第7話 異形の残した爪痕1

 クウは料理が出来るしなぁ。もう少し義手の調整が出来たら、うちを旅立つ日も近いのかしら――


 結局、あの言葉はどういう意味だったのだろう。

 クリエスは自身が負った傷の痛みより、さらりと背中から流れ落ちた長い栗色の髪が頬に触れ、その瞬間、今朝の事を思い出してしまった事のほうが、酷く全身が痛む気がした。

 とにかく生きていて良かったと安堵したかった。

 しかし、安堵するどころか、ハーシェルにとって自分は傍にいて欲しくない相手なのかと、嫌な方向へ思考が転がりそうになる。

 異形が齎した混乱のせいで彼女の真意を聞く機会も、謝る機会を逃がしてしまったままで、クリエスはもう一度だけ溜息を吐く。

 背中に背負うハーシェルの寝息よりも浅く、頼り無いその呼吸を首筋に受ける彼の中で、不安が胸の奥でじくじくと痛むように広がってしまい、思わず唇を引き締めていた。

「クウ、入って。タオル持ってくるから部屋行ってて」

 シエルリーサの手で玄関の扉を押さえられ、クリエスはハーシェルを隙間にぶつけないように気を付けながら姉妹の自宅へ入ると、姉は手を離して急いで奥へと行ってしまった。

 まだ明るい外の陽射しだけが、事件の惨状も意に介さず廊下を温かく照らしていた。

 クリエスはハーシェルの部屋へ向かうと、ほんの少しだけ躊躇った後ドアノブに手を掛けた。鍵の無いその部屋の扉は、微かに軋む音を立てて開いた。

 ぱっと視界に入ったベッドは、まるでついさっき抜け出したばかりのようで、その上には道具袋が大きく口を開いて置かれていた。

 それが、彼女が夜を徹して自分の義手を整えてくれたと伝え、クリエスは一層胸が苦しくなってしまった。

「お待たせ……って、ハーちゃんあたしには片付けろっていつも言うのに」

 シエルリーサがタオルを持って妹の部屋に入って来ると、言い返す事の無いハーシェルの姿に微かに言葉を詰まらせながら、寝かせるのに邪魔となる道具袋を机の上へ移動させ、毛布は椅子の上に乗せ置いた。

「これで良いかな」

 汚れても良いように大きなタオルを敷いたところで、シエルリーサにベッドの前を譲られ、クリエスはゆっくりとハーシェルの身体をその上に降ろした。

 傷だらけの彼女の身体に思わず彼は手を伸ばしかけ、きゅっと拳へと作り替えると、そっと一歩後ろへ下がり身体ごと距離を取った。

「ボク、お湯作ってきます」

 そう言って踵を返したクリエスは部屋を出て行き、残されたシエルリーサはこういう時、いつもハーシェルに頼りっぱなしだったなと反省しながら、少し考えてから妹の寝間着を探し始めた。

「ハーちゃん、早く起きてね」

 そう祈りながら、妹の頬に付いていた土埃を指先で拭い取った。


 ◇◆◇◆◇◆◇


「こういう入れ違いは淋しいもんだな」

 ふうっと溜息を吐いたスヴェルムが聴取のため、同僚アドルと共にツインウェア義装具店を訪れた時は、既に夕日が町外れに沈む頃合いだった。

 二人を出迎えたのは留守を任されたクリエスだけで、彼はスヴェルムたちをツインウェア義装具店の応接スペースに案内すると、店主不在の状況を説明してくれた。

 どうやら明日の朝一番にハーシェルを診療所へ連れて行くとしたが、やはり一向に目を覚ます気配のない妹の姿に姉は居ても立っても居られず、彼に妹の事を任せ、シエルリーサ自身は医術士を呼びに行ったと言う。

「ハーシェルの様子は?」

 薄々と予想していたが、クリエスから視線を逸らして首を振られてしまい、スヴェルムらは思わず重たい息を吐いていた。

「スヴェルムさんたちも朝からでしたもんね。お疲れさまでした」

「気遣いありがとよ。それで早速本題だけど、お前さんが覚えてること全部話してくれ。順番は飛んでも構わねえからよ」

 クリエスが用意した香草茶を受け取りながら、スヴェルムは隣で記録係役のアドルがメモの用意を整えるのを見て、ゆっくりと促した。

「それですけど、ボクも本当に良く分からないんです。ハーシェルと……二人で一緒に隊舎に寄ったあと、市場で買い物するからって、噴水広場に着いた時は本当にいつも通りでした」

 微かに言い淀んだクリエスに気付いたのはスヴェルムだけで、結局あのまま有耶無耶な状態になっちまったかと、心を痛めた。

「あと、間違いなく警鐘は鳴ってなかったです。だからボクらも警戒は全く。そこでいきなりの突風っていうか爆発? が起きて、気付いたら変なヤツが居たっていう感じです」

 しかし心配を向けられた当人クリエスはスヴェルムのその眼差しに気付いた様子もなく、出来るだけ何があったかを詳しく伝えようと、彼は口元に手を当てて考えながら慎重に説明の言葉を繋いでいた。

「その変なヤツの特徴、もうちと詳しく教えて貰っていいか?」

 アドルから促されクリエスは軽く頷き返し、記憶を探り始めたところで、改めて異形の姿を思い出した瞬間、自然と背筋が震えてしまった。

「声帯が潰れてるのか分からないけどすっごいしゃがれ声。だから性別は……多分、男だとは思うけど。髪は銀っていうか総白髪かな。手入れは全然されてない感じ。肌、と言って良いのかなぁ……黒い外硬皮で殆ど覆われてたし」

 そこで一度会話を止めたクリエスは、今度は眉間に皺を寄せて頭の中に浮かぶ本の頁をめくり始めたように視線を彷徨わせた。

「素材的に言えばディザーワームっぽい外皮だった? いやそれよりももっと硬かったしな……それに魔力で変形させたって感じもあるし、あっ、オニキスロンワームが近い素材かもっ。あと、目は月光色でした」

 適切な言葉が見つけられたと、ぱっと顔を上げて告げた瞬間だった。

 普段は落ち着いた態度のスヴェルムが驚きのあまり、乱暴にマグカップをテーブルに打ち付けた音が響き、跳ねた香草茶の飛沫が周囲に水跡を作る。

「おいおいおいっ! 月光色の眼って魔獣じゃねえかっ。人型とか見たことも聞いたこともねえぞっ!」

「うわぁ、オニキスロンワームって超珍しい飛龍種じゃんか。そんなのを鎧代わりにしてるって、頭おかしいだろそいつ……」

 スヴェルムは自身の手が震えていた事に気付き、隣で聞いていたアドルもぽかんと口を開けたまま、今にもペンを落としそうになってた。

 クリエスも二人の反応に思わず瞳を瞬かせてしまった。だが改めて思い返すと、確かにそうだと妙に納得をする。あれは人の言葉を介したとしても、自分たちと同じ人間ではない――まさに異形そのものだ。

「一応、ボクの感想ってところですからね」

「分かってるけどよー。やっぱ信じらんね……」

 改めてメモを取ったアドルが再びペンを止めて軽く愚痴のように零しながら、ちらりと隣に座るスヴェルムを盗み見る。やはり自分と同じように、信じられないと言いたげに腕を組んで唸っているところだった。

「そのバケモノの狙いって何だったんだろうな」

「……分かんない」

 アドルの呟きに、クリエスはそっと首を横に振るう。

 あの異形は、確かに何かしらの目的を持っているように見えた。

 しかし、その理由を考える余裕など、こちらには無かった。

「とは言え、そのバケモノもどうせクウが倒したんだろ?」

「そうだと良いんだけどね……」

 自分の問い掛けに緩く首を振るうクリエスの姿に、アドルは何とも腑に落ちない溜息を吐き出すしかなかった。

 アドルの中でクリエスと言う青年は、義手と言う不利と思える身体でありながら、剣も魔法も扱いこなす器用な人間だと思っていた。

 実際、これまでにも何度かスヴェルムに誘われて、クリエスと共に魔獣を相手にした経験もあった。稽古では互角に見せかけて、実践ではクリエスの方が常に思い切りが良く、アドルは後を追う形になっていた。だからこそ、昨日の憔悴しきった姿には心底驚かされたのだ。

「お前さんの魔法で吹っ飛んだって言うオチは?」

「正直、皆さんの方で確認が取れてないなら逃げられてると思います。スヴェルムさんと一緒だったなら、もう少し確実に深手を負わせられてたかも知れないですけど」

 アドルの質問に重ねるように問い掛けたスヴェルムの言葉だったが、僅かな望みも薄いだろうと滲ませていた。だから、クリエスもその通りだと言うように言葉を重ね、ぬるくなってきた香草茶を啜りながら、更に詳細な状況を思い出そうとしていた。

「普段のボクじゃ出せない魔法の威力だったのに、あいつはそれを簡単に防いでたし……」

 唸りながら、ふとランプの光がマグカップの中で反射したのに気付いたクリエスは、視線を二人へ戻した。

「そう言えばあの場所に変な結晶体って残ってませんでした? そいつが消える前に使ってた魔導具と思うんですけど、彼女ハーシェルが“ヤバイ”って認定してたんで」

「結晶体? そんなもん現場に残ってたかねえ」

 突然話題を変えられて顔を見合わせるスヴェルムたちに、クリエスは手でその結晶体の大きさや形状を伝え、砕けた欠片が何処かへ飛んで行ったとも言い添えた。

「話を聞く限りだと高魔力結晶体って思ってた方が良いみたいだな。捜索手配しておくか?」

「出来るだけ内密にして貰う方が良いかも知れません。シエルさんに確認してもらってからの方が安全だと思います」

「厄介そうなブツだな。状況によっちゃ研究所に送るからな」

「それは……分かりました」

「不服そうな顔しやがるなぁ。ハーシェルがこれまで危ないって言った素材ブツの多くが高濃度魔力保有物だったろ。下手な爆弾より危ない代物を個人工房に置いとけるわけねえだろ」

 町民らの安全第一を考える憲兵隊員スヴェルムの指摘は至極尤もで、クリエスは首を縦に振ることしか許されなかった。けれど、クリエスの心の中ではどうしても、自分たちの側にある方が良いと言う思いも渦巻いていた。

 理由を言えと言われても、整然とした答えが出ない所謂、勘のようなものだ。

「それともう一つ。あの火傷男はどういう経緯で会ったんだ?」

「それが……」

 当然のようにスヴェルムの次の質問へ移ったが、クリエスはやはり、先程の異形の遭遇と同様に言葉を詰まらせる。

「正直、良く分からないんですよ。あの異形が起こした爆発のあと、あそこに居たとしか」

「んな事はねえだろ、ただの観光客じゃねえだろ。あんな目立つ風貌でよ……」

「ボクも最初はそう思ったんですけど、でも違うような気がするんですよね。あ、おかわり淹れますか?」

 上手い答えが出せないまま、クリエスは自分のマグカップの中身が空っぽになっていた事に気が付き、スヴェルムらへ声を掛けたが、二人はちらりと目配せをすると「大丈夫だ」と答えた。

「そんで、クウはなんで違うって思ったんだ?」

「一番はあの大きな火傷」

 クリエスが新しいお茶を自分のマグカップに注ぐ合間、アドルが質問をしつつペンを走らせる音が響く。

「あの火傷、かなり新しかったし……でも、この町の中でも外でも、近くで火事があった話なんて聞いてないですよね」

 クリエスは気分を落ち着けるように、マグカップにゆっくりと唇を近づけ、ちらりと師匠の様子を伺う。

「――まあ、そうだな。そんな話がありゃ俺らも聞いてるか」

 訳が分からんと思い切り溜息を零したスヴェルムに苦笑してみたが、クリエスの視線は自分の動かない義手へ移っていた。

 あの人は焼け爛れた腕を厭わず、声無き咆哮で異形へと飛び掛かった。

 その男の姿を思い出し、そう動ける根底にあったのは激しい怒りだと予想立てていた。ほんの一瞬の合間で、自分の混乱を納めて犯人いぎょうへ飛び掛かれるものなのか、そう考えてしまった。

「あ、それと聞き間違いじゃなかったら、あの異形が最初に言ってたのは“成功した”っていう言葉だったと思います」

 あまりにもひび割れた音で呟かれたものだったから自信が無かったが、クリエスは完全に忘れないうちにと言うように告げる。

「“成功した”か。まさか転移とか、そんな御伽噺の類じゃないよなー」

 アドルの口から零れた単語に、思わず三人は揃って顔を見合わせてしまったが、直ぐに有り得ないと首を横に振るって打ち消した。

 誰もが夢を見て語ることはあれど、ただの一度も成功したと言う話など誰の口からも語られたことが無い事象だ。

「あ、はは……まさか。人間二人がいきなりどっかから飛んできたなんて」

「まあ……アレだな。男の方は明日にでも事情聴けば良いな」

「そうっすね。クウ、他には何か覚えてる事とか気になった事とかないかー?」

 上擦った声のままアドルに促されたが、クリエスは少しばかり思考を整理するように沈黙を選んび、ゆっくりと顔を振るって見せた。

「特には。というかボクも訳が分かんないまま必死だったから。曖昧なとこも多くて……」

「あー、それもそうだな。ならスヴェンさん、今日はこのくらいで切り上げますか?」

「そうだな。遅くまで悪かったな」

「いえ大丈夫です。スヴェルムさんも、アドルもお疲れ様です」

 切り上げ時と言うように席を立ったスヴェルムたちをそのまま見送り、後を片付けながらクリエスは深く溜息を吐き出していた。

 確証の無いことは言葉にするな。

 そう浮かんだ台詞は誰の言葉だったか。確か本で読んだ気もするが……と思考が横に逸れたが、青年の胸の内には二人に言えない疑惑が残っていた。

 先程はあり得ない事だと同意したが、本当は転移ではなかろうかという疑惑。

 魔法を使うのは素質と素養が必要不可欠であり、多少なりともクリエスはその素質が訪れた二人よりもあった。

 噴水広場で吹き飛ばされたあと、大きな魔法を使った後のような魔力粒子の減少と回復に向けての揺らぎを確かに感じた。

 けれど魔力酔いに似た濃密な魔力粒子の感覚が、自分が知るものと大きな隔たりがある気がして、クリエスは自分の肌身に残る違和感を言葉にしきれなかった。

「なんと言うか恩讐めいた感覚なんだよな」

 マグカップの水気を拭いながら、義手の引きれた鈍い痛みに思わずカップを落としそうになり、慌てて腕の中に抱え込む。

 割らなくて良かったと思いながら、来客用のカップをしまうとき、彼女ハーシェル専用のカップをそっと両手で包む様に取り出した。

「早く起きてくれないと、用意も出来ないじゃないか……」

 そう零しながら、左の指先でカップの猫の足跡を撫で、ティーポットの隣にそっと置いた。

 ハーシェルがいつ起きて来ても良いようにと、クリエスは独り台所の椅子に座り込み、じわじわと溶けるように過ぎる時間に身を任せるしかなかった。

 結局ハーシェルが起きてくることもないまま、シエルリーサが戻ったのもスヴェルムたちが帰ってから少し経った後で、顔見知りの憲兵に送り届けられる形となってしまった。

「迎えに行けばよかったですよね」

「ハーちゃんが起きた時、傍に誰もいない方が困るから。クウも今日はもう部屋で休んで良いよ」

「でも……」

「大丈夫だから、部屋に戻って」

 出来る事ならハーシェルの傍に居たくもあったが、姉であり家主のシエルリーサから自室で休めと告げられてしまい、居候の身であるクリエスはそれに従うしか出来きず、名残惜しくもカップへ視線を残していた。

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