶対に。


 先生はいつも秘め事が終わるたびに泣いていた。

「帰りたくないなぁ。」

と呟きながら。それに対して私はいつも

「どこに?」

と聞いていた。そして先生は決まって、

「現実に。」

学校にいるときは吸っていない煙草を吹かしながら言うのだった。


 先生は学校の内と外で全然違う人だった。学校内では優しくて強くて頼りがいのある先生だったが、私と二人になったときは弱音ばかり吐くただの大人だった。それが先生の本当の姿だったのかもしれない。

 先生はある日私に先生の秘密を教えてくれた。

自分の両親に逆らえない事。お見合いで出会った今の奥さんを全く愛していない事。しかし、子供たちは愛している事。結婚も先生の両親が決めた事。本当は先生にはなりたくなかった事。

 先生が心に秘めていた事全てを、私に教えてくれた。それが先生の愛の証だった。

 先生は私に言った。

「先生はね、ずーっと嘘をつき続けてきたんだ。だから、本当の事をいう事がどういう事なのかわかないんだよ。」

「大人なのにわからない事があるの?」

「大人だからかな。」

先生は寂しそうに笑いながら言った。私はその言葉の意味がわからなかった。


 私達が秘めた関係になってから、数日後。私達はデートをする事が日常になりつつあった。先生に言われた通りに親には『友達と遊びに行ってくる』と嘘をついて。先生との関係は誰にも言わず。そうして私達の中はどんどん濃いものになっていた。

 遊園地にも水族館にも映画館にも連れて行ってもらった。

 日々がまるで早送りのように過ぎていく。毎日が先生との秘密になっていき、秘密が増えれば増えるほど、私は嬉しかった。まるで魔法のようだった。先生の言葉が、先生との秘密が私の自信に変わっていく。

 もっと『特別』と言われたい。もっと先生の『特別』になりたい。

 この当時、なぜここまで『特別』にこだわっていたのか、それは数年たった今でもわからない。ただもしかしたら、私の中に何もなかったのが原因かもしれない。と言うのも、今でこそ私は『キョウさん』と言う人生を捧げられる人がいるが、当時は趣味も無ければ、好きな事も、嫌いな事すら無かった。それに加え、私は基本的になんでもできる子どもだった為、親からもあまり構ってもらえず、無意識のうちに寂しがっていたのかもしれない。そんな状況が重なり、私は先生に依存するようになってしまった。

 あの当時、先生の言葉が私の中で絶対だった。先生の言葉に逆らうなんてそんな気持ちは一ミリも無かった。それどころか、先生の意志に添うことが私の幸せと本気で思っていた。それくらい私は先生に固執していた。それほどまでに先生には私を見放して欲しく無かった。

 だから、どんな事も、どんな行為も、抵抗せず受け入れた。

 八歳の私はそれが本当の愛だと信じて疑わなかった。全てを受け入れる事、それこそが本当の本物の愛なんだと思っていた。そして、本物の愛は皆から祝福され、ハッピーエンドを迎えると、当時の私は本気で信じていた。

 しかし、そんなものは夢幻であるとすぐに知ることにある。


 それから数か月、私達の関係は続いた。

 先生は私を色々な所に連れて行ってくれた。そして色々な事を教えてくれた。勉強はもちろん、大人にならなきゃわからないことも、子供の目には見えないものも教えてくれた。それが私は、何より楽しくて、嬉しかった。先生と同じ立場の人間になれた気がして、すごく心地が良かった。

 そんな楽しい日々はいつの間にか過ぎ去り、気が付くと暦は八月になっていて、学校は夏休みを迎えていた。

 この頃から、先生はよく私に

「もう、やめなきゃなあ。」

と言うようになっていた。気が付けばそれが先生の口癖になっていた。

 それに対して私はいつも、

「なんで?」

と聞いていたが、先生はいつも寂しそうに笑うだけで、その答えをくれることは無かった。私はそれを毎日不思議に思い、日々を過ごした。

 そして、その答えを知る日は突然やって来る。


 夏休みのある日。私と先生はいつものように、遊びに出かけていた。場所は水族館だった。

 その日は、ものすごい数の魚を見て回った。小さい魚も、大きい魚も、イルカのショーも、ペンギンも、色んなものを見た。

 新しい魚を見つけるたびに、先生が詳しく教えてくれた。

 お土産店では、おそろいのネックレスを買ってくれたりして、本当に充実した一日だった。

 本当に最後に相応しい日だった。

 買い物を終え、いざ帰ろうとした時だった。

「藤宮先生?」

突然誰かが、先生の名前を呼んだ。

 後ろを振り返るとそこには同じクラスの男子とその母親が立っていた。

「夢華じゃん。ここで、先生と何してんの?」

「えっ。」

その場が一瞬にして凍り付く。その空気の変化は私でもわかった。

「悠馬、知り合いなの?」

「うん。同じクラスの子。」

私は先生の方を見る。

 先生はどんな表情もしていなかった。ただ、ジーッと、景色、と言うより空間を見つめていた。

 「藤宮先生、これはどういう事ですか?」

先生はその問いに対して何にも答えなかった。ただ、何かを諦めたみたいに笑うだけだった。

 そして涙を流した。子供みたいに大泣きするでもなく、声を殺しながら泣くでもなく、先生は機械的に涙を流した。

「先生?」

先生は何も言わなかった。


 しばらくして、その場に警察が到着した。そのパトカーの中には母と父が乗っていた。父は会社を途中で抜け出してきたのかスーツだった。母は何か料理をしていたのかエプロン姿のままだった。

 現場に着くなり母は私を一番に抱きしめた。父は先生に掴みかかった。私はどうして両親がそんな事をするのか、そもそもなぜここにいるのかわかっていなかった。ただ一つわかっていたのは、先生にバレてはいけないと言われた事がバレてしまったのだという事だけだった。

 警察が来ても先生は何も言わなかった。ただただ泣いているだけだった。先生はまるで人形にでもなってしまったみたいに、自分を動かす全ての刺激に身を任せているようだった。

 そして、先生はパトカーに乗ってどこかに乗って行ってしまった。

 パトカーに乗る瞬間、先生は私に方を一瞬だけ見て何かを呟いた。それはものすごく小さい声で、やじ馬達の声に混ざり合い、すぐに真夏の空気の中に溶けていってしまった。でも、私はその言葉をしっかりとこの耳で聞いたのだ。とても、とても小さかったけれど、私は確かに聞いたのだった。

「ごめんね。」


 夏休み明け、私が学校に行くと、そこにはもう先生の姿は無かった。


 先生が最後に私に言ったあの言葉。あの言葉にはどんな意味が含まれていたのだろう。本当にただの謝罪だったのか。それとも……。

 ねえ、先生。どうして先生はあの時、私に謝ったの?私が先生を愛することは謝られることだったの?先生が私を愛することは、謝るべきことだったの?ねえ、いつもみたいに教えてよ。いつもみたいに笑いながら、冗談を言いながら、私に答えを教えてよ。先生がいないと私これからどうしていったらいいかわからないよ。ねえ、どうして何も言ってくれなかったの?どうして最後にあんな事言ったの?どうして、私を一人にするの?会いたい、会いたい、会いたいよぉ……。先生!

 私は毎日そんなことばかり考えていた。そんな事を考える日々を何日も過ごした。


 先生と別れて数日後。私のもとに何人もの大人がやってきた。その大人達は私に色々な事を聞いた。

「いつから、先生とはそういう関係になったのかな?」

「先生とは今までどこでどんな事をしてきたのかな?」

「先生はどんな人だったのかな?」

質問してくる大人達はいつもどこか私を可哀そうな人間を見るような目をして見ていた。

 私にはどうして大人たちがそんな目をしているのか、どうしてそんな事を聞いてくるのか、全くわからなかった。私は何度もそれを大人達に聞いたが大人達は、よりいっそう私を憐れむだけで、先生のように答えをくれたりはしなかった。

 私はいつも大人達に、

「私と先生は愛し合ってたよ。」

と言っていた。

 誰も、私の言葉に耳を貸さなかった。

 テレビも新聞もラジオも、ある事ない事を話し、書き、場を盛り上げた。

 「違うよ。そうじゃないよ。」

私は言い続けた。

 誰も、私を見なかった。

 大人達は噂を流し続け、子供達にそれを教えた。

 そして私は幼いながらに気が付いた。

 誰も私の話なんかに興味ないんだ。

 その話が真実か嘘かなんて聞いてる人にはどうでもいいことだ。重要なのはそれが面白いかどうか。それだけだ。

 誰も聞いてくれないことに絶望し、誰も助けてくれないことに失望した。

 そして私はその辛さから無意識のうちに、その出来事全てを、記憶の奥底に隠すことに決めたらしかった。


 私はその記憶の一切を記憶の奥底に隠した。




 気が付くとそこは私の部屋のベッドの上だった。どうやって帰ってきたか覚えていないが、どうやら無事らしい。

 どうして今まで、こんな大事な事忘れていたんだろう。

 私はベッドの上に仰向けになり、天井を眺めた。

 まるで、夢の中にいるみたいに体がふわふわしていた。頭がボーッとする。

 思い出したことにまるで実感がわかない。本当にそれは現実で起きたことなのだろうか。まるで、小説を読んでる気分だ。本当に作り話ではないのだろうか。

 私はお腹に手を当てる。

 ここに先生のモノが。

 今、私は先生をなんとも思っていない。例え、思い出したことが全て本当だったとしても、恨んでもいないし、別に好きでもない。そう思えるのはキョウさんがいるから。キョウさんが居れば他はどうでもいい。

 私はもう一度目を瞑り、先生の顔を思い出そうとした。

 スラっと高い身長。少し逞しい腕。整った顔立ち。そして少し寂しげな瞳。

 あれ?

 私はそこである事に気が付く。

 この特徴って……。

 キョウさんはどこか先生に似ていた。

ピアスやタトゥーの関係もあり、顔の感じや、仕草、癖なんかは全く似ていない。むしろ正反対と言えるだろう。しかし、時折見せる何かを我慢するような悲しげな表情と常に纏っている雰囲気はなんだか似ている気がする。

 じゃあ、私が好きなのって……。

 私にはもうわからなかった。キョウさんが好きなのか、先生が好きなのか。

 私はもう先生の事なんてなんとも思ってない。

 本当にそうだろうか。そんなことが本当にはっきりと言えるのだろうか。

 だって、今まで忘れてたし……。

 確かに出来事は覚えていない。でも私は無意識のうちに先生を探していた。だから、キョウさんに惹かれた。

 違う!キョウさんの事は、キョウさんとして好きだ。きっとそうだ。

 それこそ、どこにそんな確証があるのか。

 ……。

 やっぱり、私は先生の事が今でも好きなんだ。絶対に。

 違う!

 そうだ!

 違う!

 そうだ!

 私の中で私達が喧嘩をする。お互いに自分の意見を譲らない。

 私の頭はもうぐちゃぐちゃだった。何が本当の感情で、どれが嘘の感情なのか。それともどちらも嘘なのか?

 もし本当に私が今好きなのは先生で、キョウさんでそれを補おうとしているのなら、それは正しいことなのか。間違っていることなのか。

 もう、何もわからない。

 普通の人なら、一般の人ならこんな時何を思うだろう。そもそも、普通の人はこんな事考えないのだろうか。

 私の頭の中で、たくさんの考えが交差する。

 私はどうしたいんだろう。

 私は耳たぶのピアスを触った。

 痛みは愛。そう教えてくれたのは、先生だ。あの時確かに痛みは無かった。でも、その後に痛みがあった。これは愛じゃないのか。

 他のピアスにも触る。

 他のピアスを開けた時は耳たぶと違って痛みがあった。これは愛なのか。痛いから愛なのか?

 そしてお腹を触る。

 先生がこの中に入ってきた時、確かに痛かった。あの時は私は先生を愛していなかったけど、最後に先生は私の前から居なくなってしまったけど、これは愛?

 愛って何?痛みって何?

ほどけていた糸がどんどん絡まっていく。

 とにかく今は、キョウさんに会いたい。

 確かめたかった。キョウさんが好きなのか。キョウさんの雰囲気が好きなのか。

 私はカレンダーを見た。

 十月まであと、数日。


 それから私はモヤモヤしながらその数日を過ごした。

全く普段と変わらないはずなのに、胸に何かが詰まっているだけでこんなにも見えるものが違うのかと私はこの数日の間に何度も驚いた。正確には見えなくなることに驚いた。学校で行われた小テストは思った結果が出なかったし、忘れ物はするし、課題の提出は間違えるしで、散々な数日間だった。そのうえ、悩んでいることに関しては、何一つとして、答えは出ないままだった。

 「ねえ、最近何かあった?」

ある日の昼休み、普段はそんな事絶対言わない、と言うか私が言わせない事を、玲奈が私に言った。

「えっ?何が?」

「夢華ちゃん、最近可笑しいよ。いつもはしない失敗よくするし、今日だってほら、ネクタイつけてない。」

玲奈の言葉に私はハッとし、自分の胸元を見る。そこにはいつもあるはずのネクタイが無い。

「フフッ。」

「何?私がネクタイしてないのがそんなに面白い?」

玲奈は一度、笑った顔を整えるように、深い深呼吸を一つした。

「いや、違くて……。バカにしてるとかじゃなくてね、なんか夢華ちゃん、人間らしくなったなぁと、思って。」

「人間?私ってそんなに人間らしくない?」

「人間らしくないっていうか、ロボットみたいだなぁと思ったことはあるよ。」

「ロボット?」

玲奈が頷く。

「うん。だって、夢華ちゃんなんでも出来ちゃうし、あんまり感情を表に出さないというか、隠してるというか、そんな感じがして。」

 そう、玲奈は気が付いていたのだった。私がいつも気持ちを隠していたことに。

「だから、それが無くなって私は嬉しいんだけど、それがもし何か嫌なことでそうなったら、嫌だなって思って。」

玲奈は恥ずかしそうにそう言った。玲奈の可愛い顔が仄かに赤く火照る。

 やはり玲奈はすごいなと思った。ちゃんと気遣いが出来て。きっと、この言葉は作られたものなんかじゃなく、玲奈の本当の言葉だろう。私の気遣いは作られた言葉しかないから、本当に尊敬する。

「大丈夫。嫌なことはないよ。」

私は玲奈を気遣い言葉をかける。でもこの気遣いも作られた言葉だ。

 私は、この悩みを他人に話すのが怖い。また、あの時のようになってしまうのではないかと、思ってしまうからだ。ついこの間まで忘れていたというのに、便利なものだ。トラウマと言うものは。

 昼休み終了のチャイムが鳴る。

「じゃあ、またあとでね。」

「うん。」

玲奈が席に帰っていく。クラス内で雑談していた人達も、自分のいなくてはいけない所に帰っていく。

 玲奈はきっと、私とは違う人間なんだろうな。

 ここ最近、キョウさんや先生以外に考えることがまた増えた。それは、『普通とは何か』と言う事。

 きっかけは思い出した母の言葉だった。

 毎日どれだけ先生と私が愛し合っていたのかを話す私に母が言った言葉だ。

「お願い。昔の普通にいい子だった夢佳ちゃんに戻って……。」

 記憶が戻るまで、私はずっと自分を普通の人間だと思って生きてきた。

 でも違った。先生を好きな私は普通ではないらしい。だから今はわからないが少なくとも、先生と関係があった頃は普通ではなかったということだ。先生の事を愛していた頃は。

 ネットで『普通』の対義語を調べると『異常』と出てくる。じゃあ、私のあの頃は異常だったのだろか。

 誰かが『人を愛することは素晴らしい事』と言った。そのことに皆が賛成する。でも、私が先生を愛することは反対する。一体なぜなのだ。私が異常だからか。

 私はできる事なら普通になりたい。普通の人間になれれば、否定されないから。無個性でも、顔色伺いでもなんだっていい。否定されなければそれで。

 でも果たして、異常者が普通の人間になれるのだろうか。

 もし母の考えが正しいとしたら、普通の人間が異常者になる事はどうやらあるらしい。じゃあ、その逆は……?

 もし無いのだとしたら、私はもう元の私に戻れないという事か?そもそも、元の私は普通の人間だったのか?普通が普通でいられる理由って?普通ってなんだ?一体何なんだ?

 でも、もしかしたらこういうことを考えること自体普通じゃないのかもしれない。

 考えれば考えるほど、糸は絡まり、解けなくなっていく。

 ああ、早くキョウさんに会いたい。


 そして待ちに待った十月。

 私はお小遣いを握りしめ、ピアススタジオに向かった。

 中に入ると、カウンターにはキョウさんが座っていた。一夜の姿は見えない。

「こんにちは。キョウさん。」

「お、こんにちは。」

雑誌を見ていたキョウさんが私の方を見る。

「キョウさん、今日って一夜は……?」

「今日は休み。」

キョウさんが答える。

「で、今日は何しに?」

「今日もピアスを開けに来ました。」

「……そっか。」

キョウさんが雑誌を置き、部屋の扉を開ける。

「入って。」

「はい。」

私はキョウさんの後に続いた。

 「今日はどこに開ける?」

 私は悩んだ。確かにこの間までは女性器に開けようと決めていたが、本当にそれでいいのかと迷いだす。確かに愛を確かめるにはいい痛みなのかもしれない。だが、これでもしも痛くなったら……。私はキョウさんを愛していないことの証明になってしまう。そんな事絶対にない。無いのだが、万が一……。

 私の中に迷いが蠢く。

 それにこれで、もし痛くなかったら、私は先生が好きであることになる。そうなったら、私はどうすればいいのか。何を思い、感じて生きていけばいいのか。これからも先生の影を感じながら生きていくのか。そんなの嫌だ。でも、そうするしかなかったら……?

 私はキョウさんの顔を見た。

 綺麗な輪郭。無数のピアス、官能的な唇。寂しげな瞳。

 私の全てはキョウさん。キョウさんに捧げるんだ。

「性器に開けたいんです。」

「……本気?めっちゃ、痛いよ。」

「はい。」

キョウさんは私を見つめる。私の心臓が高鳴る。

 血管がはちきれそうだ。それくらい私の心臓の音は早い。音も大きく、まるで鼓膜のすぐ近くで鳴ってるみたいだ。

キョウさんは何も言わなかった。ただ、一言

「そうか。」

と呟いて、準備を始めた。

 キラリと光るニードル。チューブに詰められた軟膏。キラキラ光る消毒液。

 私は静かに椅子の上に乗った。

「じゃあ、パンツ脱いで脚広げて。」

「はい。」

私はパンツを脱ぎ、足を広げる。私の中が見える。

 キョウさんの細い指が脱脂綿を摘み、その脱脂綿が消毒液を含む。

 冷たい脱脂綿が私の中を濡らし、私はその感覚に肩を揺らした。

 キョウさんがニードルに軟膏を付け、それを持つ。

「行くよ。」

「はい。」

ブスッ

 痛い。

 鈍い痛みが体を巡る。まさに愛だった。

 キョウさんの息が私のピアスにかかる。それが何だかこそばゆくって私は体を震わせた。

 幸せだ。

 全身で鈍い痛みを感じながら、私は思った。

 こんなに幸せなことはない。だって、好きな人に捧げられたんだもの。こんなにも愛されているんだもの。

 私の目から涙が零れ落ちる。アソコは痛いのにヒクヒクと動いている。

 キョウさんがニードルをゆっくりと引き抜き、ニードルの代わりにピアスを指していく。

 キョウさんの手が私のヒダにあたる。お腹のあたりが痙攣し、中から何かの液体が溢れる。

 私の愛は確かだった。こんなに痛いんだから。こんなに痛いんだから!先生の事なんて本当はもう好きじゃないんだ。今、私が本気で愛しているのはキョウさんだけ。キョウさんだけなんだ。

 絡まっていた紐が解けていくような感覚に包まれる。

 私はこのままでいいんだ。私は普通なんだ。普通に戻れたんだ!

 喧嘩をしていた私が消えていく。

 「終わったよ。……大丈夫?」

「はい。大丈夫です。」

手袋を外しながらキョウさんは言う。私のアソコはまだ痛い。

「たぶんしばらくは痛みが続くと思うから、落ち着くまでここにいていいよ。」

「本当ですか?」

「うん。」

正直ありがたかった。幸せ過ぎて、私はもう足腰が立たなくなっていたからだ。

 キョウさんが荷物をまとめて、部屋から出ていく。

「いつものカウンターにいるから。」

「はい。」

 私の体は痛み、幸福感で溢れていた。もうこれ以上ないくらいに。心の底から、キョウさんに全てを捧げられた気がする。

 もう、死んでもいいかもしれない。

 そんな考えすら浮かんでしまう。

 私は静かに天井を見た。

 もう、何かを迷うことも、何かに悩むこともない。あとはもう、キョウさんに捧げ続ければいいだけだ。他の全てを捨て去って。

 私は考えた。どうすれば先生の時と同じようなことが起きないかを。そして考え付いたのだ。あの時は覚悟が足りなかったと。あの時は家族も友達も捨てれず、そのまま先生に捧げてしまったから未完成になってしまったのだ。彼以外には何もない状態を作らなくては、愛は完璧にならない。

『愛は痛み』

離れて、もっと痛みを、愛を集めなくては。

 しばらくしてから、私はカウンターに行き、キョウさんにお金を渡した。

「はい、お釣り。」

「どうも。」

私はお釣りを受け取り、帰ろうとした時だった。

「……あのさ、」

キョウさんが私に話しかけた。

「はい?」

「……いいや、なんでもない。…また、来てね。」

「はい。」

 私はキョウさんに背を向けて、歩き出した。

 帰り道、私は電車の椅子に座った。アソコはまだ痛い。

 窓の外には相変わらず、ビルが立ち並んでいる。電車の中も相変わらずと言う感じだ。

 私はふと、一夜が話していた家族旅行の事を思い出し、海が見たくなった。

 海、見に行きたいなぁ。

 海を見るにはこの電車の終着駅で乗り換えなければいけない。私はお財布の中を確認した。どうやら、海に行くまでのお金はありそうだ。

 私は電車を乗り換え、海に向かった。この時間から海を目指す人はさすがにいないようで、色んな人が次々に電車から降りていき、最後には私と乗客二、三人だけになっていた。

 私はその乗客たちを置いて、海が見える駅で降りた。

 海まではどうやら十分ほど歩くらしい。

 私は下り坂を歩いた。

 歩くたびに開けたピアスが擦れて、激痛が走る。しかし、私はそれを気にせず歩いた。

 血が流れるのではと思うほどの激痛だったが、私は先生の言葉を思い出して歩き続けた。私に止まるという選択肢は無かった。

 私の横を何人もの人が通りすぎていった。私はまるで逆流する赤血球のようにその人達とは逆向きに歩いた。

 すると、一組の家族が私の横を通り過ぎた。母と父の間に子供が一人いて、三人で横並びに歩いている。私はその父親の横を通った。

 私は立ち止まった。

 ……‼

 その男には見覚えがあった。スラっと高い身長。細い手足。優しく笑う横顔。どこか悲しげな瞳。

「先生‼」

私は思わず叫んでいた。だって、そこにいるはずのない先生が居たんだもの。

 その男が振り返る。

 先生は、変わっていた。全く違う、別人になっていた。

 顔も体もあの時とほぼ一緒だし、外見で変わったとこはどこもない。しかし、明らかに先生を纏っていた雰囲気は変わっていた。

 先生はもう、あの悲しげな眼をしていなかった。今は昔よりも幸せそうな顔をしている。

 「私に、何か用ですか?」

先生は私にそう言った。

 その瞬間、私は目の前が真っ白になり、周りの音が消えた。

 私は絶望した。

 先生は、私を覚えていなかった。あんなにも私を愛していたのに。私達はあんなにも愛し合っていたのに。

 私は耐えられなくなり、その場から逃げるように走り去った。後ろから、私を呼び止める先生の声が聞こえる。

 私は海に向かって走った。

 違う!あの人は先生じゃない!絶対に先生なんかじゃない!

 私は心の中で叫んだ。

 ねえ、先生はどこに行っちゃったの?本当にあれが先生なの?

 空が夕焼け色に光っている。もうすぐ、日暮れだ。

 私は走り続けた。


 私は海に着いた。

 海は私の想像していた以上に、青く、キラキラ光っていた。

 さすがにもう十月なので、水は冷たかった。

 ここで先生は何を思って、一夜と遊んでいたんだろう。

 私は目を瞑って、潮風を肺いっぱい吸い込んだ。すると遠くで親子の声が聞こえてくる。

「お父さん、早く早く!」

「あんまり、走ると危ないぞ。」

親子は仲良さそうに浜辺を走っていく。私はそれを見つめた。

 先生は幸せそうだった。

 当たり前だ。もうあれから、十数年経っているんだから。私の事を忘れていても仕方がない。実際、私だってこの間まで忘れていたじゃないか。

 私は目を瞑り、もう一度あの家族を思いです。あの幸せそうな家族を。

 走っていた子供がこける。それを父親が抱き起し、砂を叩いてやり、子供をあやす。絵にかいたような親子の図。

 ねえ、先生。私達も傍から見ればただの親子だったのかな。ただの家族に見えていたのかな。

 親子が居なくなり、私はまた海を見つめる。

 ねえ、先生。覚えてる?いつかの日、二人で海に来たの。あの日はまだ夏前で誰もいなかったよね。

 ねえ、先生。どうして私だったの?どうして私の事を好きになったの?どうして私は先生の苦しみをなくしてあげられなかったの?どうして隣にいるのは私じゃないの?どうして、私の前から居なくなっちゃったの?

 ねえ、先生。確かに、最初にあった私達の秘め事は合意じゃなかった。許されるものじゃなかった。洗脳や催眠が無かったなんて、はっきりとは言えない。でも、それを差し引いても私は確かに先生を愛してたよ。それともこれも本当は、私の本心じゃないのかな。

 ねえ、先生。本心って、誰が決めるの?周りの人が判断することなの?私の気持ちは私の物じゃないのかな。

 ねえ、先生。どうして最後にあんなことを言ったの?

 ねえ、先生。私、好きな人が出来たよ。先生にすごく似てるんだけど、似てない人でね、すごくカッコいいの。先生が教えてくれたように今、私の全てを捧げてるんだ。

 ねえ、先生。この気持ちも本心じゃないのかな。偽りの気持ちなのかな。じゃあ、本当の、本心の愛って何?人を愛するって何?

 ねえ、先生。先生は今何してる?どこにいる?もう先生の事は愛してないけど、でも先生に会いたい。あの頃の先生に会いたい。会って話がしたい。先生は?先生はどう思う?

 ねえ、先生。教えてよ……。

 太陽が水平線の彼方に沈んでいく。鈍い痛みが私を包み込む。

 この痛みはもう先生の愛じゃない。

「さようなら。先生。」

私はそう呟いた。

太陽が完全に沈み、辺りが暗くなる。

 私は駅に向かって歩き出した。


 そしてそこから二カ月。私は変わらず、退屈な日々を過ごしていた。

 あの日から私はキョウさんに会っていない。色々理由はあるが、一番は予定がなかなか合わなかったからだ。なぜかここ最近は閉まっていることが多いらしく、時間があいて行ったとしても、closeの札がかかっていた。

 そんな状況が二カ月も続き私は正直、キョウさん不足で死にそうだった。

 「ねえ、夢華ちゃん。今年のクリスマスイブ予定ある?」

「ないけど。どうした?」

十二月のある日の放課後、帰ろうとしたとき玲奈が私を呼び止めた。

「実は、二十四日の日、ここのイルミネーション見に行きたくて……。」

玲奈がそう言いながら、私に一枚のチラシを見せた。そこには二十四日、二十五日【イルミネーション】と書いてある。

「いいよ。」

私は言った。正直私も興味がある。

「本当!」

玲奈の顔がいつも以上に輝く。どうやら、よほど行きたかったらしい。

 クリスマスまであと一週間。

 サンタさん、もしプレゼントをくれるなら、私はキョウさんがいいです。


 その日私は夢を見た。小さい頃にサンタからプレゼントを貰った時の夢。たぶん四、五歳ぐらいの時だと思う。その時は確か本を貰った。

 私はプレゼントの箱の包装紙を綺麗に開き、箱を開ける。すると近くに姉がやってきて、それをのぞき込む。

 中には何も入っていなかった。

 私はそこで目が覚めた。冬だというのに体は汗でびっしょり濡れている。

「ハァハァハァ……。」

それほど怖い夢でもなかったのに私の息は上がり、まるで悪夢にうなされていたかのように喉が渇いていた。

 昼間、クリスマスの話なんかしたからかな……。

 私は夢を見たことをあまり深く考えないようにして、目を瞑った。

 眠れない。

 勢いよく目覚めてしまったからだろうか。私の眠気はどこかに行ってしまったようだ。私は仕方なく、何か喉を潤せるものを飲もうとキッチンへ向かった。

 誰もいないリビングの扉を開け、中に入る。部屋の壁かけ時計は午前三時を示していた。部屋は真っ暗だ。

 私は一杯の水を飲んだ。

ゴクゴクゴクッ。

 突然、女性器につけたピアスが痛んだ。

 そういえば、キョウさんは今どうしているんだろう。

 もう、キョウさんとは二カ月も会っていない。

 あれから、気が付けば二カ月も経っていた。先生にお別れを言ってから、二カ月。私の記憶の中にはまだあの頃の先生が残ってるし、それを思い出したことで生まれた悩みもまだ解消できてない。でも、今確かに愛しているのはキョウさんだって知れたから、知ってい居るから私は今、辛うじて立っていられる。もしあの時、痛みを感じれていなかったらと思うと辛い。

 喉はまだ潤わず、私はもう一杯水を飲む。

ゴクゴクゴクッ。

 私はリビングを出て、静かな階段を上がり自分の部屋に戻った。

 私はベッドの上に寝転がり、天井を見上げた。何もない空間が私の目の前に広がる。

 私は耳のピアスに触った。

 ああ、キョウさんに会いたい。

 私の頭の中はそればっかりだ。いつだって、キョウさんの事しか考えていない。もはや中毒になってしまっているのかもしれない。だってもう、キョウさんを二カ月も接種できていないこの現状が私には耐えられないものだったからだ。

 でも、そんなに思っても、まるで運命のいたずらのように私とキョウさんは全く会えない。なぜなのだろう。

 そんなことを考えている内に、私は寝てしまった。


 次の日学校から帰ると、一夜からメールが来ていた。

『話したいことがあるんだけど、今暇?』

一夜からのメールは二カ月ぶりだった。

『大丈夫だよ。』

『じゃあ、三十分後にあの公園で。』

 私はそのメールを見て、急いで学校の制服から、簡単に着替えられる、ワンピースに着替える。その上からジャンパーを羽織、私は家を出た。

 外は冷たい風が吹き、寒かった。四か月前までは、半そでを着ていたとは想像もできない。そう思うと、時の流れは怖いと思った。

 私はゆっくり歩いて、あの公園に向かった。そう、いつの日かに一夜と遊びまわった公園だ。公園に向かう道の風景は夏の頃とは打って変わって寂しげだ。一体、ここで何があったというのだろう。いや、何も無かったから、こんなにも寂しいのか。

 私が公園に着くと、一夜は先に来ていた。

「早いね。」

「あっ、夢華。うん。実は電話した時にはもうここに居たんだ。」

「そうだったんだ。」

私達は無言になった。気まずい空気が流れる。

 私達はもう二カ月も話していなかった。対面はもちろん、メールでも。どうやら人は二カ月全く話さないと話し方を忘れるらしい。

 「話って何?」

私が沈黙を突き破って聞く。

「……うん。実は……。」

一夜はなかなか話そうとしない。どうやら何か引っ掛かるものがあるようだ。私はそれを黙って聞く。

「俺、明日、おふくろと九州の実家に帰るんだ。もうここには戻ってこないつもり。」

俯きながら一夜は言った。

「えっ。」

「それを伝えに、今日は呼んだんだ。」

私の頭にピアススタジオがよぎる。

「……仕事は?」

「……一か月前に辞めた。」

「なんで。」

「…おふくろの精神病が悪化して、ここじゃあもうやっていけなくなったんだ。だから話し合って、おふくろの実家でお世話になることになった。」

「一夜は?」

「俺もおふくろについてく事になった。おふくろを一人にできないしな。」

一夜が今度はまっすぐ私を見て言う。私は一夜の顔を見て、二カ月前に会った先生の事を思い出した。

 一夜に言うべきかな。

「ねえ、一夜。一夜はまだ先生の事……お父さんの事恨んでる……?」

私は恐る恐る聞いた。一夜は一瞬驚いたような顔をし、そしてにっこりとほほ笑んだ。

「もちろん。でも、今はおふくろの事の方が大事だから。」

 そこで私は悟った。一夜は知っていたのだ。父親がもうとっくの昔に釈放されている事を。先生にはもう新しい家族が居て、すでに自分の家族ではなくなってしまっている事を。先生はもう何も覚えていない事を。

「だから、大丈夫だ。」

一夜の顔は明るかった。どうやらもう振り切ったみたいだ。

「それより、夢華の方こそ大丈夫か。嫌な事思い出させただろう。本当にごめん。」

一夜が深々と頭を下げる。

「私も、もう大丈夫。」

「そっか…。」

一夜が安心したように言う。

 「あ、あのさ……。」

一夜が何かを思い出したように言う。私は一夜の顔を見た。

「何?」

「……ううん。何でもない。」

「そっか。」

一夜は何かを言おうとしてやめた。多分、言えばもう二度と会えなくなるような予感がしたのかもしれない。私もそんな予感に包まれた。私達はお互いに言いも聞きもしなかった。

 「じゃあ、バイバイ。」

「うん。バイバイ。」

私達はお互いの道を歩いて帰った。一度も振り返らずに歩いた。

 私達はわかっていたこれが最後にあることを。きっともう街中なんかであったとしても、話しかけたりすることはないだろう。そんな気がしてならないのだ。私達の間に大きな溝が出来て、もう修復しないような気がするのだ。そんな予感がしてしまうのが悲しくて私は部屋に戻って一人で泣いた。

 その数日後、私は先生がナイフで刺し殺された事をニュースで知ることとなる。犯人は一夜だった。どうやら、先生を刺した後、警察に自首したらしい。

 一夜は刑務所に入った。

 一夜のしたことは『親殺し』として、世間は大きく取り上げた。ネットはある事ない事を書きまくり、テレビはそれを盛り上げた。噂があちこちで広がった。常識人ぶった人たちが一夜を憐れんだ。ストレスの溜まっていたネット民は酷い罵声を一夜に浴びせた。それに対して口論する人もいた。何も知らない人たちの憶測が飛び交った。

 一夜はそれをどんな気持ちで見ていたんだろう。どんな気持ちで聞いていたんだろう。私には到底想像もできなかった。

 そしてこれはまだ先の話になるが、その三年後一夜のお母さんが亡くなったと風の噂で聞いた。

 そして釈放された一夜も母親の後を追うようにして自殺した。


 そして日付は二十四日になる。

 私と玲奈はイルミネーションを見に来ていた。

「綺麗だね。」

「うん。」

こんな時も私はキョウさんの事を考えていた。

 私が耳たぶのピアスを触る。

「ねえ、どうしたの?楽しくない?」

玲奈が心配そうに私に聞いてくる。

「大丈夫。」

「本当に?」

「あーでも、強いて言うなら、寝不足かも。」

「えー!大丈夫?」

玲奈の心配がさらに増す。私は笑いながら答えた。

「全然、大丈夫だよ。」

玲奈を心配させない技術は心得ている。

「そう、ならいいけど。」

玲奈の心配が落ち着く。それに私はほっとし、気が抜ける。やっぱり、心配されるのは落ち着かない。

 「ねえ、夢華ちゃん。サンタって居ると思う?」

イルミネーションを見ていた玲奈が突然言う。

「サンタ?」

「うん。そう。」

 私は昔から、サンタとかそういう類のものは信じていない。お化けとか神様とかそういうのだ。理由は見たことが無いからだ。サンタもお化けも神様も。それを信じている人や信仰している人には批判したり、な日課を言ったりするつもりはないが私はなぜ、見たことを無いものをそこまで信頼できるのか不思議でならない。

 私は目に見えないものが怖い。だから、目に見えないものも何とかしてみようと思うし、感じてやろうと全身の神経を集中させる。そして目に見えれば安心するし、感じられれば信じることが出来る。

 私は人間は目に見えないものを怖がると思う。だから、みんな必死に見たり、聞いたり、五感で感じようとするのだ。

 心霊スポットに行ったり、噂を流したり、触ってはいけないものを触ったりするのも、全ては五感で感じて不安を和らげたいから、だからみんな、危険を犯すのだ。

 「……私は、いると思うんだ。」

何秒か間があった後、玲奈がぽつりと言った。

「なんで?」

「うーん。なんか、いる気がするの。」

玲奈は少し笑って話す。

「私ね、思うんだ。大切なのは居るかどうかじゃなくて、思うことが大切なのかなって。」

「どういう事?」

「サンタさんも幽霊も神様も、居ることが大切なんじゃなくて、信じることが大切なんじゃないかなって。例えばだけど、占いも当たるかどうかより当たると信じて日々を過ごす方が大切じゃない?」

「そうかな。」

「そうだよ。」

玲奈が優しく笑いながら言う。その横顔がイルミネーションに照らされて、光る。寒さからか頬が少し赤い。

「ねえ、私も一つ、聞いてもいい?」

「いいよ。」

「人を好きになるって何かな?」

こんなことを聞いたのは、生まれて初めてだった。どうしてそんな事を聞いたのか、私はわからなかった。最近、自分の事なのにわからない事が多い。

「……その人と家族になりたいかどうかなんじゃない?」

玲奈が恥ずかしそうに答える。玲奈の耳が赤くなる。

「家族に……。」

「うん。私は『愛している』から家族になるんだと思う。」

玲奈はまるで自分に言い聞かせるように言った。

「そっか。」

「うん。」

 私は空を見上げた。空には無数の星達が輝いている。

 『痛み』以外の考えもあるんだな……。

 私にはもう何が正しいのかわからなくなっていた。私に愛を教えてくれた先生は愛によって殺されてしまった。それは先生の愛が間違っていたことになってしまうのか……。それとも先生は一夜の事を愛していなかったのか……。もう何を信じればいいのだろう。

 私達は歩いた。どこまでも一緒に。そして色々なものを見た。

 私達は最後に、一番大きいイルミネーションを見る。それはクリスマスツリーのイルミネーションだった。葉も、幹も、装飾も全てが電球で作られたもので、どの角度から見ても、キラキラ光っていた。それを見て、玲奈が顔を輝かせる。

「すごい……。」

玲奈の目にはそのツリーの光が反射し、目の中で光っていた。私はその姿に息を飲んだ。

 まるで星空みたい。

 私は玲奈を見てそう思った。

 玲奈の青い目にいくつもの電飾が光っていて、それはまるで満点の星空のようだった。

 玲奈は昔からその目が大好きで大嫌いだったらしい。理由はどちらも皆と違うから。玲奈は青い目を持っていることで、色々な人からいじめられたらしい。私はその当時の事をあまり知らない。それは私達が出会うより前の話だったし、出会った後も、私達は同じクラスになったことが一度も無かったからだった。まあでも、高校二年生になったときにその記録は止まってしまったのだが。

 私達はしばらく、近くのベンチに座って、それを眺めた。

 こうしているといつも思い出すことがあった。それは、玲奈と出会った日の事だ。あの日はとてもよく晴れた九月頃の事だったと思う。


 私の思い出の玲奈はいつも泣いている。

 玲奈は泣き虫だった。何かあるごとにすぐ泣き、私はいつもそれに困っていた。

 あるときはサプライズで泣き、またある時はいじめられて泣いていた。普通に暮らしていて、泣くこともあった。小学校高学年になり、その頻度は徐々に減っていき、最終的には無くなった。がしかし、それが無くなるまでは、私が玲奈を嫌いになる瞬間の数少ない理由の一つだ。

 それは初めて会った時も例外ではなく、玲奈は泣いていた。

 玲奈と出会ったのは小さな公園だった。

 その当時、私はつまらない子供だった。どこがつまらないかと言うと、何に対しても無反応だったのだ。私は感情を表に出せない子供だった。別に楽しくなかったわけじゃない。ただただ、苦手だったのだ。それを心配した母は私を連れて、色々な所に連れて行った。それでも私の無表情は治らなかった。

 その日もいつもと同じように母が私を連れて、公園に来ていた。私はブランコで遊んでいた。すると遠くで、子供の泣き声と罵倒の声が聞こえた。

「やーい!外国人!」

「外国人は、自分の国に帰れよ!」

「ち、違うもん。玲奈は日本人だもん。うわーん。」

 最初、私はあまり気にしていなかった。かかわると面倒な事になりそうだったし、何よりどうでもよかった。

 しばらくするとその罵声は無くなり、今度はすすり泣くような声が聞こえた。

シクシク シクシク

ブラーン ブラーン

シクシク シクシク

ブラーン ブラーン

シクシク シクシク

ブラーン ブラーン

 あまりにしつこい鳴き声はブランコの後ろの影からだった。私はブランコを止め、後ろを振り返った。

 そこには泣きっ面の女の子が立っていた。

「ブ…ブランコ……か、貸して。」

女の子が震えた声で言う。

「いいよ。」

私は答えた。そしてブランコから降りる。すると女の子はなぜかますます泣いた。

「うわーん!」

「⁉」

私には訳が分からなかった。なぜこの女の子が泣いているかも検討が付かない。私は焦った。

「どうして泣くのよっ。」

「だって、だって、こんなに優しくされたの、初めてなんだ、もんっ……。」

女の子が鼻水をすすりながら言った。

 女の子はまた泣く。

「うわーん。」

「あ、泣かないでよっ。私が悪者見たいでしょ。」

「だって、だって、だってぇ……。」

私はどうにかして、その子に笑って欲しかった。どうにも居心地が悪くて。どうにかして笑わせたかった。

その時、私の頭にある言葉が浮かんだ。それは幼稚園の先生の言葉だった。

『いいですか皆さん。人は笑顔の人を見ると、笑顔になるものです。ですから、もし周りに泣いてるおともだちが居たら、笑顔で話しかけてあげて下さい。きっとその友達は笑顔になります。』


「見て!」

ニカッ

その日、私は初めて笑った。

 初めての経験だった。上げた口角は普段使わない筋肉を使って上げたからか、すごく痛かった。口も閉じていたし、目も半開きだった。笑いと言うより、にやけに近かったかもしれない。

 「笑って!」

私はそのときできる最高の笑顔をした。それはとても不格好で、ホラー的で、とても笑顔とは言えないものだった。

 それを見て、女の子はぽかんと口を開けた。そしてそのまま、大きな声で笑った。

「何、その顔!アハハハハッ。」

女の子は笑い続けた。私はそれが少し恥ずかしくなり、すぐに顔を元に戻す。

「そんなに笑わなくても……。」

女の子はまだ笑っている。

「もういいでしょ!ハァ……。」

女の子は息苦しそうに息をしながら、笑うのをやめた。

「……ごめんね。…ねえ、私、ブランコが漕げないの。だから……その……。」

女の子がモゴモゴと喋る。私はそれで大体を察した。

「わかった。いいよ。」

 女の子がブランコに座り、その背中を押してやる。

 ある日の夕方四時の話。


 これが私と玲奈の出会いだった。

 その日から、私は笑えるようになった。多分、玲奈とあの時出会っていなかったら、私は今でも、笑えていないかもしれない。

 私は玲奈のおかげで、感情を表に出せるようになったといっても過言ではない。それくらい玲奈には色々なものを貰った。色々なものを教えて貰った。

 私にとって、玲奈は大きな存在だ。彼女が居なければ、今の私はいない。いや、それは私に関わった人全てに言える事なのだが、特に玲奈はそれが大きい。関わっていた期間が長いからもそうだろうが、私はそれだけではないと思っている。それは、彼女が素晴らしい人間だからだと私は思う。

 玲奈の明るさ、そして心から人を心配する優しい心、それらは身に着けようと思って手に入るものではない。それは玲奈が天性的に持っているものだ。

 玲奈は良く、お年寄りに席を譲る。玲奈は良く誰も掃除しない所を一人で掃除する。玲奈はよく鋭い返答を優しく言ってくれる。

 玲奈は特別優しい。

 イルミネーションを見終わった私達は、駅に向かって歩いていた。

 駅の途中の道にあった公園の前に来た時、突然、玲奈が立ち止まった。私は驚いて振り返る。

「ねえ、覚えてる?夢華ちゃん。」

「何を?」

「私達が出会った日の事。」

玲奈は俯きがちに言った。玲奈の顔が見えない。

「覚えてるよ。あの時は玲奈、本当泣き虫だったよね。」

「そう。あの時の私は本当にダメな私だった。」

玲奈はまるで自分に言い聞かせるようにポツリと呟いた。

「玲奈?」

「ねえ、夢華ちゃん。どうして私が泣き虫じゃなくなったのか、わかる?」

急に顔を上げ、玲奈が言う。その顔は笑っていた。

「わかんない……。」

「それはね、夢華ちゃん。夢華ちゃんのおかげなんだよ。」

「私の?」

「うん。」

私達の間を北風が通る。その風が頬にあたり寒い。

「私ね、ずっと思ってた。夢華ちゃんの隣に立てる、相応しい人間になりたいって。だからね、努力したんだよ。」

玲奈は私に言う。

「夢華ちゃんが藤宮先生に傷つけられたって知ったとき、私、自分でも信じられないくらい怒りを覚えたんだ。夢華ちゃんを傷つけた先生に。それから、何もできなかった自分に。だから、強くなろうって、夢華ちゃんを守れるくらい強くなろうって決めたんだ。」

それを言い終わった玲奈は深呼吸を一つし、覚悟を決めたように、私の目を真っ直ぐ見た。

「私、夢華ちゃんが好き。」

それから玲奈は何も言わなかった。『女同士だから。』とか『友達の好きとは違う』とかそんな、所謂漫画で見るような言い訳もせず、ただ真っ直ぐ私を見て答えを待ってるようだった。

 私達の間に沈黙が流れる。

 私は何も言えなかった。何と言えばいいのかわからなかった。ただ、今起きてることが衝撃的過ぎて、頭が回らなかった。そもそも、私は玲奈をそんな風に見たことが無かった。と言うか、玲奈が私を好いていてくれるなんて考えたことも無かった。

 私はキョウさんを愛している。その気持ちは嘘偽りのない真実だ。しかし、それと同じように私は玲奈の事も愛している。キョウさんとはまた別の形で。もし愛に色を付けるとしたら、キョウさんが赤で、玲奈がピンクだろうか。二人への愛はそれくらい似ていて、それくらい違う。ただ私はその愛に着ける言葉を知らなかった。

 キョウさんは私の特別な人だ。そして、玲奈も私の特別な人だ。

 どんな言葉を使っても、しっくりくる言葉が無い。どれも同じ言葉になってしまう。

同じ言葉なのに意味が違うんだ。

私はそれが表現できなくてモヤモヤした。しかし、ただ一つわかることがあった。それは、玲奈の好きと私の好きは色が違う事。

「ごめん。私好きな人が居るんだ。」

私は一言そう言った。玲奈は一瞬驚いたような顔になり、そしてすぐに優しい笑顔に戻った。いつもの顔だ。しかし、その目には涙が浮かんでいる。

「そっか……。相手は男の人?」

「……うん。」

「じゃあ、私絶対に勝ち目無いね。」

玲奈は笑いながら言った。その顔がものすごく切なくて、悲しくて私は思わず、聞いた。

「ねえ、私達、友達に戻れるよね。」

私はすがるように言う。

「無理だよ。だって私、振られたのにまだ、夢華ちゃんの事好きだもん。」

 玲奈の目から涙が零れる。私は何も言えなった。


 私達の友情は破局した。


 その後私は玲奈と別れ、一人電車に揺られた。

 こんな日でも、電車は時間通りに来ないらしい。私は少しの間、ホームで待ち、来た電車に乗った。

 何も知らないサラリーマンが疲れ切った顔で私の横に座る。向かいの椅子ではOLがスマホをいじりながら、うたた寝をしている。この光景を見ると、いつもと変わらな過ぎて、腹が立つ。

 きっとこの先、私にどんな事が怒っても、世界は私の事なんか無視して周り続けるのだろう。

 そう思うと私はまた、腹が立った。

 私の降りる駅に到着し、私は降りた。

 そしてその足で家に帰る。

 私は『ただいま』も言わず、手洗いうが居もせずに自分の布団へダイブした。

 ベッドが軋む。

ギシッ

 私はどうすればよかったのだろう。

 確かに玲奈には付き合いたいとか、キスしたとかの愛は無かった。でも確かに愛していたのだ。それに嘘、偽りはない。そのはずだ。

 玲奈と離れたくなかった。お別れしたくなかった。ずっと、一緒に居たかった。それなのに。それなのに。それなのに。

 私は何か間違えたのだろうか。だからこんな結末になってしまったのか。だから、こんなにも苦しいのか。

 いつかの日、私はキョウさんの為に、全てを捨てようと思った。家族も玲奈も自分さえも。それくらい簡単にできる気持ちだった。それくらい私は本気でキョウさんを愛していた。それを表現したかったのだ。ただ、それだけだった。こんなに辛い事だとは思いもしなかったのだ。あんな風に軽い気持ちで思ってしまったから、ダメだったのか?

 そもそも私が、玲奈に関わったこと自体、間違っていたのか?あんな純粋で、優しい人間に私みたいな汚れていて、自己中の人間が近づいたから、その罰だというのか?

 もう私にはわからない。何もわからない。

 この痛みも愛なのだろうか。それともこの痛みこそが本当の愛なのだろうか。いや、そんな事は無い。だって、それじゃあ、私が今までやってきたことは何だったのだ。全部間違っていたという事なのだろうか?いや、そんなことはない。絶対にない。

 私はカレンダーを見た。

『十二月二十四日』

 もう二カ月もキョウさんに会っていない。キョウさんは今何をしているんだろう。何を思っているんだろう。

 ああ、キョウさんに会いたい。


 次の日、私は耐えられなくなり、ピアススタジオを訪れた。

 スタジオにはcloseの札がかかっていなかった。私は飛び上がった。

 やった‼

 私は急いで店の扉を開けた。

 そこは二カ月前と何も変わっていなかった。立ち並ぶ棚。その奥にあるカウンター。そしてそこには、雑誌を読みながら眠そうに店番をするキョウさんの姿が……。


 無かった。そこには見慣れないおじさんが煙草を吹かせながら座っていた。

 私は辺りを見回した。他に人の気配はない。周りを見回してみても、そのおじさん以外は誰もいなかった。

 「あの、すみません。」

「ああん?どうしたネエちゃん。」

低いおじさんの声が店内に響く。

「あの、キョウさんって、今日はお休みなんですか?」

「キョウ?そんな奴、居たかな?」

おじさんは頭を抱え考える。私はその光景を眺める。

「あ、もしかして京太郎の事か?」

おじさんが言う。

「いえ、本名までは……。」

「京太郎なら、ついこの間辞めたぞ。」

「えっ。」

 その言葉を聞いた瞬間目の前が真っ白になった。まるでフラッシュでもたかれたのかと思うほど一瞬だった。その眩しさの影響からか、私の思考回路は停止した。

 キョウさんが辞めた……。

 私にはもう、何が何だかわからなかった。その言葉を音として理解することが出来ても、言葉として頭で理解することはできなかった。

 おじさんの言葉が右から左に流れていく。

 私はこの時、ある言葉がよぎった。


『絶望』


 キョウさん、どうしていなくなってしまったの?どうして、何も言わないで消えてしまったの?私はこんなにも愛していたのに。キョウさんに全てを捧げていたのに。キョウさんは何も思っていなかったの?何も感じていななかったの?私の事、なんとも思っていなかったの?

 私キョウさんの為に色んなものを捧げたよ。体も心も愛も痛みも友達も。

もしかして、まだ足りなかった?まだ、捧げ切れてなかった?まだ、痛みがたりなかったのかな。もっと痛めば、帰ってきてくれる?

もしかして、何か気に障る事しちゃった?ねえ、謝るから帰ってきてよ……。

ねえ、キョウさん。今、どこに居る?何してる?私の事覚えてる?もしかして忘れちゃった?

ねえ、どうして、いなくなっちゃったの?どうして、何も言ってくれなかったの?どうして、私の事置いて皆どこかに居ちゃうの?




 ねえ、どうして?




 気が付くと私は店の外にいた。外の風が私の頬を優しくなでる。

 私はもう何もわからなかった。愛も、痛みも。何が何だか訳が分からなかった。ただ一つ、わかるとすれば、もうキョウさんには会えないという事だけだった。

 私は駅に向かって歩いた。色んな人が私の横を通りすぎていく。キョロキョロしてる人、歩きスマホをしてる人、信号待ちをしてる人、ただ何もせずに歩いている人。多くの人が私の視界に入り、そして出て行く。

 私はボーっと、その空間を眺めた。


一組のカップルが私の横を通り過ぎて行く。

その瞬間、私は息を飲んだ。

「⁉」

そこには並んで歩く、姉とキョウさんの姿があった。

 二人は仲良さそうに手を繋いで、歩いていた。

 お腹が少し大きくなった姉。その姉に優しく微笑む、キョウさん。二人は笑っていた。

 その瞬間、私は全てを察した。それはまるで、点と点が結び合い、線になった感覚だった。

 そして、私は思い出した。初めて、ピアスを開けた日の事を。初めて、キョウさんが笑っていたのを見た日の事を。私はその時、その顔を、その雰囲気をどこかで見たことがあった。それを、私はずっと思い出せずにいた。しかし、それを今思い出したのだ。そうそれは、姉だった。キョウさんの笑い顔は、姉に似ていたのだ。

 いや、姉だけじゃない。初めて会った頃の一夜や、海に向かう途中であった先生にも似ていた。顔とかそういう外見の話ではなく、雰囲気のようなものが。

 そう、それは、『幸せに包まれた者の笑顔』だった。

 それに気が付いた瞬間、私は強い殺意を覚えた。自分に対する強い殺意を。

 人を殺したくなるのはこういう感情なのかと私は初めて、知った。あの時ではわから鳴った、父を殺したい一夜の気持ちがわかるような気がする。

 私は自分を殺したくなった。どうして、その二人の関係に気がつけなかったのかと。まるで、私はピエロではないかと。

 そして私は後悔した。私の愛は無駄だったのだと。私の捧げたもの、捧げようとしたもの、捧げることで失ってしまったもの、それらは一体何だったのだ?それともこれも痛み、愛だって、言うのだろうか。

 二人が人ごみに消えていく。私はそれを眺め続けた。二人が完全に見えなくなった後も私は二人が居たその空間を眺め続けた。

 もう、私には何もわからなかった。これが夢なのか。それとも現実なのかすら、私には判断がつかなかった。

ふと、私は自分の両手を見た。

 そこには何もなかった。ただ、自分の手があるだけで、それ以外は何も、持っていなかった。

 これは、まるで私の心だと思った。何も持たず、何も抱えず、痛みを与えたり、痛みを受け取る事しか知らない手。

 私の周りを多くの人が通り過ぎて行く。私は動けなかった。

 私の影が静かにその姿を大きくした。




 ある少女が一人、部屋の真ん中で立っている。

 その部屋は暗かった。

 カーテンは閉め切られ、明かりは無く、辛うじて、カーテンの隙間から漏れる光だけが、彼女の輪郭をはっきりさせた。

 彼女は無表情だった。その何も示さない無の顔が暗闇に浮かび、まるでそれは幽霊のようだった。

 そんな空間の中で、彼女はピアスを外していた。

 最初に女性器につけられたものを外し、次にへそ、首、口元、舌、耳たぶと順々に

外していく。

舌のピアスを外すまで彼女は手際よく行った。まるでそれは何かの儀式の準備をするかの如く、単調だった。

そして最後、耳たぶのピアスを外そうとしたとき、そのピアスから血が滴った。どうやら、何かに引っ掛けてしまったらしい。しかし、彼女は顔色を変えることもなく、何か声を上げることもなく、ただ単調に、そのピアスを外した。

ピアスから、血が滴る。

それはまるで、無表情の彼女の代わりに泣いているみたいだった。

全てのピアスを外した彼女はそのピアスをごみ箱に捨て、その場に立ち尽くした。

ピアスからはまだ、血が垂れている。

彼女は動かない。まるで何かの儀式をしているようだ。いや、もうその儀式は終わっているのかもしれない。

彼女は、暗闇に立ち続けた。何をするわけでもなくただただ、呆然と。

耳から一滴の血がカーッペットに落ちて、広がる。




ピアスホールが泣いている。

                                    《終》

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