第5話 言えないひとこと1
クリエスがザリオート町に来て、もうすぐ二年になるのか。
片腕を失う大怪我を負い、見知らぬ町で過ごす二年という歳月が長いと感じるのか短いと感じるのかハーシェルには分からない。
彼を連れて来たスヴェルムからは簡素に事情は聞いたが、詳細についてはスヴェルムも語らなかった。
すっかり心を開いてくれたと思っていたが、心の深い所にある扉は閉められたままなのかも知れない。
そう思いながら、森の中の道をハーシェルは時折小走りになって、彼の小柄な背中を追い掛けて行く。
風も少し強くなったのか枝葉を鳴らす音が周囲に響き、行きとは違い無言で進むうちに、いつしか森の切れ間が見えてきた。
街道の向こう側に見える青い葉を靡かせる畑を越えれば、町の門ももうすぐという場所で、クリエスは視線を地面に落とし自身の鞄を固く握りしめたままで、自分を待ってくれていた。
その姿にハーシェルは少しほっとした。
こうして気を遣う子なだけに、自分が何か気に障るような行動を取ってしまったのかも知れない。
後できちんと話をしてみよう。
そう考えて、彼に追いつこうと急ぎ足になったところで、後ろの方からガサガサと迫る音が聞こえ、振り返るよりも先に見えたのはクリエスが驚いた表情で顔を上げていた瞬間だった。
「ハーちゃん!」
クリエスが叫びながら鞄を放り投げ、走り戻って来るその姿を視界の端に残像のようにとらえたまま、ハーシェルもようやく後ろを振り向けた。
その直後、傍の茂みを大きな音を立てて一抱え程ある黒い塊が飛び出して来た。
ぶつかると思った瞬間、クリエスに掴まれた腕が思い切り引っ張られ、彼女の身体は大きくバランスを崩した。
「大丈夫?」
「び、びっくりしたぁ」
衝突を避けられたことと、倒れかけたところを自分よりも背の低いクリエスにしっかりと支えられ、思わず二度びっくりしてしまった。
バクバクと跳ね上がる心臓を押さえて、ハーシェルは一体何があったのかと周囲を見回す。しかし彼女の見える範囲には、飛び出して来た黒い塊の姿は見えず、ガサガサと近くを走り回る音だけがする。
デタラメに走るその音は止まることなく、二人は緊張した面持ちのままにいたが、ハーシェルはクリエスに掴まれたままの自分の肩に気が付き、そっと彼の手を外して道具鞄を持ち直した。
「一体なんだったの?」
「アルボサンゴ……かな」
「なるほどねぇ。あれが作物荒らしの正体かしら」
「そうだと思う。急いでみんなに教えなきゃ」
やはり視線は合わぬままだが、呟かれたクリエスの言葉にハーシェルも頷き返す。
アルボサンゴは比較的温厚だが、体躯は人間の五歳児ほどある。
そのうえ突進力が高く、左右二対で前に生え揃う牙を用いた体当たりを喰らってしまえば大型馬車をひっくり返すどころか、鋼鉄製の盾も貫くと言われている。
何よりザリオート町の人間たちにとって一番厄介なのは、地中に根を張る野菜が好物で己の好みの物に行き当たるまで、地面を掘り返して進んで行くと言う点だ。
もし今見た影がアルボサンゴなら、早急に駆除しなくてはならない。
それだけに、二人は急いで戻ろうとしたのだが、再び進行方向の森の奥で影が揺れた。
「ハーちゃん、下がっててっ」
「一人じゃ危ないよ!」
クリエスは咄嗟にハーシェルへ制止の腕を伸ばし、前を睨みつけた。
アルボサンゴなら魔法が効く。彼は、それが分かっているから大丈夫だと考えてしまった。
飛び出してくる瞬間に合わせて魔法を放つだけ。そう考えて魔力を練り上げていた。
「エアーバインドッ!」
がさりと大きな音を立てて、確かにアルボサンゴの黒っぽい栗毛が街道へと飛び出し、狙ったようにクリエスが作り出した空気の壁にその身体をぶつけて、倒れ込む様に止まった。
ただし、そのアルボサンゴの身体からはだらだらと血を流し地面を濡らしていき、灰色の毛玉が二つ、アルボサンゴの黒っぽい栗毛の胴体と喉元にそれぞれぶら下がっているのが見えた。
「――っ!」
その毛玉のうち一つ。灰色の毛に埋もれる獰猛な月光色の眼差しと目が合ったと思うと、クリエスの喉の奥で変な音が立っていた。
突然、空気が上手く吸えなくなり、息苦しさだけが増して全身が震えていく。
「な、んで……」
クリエスの視界がぐにゃりと歪むんでしまい、自分が立てているのかすら分からなくなってしまった。
喉の奥を震わせて変な音が聞こえてくる。息を吐き出したいのに吸う事ばかりしか出来ない恐怖に、意味もなく涙が込み上げて来た。
そして更に震える彼の恐怖心に追い打ちをかけるように、灰色の毛玉の一匹が遠吠えを高く上げ、アルボサンゴの首元に喰らい付いていたもう一匹が、その骨を砕く音を上げた。
「なんでアルボロフォが! クウ逃げてッ!」
驚いたハーシェルの声も、立ち竦んでしまった今のクリエスには届いていなかった。
アルボサンゴより一回り小さいが、目の前で赤く染まった犬歯を剥き出しにし低い唸り声を上げ、大地に灰色毛の四つ足を踏ん張りつける野犬たち。
その群れがいつの間にか二人を大きく取り囲み。少しずつ逃がさないようにと、ぐるぐると周囲を回り始めていた。
「これ……は、ちょっとまずいかなぁ」
ハーシェルは乾いた笑みが浮かんでくることを自覚しながら、人間恐怖心が勝って来ると笑うしかないのだろうかと、そんなことを彼女は考えながら、少しずつ野犬の群れを刺激しないようにクリエスの側へと近付いていく。
「クウ……」
震える声でクリエスへ呼び掛けたが、彼は小さく体を抱えてしまい今にも倒れてしまいそうに見えた。
ハーシェルは緊張に一度喉を鳴らすと、野犬の動きに注意を払いながら、慎重に足元を滑らせるようにクリエスの傍へ近付いていく。
もう一度、彼の名前を呼んでみたが、いつもなら確実に聞こえている距離にも拘らず、それでもクリエスには気が付いた様子もなかった。
ただハーシェルには、はっきりとその身体を恐怖に震わせ、かちかちと歯を打ち鳴らしている音が聞こえていた。
「クウ、大丈夫だから。わたしが守ってあげるから」
クリエスの過去に何があったのかは分からない。
ただ、ハーシェルの中ではっきりと分かるのは、再び彼が辛い痛みを思い出してしまったと言う事だけだ。
ゆっくりと声を掛け、ハーシェルは後ろから驚かさないようにそっと腕を伸ばして、クリエスの身体を自分の方へ寄り掛からせた。
その瞬間、クリエスが驚いたのか身体を跳ねさせ逃げ出そうとしたが、響いた野犬の唸り声に無意識のうちに腕にしがみついてきた。
彼女はその腕の痛みを喉の奥で堪え、その小柄な体を強く抱きしめ返し「大丈夫」と震えるクリエスの耳元で優しく声を掛けた。
「クウ。クリエス……落ち着いて」
ハーシェルは名前を呼びゆっくりとクリエスの背中を撫で始める。
「落ち着いて。大丈夫だからほら、息を吐いて、吐けたら息を吸って」
深呼吸をさせるように声を掛けながらも、彼女の琥珀色の眼差しは周囲を取り囲むアルボロフォの群れを静かに睨んでいた。
「ハーちゃ……」
「大丈夫。大丈夫だからね。クウ」
腕の中のクリエスの身体はまるで全て心臓になっているかのように震えたままだったが、微かに腕の痛みが和らぎ、彼の荒ぐ呼吸の合間に声が返って来た。
何処かで野犬たちの隙を作らないと。
ほっとする間もなく考えながら、この窮地を抜けるにはどうすれば良いか思考を巡らせるように、ハーシェルは道具鞄の中へそっと手を入れる。
護身用の魔装具を指先だけで探るが触れるのは布に包まれた道具ばかりだった。
デザインの可愛さ重視にしてしまい外側にポケットがない物を選んでしまった。せめてすぐに取り出せる位置にしておくべきだったと悔やみつつ、最悪はクリエスだけでも逃がそうと決めた。
「わたしだって、魔法の一つや二つくらい使えるんだから」
ハーシェルから零れたその決意の声とともに魔法を使おうと練り上げるが、ハーシェルは決定的に魔法を使うための魔力操作が苦手だった。魔法を行使するための練度が整わぬうちに、威嚇音を発したアルボロフォたちが、自分たちの喉元を狙い群れが一斉に飛び掛かって来た。
「二人ともしゃがめッ!」
唐突に響いた怒声にハーシェルは考えるよりも先に、クリエスの身体を守るように覆い被さった。
その瞬間、彼女の頭上を冷気が吹き抜け、反射的に鳥肌が立った。
そして、地面を重たく踏み込む音と土埃に遅れて風を切る音が、野犬の悲鳴に重なった。
「まだそのままでいろっ!」
顔を上げるなと叱責され、ハーシェルは上げかけた頭を再びぎゅっと下げた。
それから「もう良いぞ」と声が掛けられるまではさほど時間が掛からなかったが、終わったときには周囲には嫌な匂いが広がっていた。
「二人とも大丈夫か?」
「大丈夫か。ハーシェル、クリエス」
聞き慣れた男たちの声に、ハーシェルは力を入れて蹲ってた姿勢からゆっくりと身体を起こすと、全身が軋むようで痛かった。
見上げればスヴェルムとシュガ、上官に追いつく形となったアドルの三人がそこに居て、ようやく彼女は心の奥底から助かったと息を吐き出せた。
ハーシェルのその様子に、三人はほっとした表情を浮かべたが、スヴェルムの視線は直ぐに彼女の隣で座り込んだままのクリエスの姿を捉えた。
「アドル。町戻って報告入れてこい」
「でも、スヴェンさん……」
状況を察したスヴェルムから指示を受けるが、アドルは初めて
「良いから行け。ロフォの群れが居たんだ、巡回強化要請出して来い」
「……はい、すぐ行ってきます」
スヴェルムは少しばかり語気を強めて告げると、アドルは心配そうな視線を残して報告の為に背を向けた。その後輩の姿を見送り、同期のシュガにはいつもの様に傍らで警戒を頼んだ。
「クウ。大丈夫? 終わったよ……」
その合間にハーシェルがクリエスの両肩を掴んで呼び掛けていたが、彼はへたり込む様にしゃがんだままで、彼女の声が届いてる様子も見えず、その焦点は何処にも合っていなかった。
「クウ? ねえってば」
「ハーシェル。ちと、どけ」
何度も揺さぶっても反応を返す様子を見せない彼の姿にスヴェルムは仕方ねえと近付き、躊躇うハーシェルを引き離すように場所を代わると、躊躇いなくクリエスの頬を張り付けた。
「おい。俺の声聞こえてるか? 聞こえてなきゃもう一発行くからな」
「ちょっと、スヴェルム何してるのよ!」
スヴェルムの声が届いたのか、僅かにクリエスの肩が跳ねた。それを見たハーシェルは、もう一度すっと掲げられた男の腕を慌てて取り押さえ、信じられないと怒鳴る様に高い声を上げた。
「……ぁ」
ハーシェルの悲鳴に、クリエスは赤黒く染まっていた視界が晴れていくのを感じた。
そして、自分の頬に残るじんっとした鈍い痛みに小さく呻いた。
「スヴェルム、さん……なんで?」
「おう。目ぇ覚めたか?」
クリエスの黒い瞳に光が戻ったのを見て、良しと言いたげに、目の前にいたスヴェルムの大きな手が頭の上に乗せられ、わしわしと撫でていく。
まだ記憶がはっきりしていないのだろう。師匠にされるがままのクリエスの視線はまだ、ぼんやりとスヴェルムの顔を見つめていた。
「ホントッ、信じらんない! 気付けにしても何も叩くことないでしょ! クウ大丈夫?」
どいてと言いながらスヴェルムの長身をハーシェルが押し退けるのと同時に、クリエスの頬に温かくて細い掌が添えられた。
彼女の言葉と頬に触れられた場所から、クリエスは身体を縛り付ける恐怖感が、少しずつ解されるように感じると、両腕が酷く震えていた事に気が付いた。
「ハーシェル。スヴェンは何も間違っちゃいない」
「シュガまで……」
クリエスは自分を心配気に覗き込む彼女の頬に、白茶けた土が付いているのを見つけた。
なんで、ほっぺたに汚れが?
そうクリエスが疑問に思ったとき、頭に白く靄が掛かっていた記憶が徐々に結びついて来る。
あっ……と声を零し周囲へ視線を巡らせれば、ハーシェルの肩越しに見えた野犬の群れは斃されていた。
そして、アルボロフォの様子を確かめに向かうスヴェルムの大きな背中を見て、クリエスは思わず唇を噛んでしまった。
「もうすぐ日が沈む頃合いだ。クリエス、いつまでも座り込んでないで立て」
シュガから静かに向けられた言葉と共に、ぐいっと左腕を掴み上げられた。
クリエスはされるがままに、その勢いで立ち上がらされると、シュガからじっと冷たい眼差しが向けられたような気がして、思わず視線を地面へ落としてしまった。
あぁ、また助けられてしまった――
「シュガッ! クウはまだ子供なんだよ。そんな乱暴な扱いしないでよっ」
ハーシェルの言葉は心配からきた言葉だ。
それは分かっている。分かっているはずなのに、クリエスは庇うように添えられた彼女の細い手を叩き払っていた。
「クウ……?」
「――ッ」
しまったと思っても遅かった。
自分に振り払われたハーシェルの驚きの眼差しを受け止められず、彼は逃げるようにそのまま走り出していた。
また、同じことを繰り返すところだった。
その恐怖心に気付いて、どうして彼女に顔が向けられるのだろうか。
「クウッ!」
大事な人に名前を呼ばれても、もうその足は止められなかった。
「とりあえず俺らも戻るぞ」
スヴェルムは走り去ってしまった小さな背中を見送ったあと、シュガの魔法により氷漬けにされた魔獣たちの残骸を一瞥する。
ここまで処理をしておけば、他の群れが例え出たとしても警戒して町には近付かないだろう。
そして、クリエスに弾かれた腕を胸元で抱えているハーシェルへと声を掛けた。
「どうして……」
「気が動転してたんだろ。帰って温かいもんでも食えば落ち着くだろうさ」
気落ちするハーシェルに「あまり気にしすぎるな」と静かに告げたスヴェルムは、それ以上の会話を切り上げるように踵を返した。
「だったら、わたしにも事情くらい教えてくれても……」
歩みを進めて行くスヴェルムの大きな背中に、ハーシェルは思わず恨みがましい視線を向けてしまっていた。
すれ違いの原因はきっと教えて貰っていないクリエスの過去にあるんだろう。その断片でも聞けていたなら、もう少しあの子を傷付けずに済んだのかも知れないのに。
心の中で文句を言い続けてしまう自分に少しだけ溜息が出てしまった。
家に来た当初のクリエスは、本当に周りの助けで“生かされている”と言う様な状況だった。
食事も最小限しか摂らず、夜ごと悪夢を見ては悲鳴を上げていた。それを目の当たりにしているだけに、ハーシェル自身も無理やり何があったのかを問い質すことは出来なかった。
深く傷ついたクリエスの心が義手を通して表情を明るくした瞬間を覚えているだけに、それ以上は踏み込めず、いつか明かしてくれるだろうと待つことを選んだのも自分だ。
それに外に出る前、シュガからきちんと注意を受けていたのに、ただ護身用の魔装具を持っているだけの状態にしてしまった。
何かあったときには、あの子を自分が守らなくてはいけなかったのに。
「ハーシェル。あんまり、あいつを子供扱いしてやるな」
唇を思わず噛み締めたハーシェルの視界に、すっと差し出されたのは、置き去りにされていたクリエスの荷物だった。それを手にしたシュガから声をかけられたが、彼女は不満をありありと唇に乗せてしまった。
幼馴染とは言えないがハーシェルにとって、シュガは子供の頃から知っている相手だ。
甘えではあるがどうしても、スヴェルムのように割り切れない自分の心境を吐露してしまいやすい相手だった。
「子供扱いも何も、シュガも最初のクウの様子は覚えてるでしょ」
「ああ。だからと言って、いつまでも子供じゃないだろ」
歩き始めながらもハーシェルは、彼の言葉はやはり納得できなかった。
彼女自身も指摘された意味は、分かっているつもりだ。
それでもハーシェルの中でのクリエスは失った腕の痛みを抱え、またいつとも魘され、眠れぬ夜に怯えてしまうのではないかと、心配が勝ってしまう相手だった。
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