満ちない月では煮え切らない

「疲れた」と女は言った。

「そうですね」と私は同調した。

 今日もそこそこに歩き回ったものだから、駅まで歩くその足取りは二人して重たかった。得られたものも大きかったけれど、そのぶん足にはたんと疲れが溜まっている。人もまばらな夕暮れ時に、彼女の歩く数歩先を、私は固い足取りで歩いていく。駅にたどり着いたら、そのまま帰路につく算段である。

「あ」突然声を上げたので振り返る。彼女は空を見上げていた。その目線を辿った先には、南西、低くで輝く大きな月があった。そういえば、今朝ニュースでそんなことを言っていたような気がする。

「綺麗ですねぇ」と呑気に零して、三秒空を見上げて、ふと余計なことに思い至る。目線を下ろしたら、女が笑っていた。

「あ、いえ、」私は隠しきれない動揺を身振りに変えて首を振る。「違うんです、深い意味は」

「え?」彼女は悪戯っぽく笑った。「ないの?」

 私は答えに窮した。気まずい沈黙が流れる。女はなおも微笑を浮かべていた。

「違うんですよ、本当に」

 絞り出したような声が届いたかは分からない。俯いたままぼそりと呟いたものだから、そのまま床に落ちてしまったかもしれない。そんな情けなさなんかも相まって、私はその場から脱兎のごとく逃げ出しそうになる。

「そっかぁ、違うのかぁ」彼女は声色を変えないまま背を向けた。表情はもう見えない。鳥黐とりもちに足を取られたようにその場から動けない。表情なんてひとつも伺えない。どういう意味、ですか。喉元まで出かかった言葉は結局声にならないまま、私はただぼんやりと立ち尽くしている。

「なんちゃって」彼女は振り返った。先程と変わらない笑顔だった。そして、「じゃあね、また今度」なんて言い放って、軽やかに駅のホームへと消えていった。踏切の音が鳴り止むまで、私はさっきまで彼女のいた改札を、ただ、見つめていた。

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