第30話 烈牙の本気の怒り
その日も烈牙様は「帰りは遅くなる」と言って竜葉を連れて出かけて行った。
私は仕事の手が空いたので久しぶりに紅葉に会いに行こうと考えて侍従長の結城のに西棟から離れる許可を申請する。
竜葉がいない時の西棟の管理のトップは侍従長の結城になるからだ。
結城は「魔公爵様がいない間に一息つくことも大事ですよ」と快く許可をくれた。
許可をもらった私は西棟から使用人棟へ向かう。
その途中で外から帰って来た樹牙と遭遇した。
「樹牙様。お帰りなさいませ」
樹牙と視線が合ったので無視することはできず私は樹牙に一礼をする。
こんな時間に樹牙が帰って来るとは思わなかったけどどうかしたのかしら。
宮廷医師の樹牙は王城で昼間仕事をしているはずなので今まで昼間に樹牙の姿をこの屋敷で見たことがない。
疑問に思う私に樹牙は優しく声をかけてきた。
「真雪ですか。ちょうどいい。私の部屋に紅茶を持ってきてくれませんか?」
「は、はい。承知しました」
私が返事をすると樹牙は自分の部屋がある東棟に歩いて行く。
本当は公子にお茶を出すのは東棟担当のメイドなのだが樹牙本人に頼まれては嫌とは言えない。公子の相手も私の仕事だからだ。
私は厨房に寄り樹牙の紅茶の準備をしてもらいそれを受け取ると東棟に足を運ぶ。
樹牙の部屋の前まで来ると扉をノックした。
「樹牙様。真雪です。紅茶をお持ちしました」
「はい、どうぞ。開いてますよ」
中から樹牙の声がする。
私は扉を開けて中に入った。
樹牙の部屋は大きな本棚に分厚い本がたくさん置いてあった。
宮廷医師をしている樹牙には豊富な知識が求められるだろうから医学関係の本かもしれない。
勉強家の樹牙らしい部屋ね。
昔からいろんな本を読んでいたし。
幼い頃の樹牙が読む本は大人のアリシアにさえ難しくて頭が痛くなりそうな内容の本だった。
疑問がある時に樹牙に本の内容について質問されたが私には答えられず困っていたら烈牙様が「母上は人間だから魔界の難しい文字を読むのが大変なんだ。分からないことは私に訊きなさい」とさりげなく助けてくださった。
私の頭が賢くなかっただけなのだがそれを指摘せず「人間だから魔界の文字を理解するのが難しい」と理由をつけてくれて私の母親としての体面を守ってくださった烈牙様の優しさが身に染みたことを覚えている。
私って本当にダメな母親だったわよね。
息子たちが烈牙様の素晴らしい頭脳を受け継いでくれて良かったわ。
「失礼します。今、紅茶を淹れますね」
「ああ、ありがとう。すまないね、真雪」
樹牙はソファにもたれかかるように座っていた。
その顔には疲れの色が見える。
宮廷医師に休みはないものね。樹牙、お疲れ様。
私は樹牙に労いの気持ちを込めながら紅茶を淹れた。
立派な大人になって仕事をする息子を誇らしく思うが無理はしてほしくない。
樹牙は宮廷医師だから自分の体調管理ができないことはないだろうと思うけど。
もしかしてこれが医者の不養生というやつかしら。
「良かったら少し私とお茶してくれないか。真雪」
「はい。承知しました」
私は自分の分の紅茶も淹れた。
樹牙に紅茶を出すと私もソファに座る。
樹牙は私の淹れた紅茶を一口飲んだ。
すると樹牙の疲れた顔に生気が戻ったように顔色が良くなる。
あら、顔色が良くなったみたいだわ。
紅茶で身体が温まったのかしら。
私も自分の紅茶に口をつけた。
「雷禅兄さんたちが言っていたが真雪の紅茶の味は懐かしい味がするよ」
「そうですか?」
「うん。私たちの母の味だ」
「…っ!」
樹牙の言葉を聞いて私は自分の紅茶を噴き出しそうになった。
落ち着いて、真雪。
これぐらい雷禅たちだって同じこと言ってたんだもの。
私がアリシアだって気付くわけないわ。
私は内心冷や冷やものだ。
アリシアと同じ紅茶の味だということに樹牙が疑問を持っては困る。
なので私は素知らぬ顔で尋ねた。
「奥方様も紅茶を淹れて飲んでいらしたんですか?」
「ああ。私たちの母親は人間でね。なんでも自分でできることはやる人だった。特に紅茶は本人が大好きで私たち子供や父上に自分で淹れて出していたんだ」
「そうなんですか」
そうね。私は魔公爵夫人だったけれどやれることは何でも自分でやっていたわね。
アリシアは人間の中でも貴族でもなく普通の平民だったから子供の頃から親の手伝いをして生活をしていたので体を動かしていないと気が済まない性分だったのだ。
貴族夫人は身の回りの世話を侍女やメイドにしてもらうが私が自分でできることはやってしまうので侍女たちに「私たちの仕事がなくなりますから」と泣きつかれたこともあった。
「樹牙様。お疲れの様子ですが大丈夫ですか?」
私は樹牙の体調が気になりそう尋ねた。
紅茶を飲んで少し顔色が良くなっていたが樹牙の身体からはまだ疲労感が滲んでいたからだ。
私と話しているよりベッドで休んだ方がいいのではないだろうか。
「昨夜は夜勤でね。今日は夜勤明けだ」
なるほど。それで朝帰りということなのね。
夜勤もあるなんて宮廷医師は本当に大変な仕事だわ。
宮廷医師は樹牙だけではないはずだが魔王様の体調管理を任されているのでいつ呼び出しがあるか分からない職業だ。
交代でいつでも対応できるようにしているのだろう。
烈牙様が魔王様は毒を盛られたこともあるって言ってたもんね。
いざという時に宮廷医師がいなかったら魔王様のお命に関わるもの。
「それでしたら少しベッドでお休みになった方が良いのでは?」
「ああ。心配してくれてありがとう。こうやって美人を見ながらお茶をするのも疲れが取れるからいいものだ」
疲れを隠すように樹牙は緑の瞳を細めて僅かに微笑む。
美人と褒められるのは嬉しいけれどそれが自分の息子となると気持ちは複雑ね。
でもここは素直にお礼を言っておきましょう。
樹牙なりに私に気を使ってくれたのかもだし。
「お褒めの言葉ありがとうございます」
「真雪は父上をどう思ってる?」
「…っ!」
油断していた私は樹牙の単刀直入の質問に一瞬たじろいだ。
しかしすぐに平静を装って答える。
「魔公爵様は使用人にも優しく私に足らないことがあっても許してくださる器の大きい立派な方だと思います」
侍女に棒で叩かれて起こされても怒ることはなかったし。
あの口づけはどうかと思うけど。
まあ、このことは樹牙には言わない方がいいわね。
「それは真雪だからじゃないかな……」
「え? 何ですか?」
小さく呟いた樹牙の声が聞き取れなくて私は再度樹牙に確認した。
「ああ。いや、何でもない。確かに父上は使用人にも冷たく当たる人じゃないが本気で怒らせたらあれほど恐ろしい人物はいないよ」
「そうなんですか?」
私はアリシア時代の記憶も探るが烈牙様に注意されたことはあっても烈牙様が本気で怒ったところを見たことがない。
アリシアの前ではいつも優しく微笑んでいた印象が強い。
でも烈牙様だって本気で怒ることはあるだろう。
そうでなかったら魔王軍の元帥など務まらない。
「樹牙様は魔公爵様が本気で怒ったのを見たことあるんですか?」
「ああ。一度だけ父上の本気の怒りを見たことがある」
その時のことを思い出したのか樹牙の顔は何かに怯えたような表情になった。
樹牙がこんな顔をするなんて烈牙様が本気で怒った時は相当怖かったのね。
でも何で烈牙様はお怒りになったのかしら。
「それはどういう時に?」
「昔、響が誘拐される事件があってな。その時の犯人に対する父上の怒りたるものや凄まじかったな」
何ですって!? 響が誘拐?
樹牙の言葉に私はギョッと目を見開いた。
「響様が誘拐されたのですか? 響様にケガは?」
「無事に父上が助け出したから響は無事だった。だが犯人たちの隠れ家を吐かせるために捕らえた数人の犯人を拷問にかけて隠れ家を突き止めそこにいた犯人を皆殺しにしたのが父上だ」
拷問……皆殺し……
私は烈牙様の魔族としての性分を見たような気がした。
烈牙様は普段優しいから忘れがちだが魔界を治める魔王様の同母弟でもあるのだ。
つまり魔族の中の魔族と言ってもいい。
魔族は基本的に残虐な性質を持っている。
烈牙様も怒らせるとその残虐性が表に出るのだろう。
私も烈牙様を怒らせないように気をつけなくちゃ。
でも……烈牙様は私が何をしても怒らない気がするわ。
私のことをアリシアだとは思っていないだろうが気に入っている程度には想ってくれているだろうと私は感じている。
そうでなかったら今朝私の額に口づけはしなかったはずだ。
「まあ。でも滅多なことでは父上は本気で怒ることはないから安心していいよ。響の誘拐事件の時は特別だ。私たちは母のアリシアの息子だからな」
「アリシア様のお子様だから魔公爵様は本気でお怒りになられたということですか?」
「そうだ。父上は母上のことを溺愛していたから父上にとって我々子供たちは母上の忘れ形見なんだ。だから私たちに暴力を振るう者に容赦しないのさ」
樹牙たちから見ても私は烈牙様に溺愛されていると思われていたのね。
それはちょっと恥ずかしいわ。
でも溺愛されていたのは前世のアリシアだ。真雪ではない。
私がアリシアに勝てる日は来るのだろうか。
樹牙は紅茶を飲み干すと私の顔を見る。
「では私は仮眠をとるから真雪は下がってかまわないよ」
「はい。では失礼します」
「私のベッドに潜り込んできても私は怒らないからね」
「っ!? そんなことしません!」
私の言葉に樹牙は笑っている。
私をからかったわね。
樹牙も私に気があるのかしら。
まあ、いいわ。今は樹牙に休んでもらう方が先だわ。
私は紅茶を片付けると早々に樹牙の部屋を出た。
やれやれ、息子にモテるのも考えものね。
でも烈牙様はアリシアを溺愛していた……か。
そのことを否定はしないけど今でも烈牙様の心にはアリシアがいるのよね。
そのことを思うと私は自分の前世のアリシアに嫉妬する気持ちが消えない。
私は溜め息を吐きながら厨房に紅茶のセットを返却し使用人棟に向かう。
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