第8話 異形の残した爪痕2
翌朝、クリエスはいつもより少し遅めに目が覚めた。早めに起きようと思っていたが、身体の方が思っていた以上に疲弊していたらしく、全身に残る疲れを引き摺るようにベッドから抜け出す。
朝の支度を整え、義手を手にしたとき、深く刻まれた傷跡を目にした途端、泣きそうになった自分に気付いた。
もしハーシェルの目がこのまま二度と開くことが無ければ、そう無意識のうちに沸き上がった恐怖感に思い切り首を振るい、義手を付ける事も出来ず、胸に抱え込んで部屋を出た。
姉妹の自宅は店と繋がっており、クリエスは店に繋がる工房の裏口から中に入った。
工房の中は普段と変わらない様子で、シエルリーサの広げた義肢具の試作品が机の上に並べられているのを眺めつつ、そのまま台所の方へと場所を移ったが、誰の姿も無く夕べの形のままで全てが残っていた。
「シエルさん、ハーちゃん。起きてる?」
ハーシェルの部屋の扉をノックしてみたが返事はない。シエルリーサの姿も店側の方に居る気配もないからこの中にいるはずなのだが、もう一度だけ強く扉を叩いて声を掛けるしかない。
「んー……ちょっと待っててぇ」
どうやらシエルリーサを扉越しに起こすことに成功したらしいと、ほっとしたのも束の間、待てども出てくる気配がない。
やはり昨夜遅くまで診療所に居たのが響いているのだろう。
せめて顔が見られれば安心できるのにと思いつつ、シエルリーサの帰宅したときの疲れ切った様子を思い起こした。
疲れているのは自分だけでは無いと自ら言い聞かせ、もう少しだけ、せめて朝食を用意し終えるまでは休ませておこうと決めて改めて台所へと移り、視界に入った棚を見てあっと思い出した。
昨日しっかりと買い物をするつもりだったから、食材が殆ど残っていない。
保冷庫の中身は一昨日近所のおばちゃんから貰った特製のベーコンが半分ほどの大きさになって残っている程度。それ以外は貯蓄棚に葉物野菜が少しと根菜が少々あるくらいだ。
朝食を済ませた後は直ぐに動かないとダメだろうな。と考えながら、黒パンを切り分け、量を誤魔化せる野菜スープを作り後は皿に盛り付けるだけというところで火を止め、再びハーシェルの部屋の前へと戻った。
「シエルさん、ハーちゃん、朝ご飯作ったよ」
三度目のノックでようやく部屋の扉が開くと、寝不足を示すように目の下に薄く隈を作ったシエルリーサが扉を開けてくれたが、願った人の姿は未だにベッドの上にあった。
「ごめんね。今日あたしの番だったのに」
「大丈夫です。それより……」
そっと部屋の奥を覗く姿にシエルリーサは緩く首を振るう。クリエス自身も予想と覚悟はしていたが、やはり肩を落とすことは止められなかった。
不安気に妹と同じ琥珀色の瞳を揺らしたシエルリーサに、何か不安を拭えるような言葉を掛けられれば良かったが、彼にはまだそう出来るだけの余裕は戻っていなかった。
「先に食べちゃおうか」
慰められるような笑みを乗せて共に食卓に着くと、シエルリーサは自らの不安を取り除こうとしてか、大袈裟なまでに「本当に助かる」と声を上げ、クリエスも彼女を見習うように少し大きく「いただきます」と声を上げた。
ほんの一瞬だけ日常が戻ったように感じて、クリエスは自分が一昨日から碌に食事をしてなかったことを思い出し、少し硬いパンに噛り付いた。
「とりあえず今日の昼頃にはハーちゃんの診察に先生が来てくれるって。診察が終わったら店は開けようと思ってるんだけど。クウはどうする?」
「ボクはこの後すぐに食糧買い出しに……昨日何も買えないままだったし」
クリエスは思わず吐き出しそうになった溜息をスープと一緒に飲み込むと、ちらりと窓の外へ視線を向けた。
昨日の騒ぎも無かったかのように、薄い雲をたなびかせる青い空が窓の向こう側に広がっていたが、部屋の中にはその陽射しも影になって入ってはこなかった。
「町の様子も見てこようと思ってます。だから、午後一に戻るのはもしかしたら難しいかも」
ハーシェルの事は当然心配だが、何も残っていない食材棚にも不安があった。
「分かった。そうしたら診療所の方にも立ち寄ってもらえる? 結局昨日は先生たち捕まえるのだけで一杯いっぱいで……あの人の様子も何か分かったら教えてくれると嬉しい」
「ボクも出来るならお礼は直接言いたいので、そうします」
「うん。お願いするね」
シエルリーサと勉強や仕事を抜きに、二人きりで食事をすると言うのはこれが初めてな気がして、クリエスは途端にどんな話をすれば良いのか迷ってしまった。まさか目の前の彼女も同じことを考えているとは露とも思わないまま、二人の視線は何となしにハーシェルが普段座る席へと向けられていた。
空っぽの席を見つめながら、こんなときハーシェルならどんな風に話をするだろうかと考え、きっとみんなが日常に早く戻れるようにウンウンと唸っている姿が二人の脳裏に浮かんでいた。
同時にハーシェルなら「出来る事は、一つずつ確かめてからで良いのよ。ダメならその時はその時」と笑って言うのだろう。
直接彼女から聞けない寂しさを抱えながら、先に食事を終えたらしいシエルリーサから「ごちそうさま」と言う声が向けられた。
「ねえ、もしスヴェンに会ったら……あー、やっぱり忘れて。彼も忙しいだろうから」
何か伝えようとした結果、自ら首を横に振り取り下げたシエルリーサの姿に、クリエスはあっと小さく声を零した。
「巡回ついでに顔出してもらうように伝えて良いですか?」
結局、事件のあと家に戻ってからも、二人があのまま「顔を合わせられなかった」とお互いに零していたと気付いて、そう言い添えてみる。
「しなくて良いわ、それよりクウ、腕はどうしたの?」
けれど彼女は眉を少し下げるとゆっくりと首を横に振り、かわりにスープ皿を支える彼の右腕に義手が付けられていないことを指摘する。
「あぁ……その、少しだけ傷が深いみたいなので、補修してからがいいかなって」
「そうだったわね。一度見せて」
今度はクリエスの方が言い淀み、きっぱりと告げられた言葉に、膝の上に置いていた義手をテーブルの上に差し出した。
加工士としてシエルリーサはクリエスの師匠になる。
その彼女が義手を確かめると、ふむと頷いた。
「軸は少し調整する必要があるけど、伝達回路は無事みたいね。準備してくるから、出る前に補修作業しましょ」
「はいっ」
それならと言うように安堵を見せた彼に、シエルリーサは微かに苦笑を残して、先に彼の義手を持って席を立った。
その後を追い掛けるように、クリエスも急いで残っていたスープを飲み込むと流しの中へ置いて工房へと走っていく。
補修と言うだけあって、シエルリーサの案で穴の開いた部分は簡単に埋めてしまい、腕の見た目に影響のある部分だけ別の皮素材で隠すように覆うということになった。
そのくらいなら時間も掛からないし、何より後でハーシェルと共に別の作業をするにも、削ったり外してしまえば良いと言う。
シエルリーサの指導で、クリエス自身が義手に空いた穴を埋める作業を済ませ、硬化剤が他の物に付かないように紙を当て添え、薄く綺麗に
明らかにツギハギとなってしまった義手だが、いつも通り長袖を来てしまえばそれももう分からない。
傷が元で壊れてしまいそうな心配が目に見えて減ったことに、クリエスはほっとし、義手を付けた腕をそっと抱えた。
「ありがとうございます」
「このくらいならハーちゃんも怒らないでしょうからね。それにしても、クウも大分加工魔法を覚えてたし、ハーちゃんが起きたらもう少し難しいやつを一緒に教えても良いかしら」
シエルリーサからの言葉に、クリエスはぱっと嬉しそうな顔を見せた。
一昨日の騒動をハーシェルから聞いていただけに、シエルリーサは少し元気が戻った彼の様子にそっと笑みを向けていた。
「片付けはあたしがやっておくから、買い物の方はお願いするわ」
「はい」
「それと、ハーちゃんに早く起きないとご飯無くなるって言うのも伝えておいてね」
「え……」
どうしてそんな言葉をシエルリーサから頼まれたのか分からず、クリエスが意味も訪ねる前に師匠の背中は台所の影へと消えてしまっていた。
出掛ける前に確かにハーシェルの顔は見たいと思っていたが、それを見透かされたのかと思えば、少しばかり気恥ずかしさが勝ってくる。
それでも、頼まれたからと言うように彼女の部屋の前に立つと、ゆっくりと右手でノックをする。
「ハーちゃん、開けるよ」
この音で起きていて欲しいと願いつつ扉を開けても、ベッドの上ではやはり寝息を立てているハーシェルがそこにいるだけだった。
「早く起きないと、ご飯無くなっちゃうってシエルさんからの伝言だよ」
ベッドの傍らにしゃがみ込んで声を掛けるが、それでも彼女は目を開ける事も無く、ただ規則正しく呼吸だけが続いている。
いつもならご飯の心配を煽るのはハーシェルの方で、その度に直ぐに行くと答えるのはクリエスとシエルリーサの二人だ。その様子にいつも上機嫌な笑みを向けてくれるのに、今は生気が薄く、少しだけ寝苦しそうな表情を浮かべて
「買うのはシチューの材料でいいんだよね。
そっと告げて、立ち上がったとき机の上に置かれたままのハーシェルの道具鞄に気付いた。
夕べ無造作にシエルリーサが片付けていたなと思い返した時、その鞄の下にくしゃりと皺の寄った手紙が見えてしまった。
文面の殆どは鞄の下敷きになっていて見えなかったが、隙間から顔を覗かせるように見えた几帳面な文字は、クリエスにとっても見慣れたものだった。
「――っ」
それに引き寄せられるように、左手の先に触れたインクの感触に反射的に手を引き離し、思わずハーシェルの顔色を伺うように視線を彷徨わせてしまった。
彼女の閉じた瞼と青白い頬には笑みも、困惑も浮かんではいない。
怒るはずもないのに、クリエスは半ば逃げ出す様にハーシェルの部屋を出ると、後ろ手に扉を閉めてずるずるとその場にしゃがみ込んでしまった。
「何やってんだよ……ホントに」
気になったからって、人の手紙を勝手に触るなんて。
また一つ謝らないといけない事が増えたと、重たく肩にのしかかる自己嫌悪を引き摺るように、のろのろと離れていく事しか出来なかった。
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