32話 我儘姫の受難 前編
マグニ一行がコマタを出て丸一日が経った。
ディアファンまでの道のりは約一週間。特に凶悪な魔獣が出るでもなく、夜盗の類に襲われるでもなく。道なりに歩き続け、順風満帆に旅は続いているかに思われた。
──が。旅とは不測の事態が常に付きまとうものである。
「疲れたっ!歩きたくない!」
「またか小娘。出発してまだ二時間も経ってないんだぞ」
「もう少しだけ頑張れない?ヴィオ」
「ずっと休まず歩くなんて無理ーッ!あんたたち体力馬鹿と一緒にしないで!……きゃああっイモムシ!取って、取ってよーっ!」
「暴れないでよヴィオ。……ほら取れた。別に悪い事しないんだから、怖がっちゃ可哀想だよ」
「嫌いなものは嫌いなのっ、女の子がイモムシ嫌いで何が悪いのよ!いーっだ!」
まさに現状のヴィオレッタそのものが、そうといえよう。
この少女ときたら、歩けば一時間おきには「疲れた」といい、虫を見ただけで怖がって騒ぐ。いざ旅をはじめてみれば、とにかく口から出てくる言葉は我儘ばかり。
まあ無理もないか、とマグニは人知れず嘆息した。彼女は生まれた時からダダナランの王宮で暮らし、蝶よ花よと大事に育てられてきた。大荷物を背負って徒歩での旅だなんて、この幼い体には経験などないはずだ。
「おんぶよ、おんぶなさい!でないと私、動かないからっ!」
「俺様はやらんぞ。なにが楽しくて我儘なへちゃむくれ娘の重りをせねばならんのだ」
「へちゃ……最低ッ!誰もアンタなんかに頼まないわよーだっ!イーッ!!」
「……マグニ。鍛錬代わりだ、重しにしてやれ」
「はい。ほらヴィオ、僕に乗って」
「ちょっと!いま女の子に向かって重し呼ばわりした!?そこまで重くないわよッ」
「ああ。ステラの半分くらいか?」
「なッ……む、無神経なッ!私はそれよりもうちょっと軽いですーッ!」
マグニは荷物の紐を回して前にぐるりと抱きなおし、ヴィオレッタを背負う。
女性陣はマグニの頭の上を介して、重いだ軽いだ、ガルムの無神経さを叱り飛ばすわ、一方でガルムは「これだから女は」とぎゃあぎゃあ大騒ぎ。
背中にずっしり身を預け、足をぶらつかせるヴィオレッタ。口論に疲れると「マグニ、お水飲みたい」と水筒を要求したり、木の枝に当たると「痛い!気を付けなさいよ!」とマグニに八つ当たり。マグニは「はいはい」「ごめんなさい」と素直に返事して、文句のひとつも言わない。
そんな具合で、ディアファンへ続く道を地図で時折確認しつつ進む。途中まで中継地点となる村は二つしかなく、最寄りの村までは、最短で歩いても後二日はかかる。
太陽が真上に昇るころ、一行は小さな川の傍で食事休憩。とはいえ、マグニには実質休みなどない。急いで食事を終えたら、ガルムとの鍛錬だ。
だがこの我儘姫には、そんな事情など関係ない。
「マグニ、そっちが食べたいわ。あなたのお肉の方が大きく見えるもの」
「えっ、でも、食べかけ……あっ!」
「ふふん、隙ありっ!」
「返せよヴィオッ!僕の昼ご飯だぞ!」
「貴様ら、昼飯くらい黙って食えんのか」
「ヴィオ、マグニにご飯を返してあげなさいな。ほら、私の分あげるから」
「ステラの分は要らない!私はマグニの分のお肉が食べたいの!」
「じゃあせめてヴィオのご飯と交換してくれよ!」
隙あらば、マグニの食べかけの燻製肉を挟んだパンを奪って追いかけっこ。
わんぱくにも木の上によじ登って、枝に腰かけ、見せつけるようにもぐもぐと肉とパンを頬張る。消えゆくパンと肉を縋るような目で追いながら、「ああ~……」と落胆するマグニ。その様子を愉快そうに見下ろすヴィオレッタだが、けれどすぐに自分が登った木の高さに驚いて、「怖いー!助けてー!おろしてー!」とびいびい泣き始めた。
「怖いのに何で登るんだよ……ほらヴィオ、そんなに高くないよ。飛び降りて」
「やだーっ!落ちたら痛いじゃないっ!そっちが登ってきて助けなさいよ!」
「ここから飛び降りれば、僕が受け止めるから。ほら」
「うう~ッ……落としたら許さないからねッ!」
両腕を広げるマグニ。ヴィオレッタは震え、ぎゅっと目をつぶって枝から飛び降りる。
だが思いのほか、勢いをつけすぎた。マグニが抱き留めたはいいものの、ヴィオレッタの体重と勢いを相殺しきれず、「ぐえっ!?」と情けない悲鳴を漏らし、少女の体を抱いたまま地面へ後ろ向きに倒れこんだ。
直後、ごちん!と嫌な音。マグニは地面にしたたかに頭を打ちつけ、「ふぎゅう……」と目を回す。フリーズして「し、しんじゃった!?」と慌てふためくヴィオレッタ。
その様子を見ていたステラが「大変!」と駆け寄って傷の具合を診始め、あくまで静観を貫いていたガルムはといえば、「昼飯を食うだけでタンコブを作ってちゃ、身が持たんぞ」と呆れて肉を頬張るのだった。
これにはさしものモルトーもいかん、と思ったのか、手当を受けるマグニを横目に、ヴィオに向かってお説教。
『ヴィオさま、いささかヤンチャが過ぎるのでは……』
「わっ私は悪くないもん!マグニが転んだのは、足腰がヘナチョコなせいでしょ!最初から抱き止められないなら、見栄張ってあんなことしなきゃよかったのよ!」
『ですが、元はといえば木に登ったヴィオ様に非があるのでは』
「だって登れたんだもん!あんなところに木があるのが悪いわっ!」
『ああいえばこう言う……そんな我儘放題ですと、後々苦労しますぜ』
「そもそも、マグニが大人しくお昼ご飯を私に寄こしていれば、こんな騒ぎにはならなかったわ!従者のくせにお弁当を交換しろだなんて、生意気なのよっ!」
しかしどれだけ言い聞かせても、ふんだ!とそっぽを向く始末。
マグニは怒るでもなく、「スッ転んだのは僕自身の鍛錬不足ですから」といって、苦笑いひとつで流していた。
その様子を見て思うところがあったのか、あるいは反省したのか。気まずさもあってか、休憩を終えて以降の徒歩移動で、「疲れた」と「おんぶ」の言葉は口にしなくなった。
最寄りの村まで続く森の途中、ふと空を見れば、そろそろ日暮れだ。ガルムは「少し早いが、ここで野宿だな」とぼやいた。するとヴィオが周囲を見回して、えっと素っ頓狂な声を漏らす。
「ちょっと、山小屋は?どこにもないじゃない」
「無いから野宿なんだろう、たわけめ。幸い大型魔獣の縄張りでもなさそうだし、大きなガラゴの枯れ木もある。あそこで休めばいいだろう」
「えーっ!?地べたで寝ろっていうの!?ベッドは!せめて天幕は!?」
「あるわけないだろ。敷物と寝袋くらいだな」
村と村がかなり離れていたり、こうした森の中には、しばしば共同の山小屋がいくつも存在する。食べ物や服などは当然、持ち込みになるが、竈や暖炉、ベッドの類もある、無料の宿泊施設だ。雨風をしのぎたい旅人にとっては、屋根と壁があるだけでも、有難い代物である。
先日は運よく、道中に山小屋があったため、粗末ながらもベッドで一晩休むことはできた。だからヴィオにとっては、この日が初めての野宿であった。
「やだーッ!地面なんて虫だらけじゃない!泥だらけになっちゃうし、枕もないなんて!やだやだやだーっ!」
「我儘言うな、慣れろ。どこにでも山小屋があると思うな」
「ううーっ!良いもん、山小屋がないか探してくるわ!見つけてもガルムは入れてあげないんだから!」
「あ、ちょっと、一人で遠くに行っちゃ危ないわよ!」
さんざ地団駄を踏んだ後、制止を振り切ってヴィオレッタは走り出してしまった。
野営の準備のために荷物を下ろしていたマグニが、すかさず「僕、連れ戻してきます」とステラに断り後を追う。
ステラはいつもの心配症が生じて続こうとしたが、ガルムが肩を掴んで引き留め、悠々と焚き火の準備を終えて、鍋をステラに押し付けた。
「どうしましょう、子供たちだけじゃ危ないわ」
「放っておけ。どうせ遠くまでは行くまいよ」
「でも森には獣だっているわよ!少しは心配する心を持ちなさい!」
「必要なのは心配することではなく、今の小僧の腕を信じることだ」
「でも」
「くどい。……水を汲んでくる」
一方で、マグニはヴィオレッタの足跡を追って、森の中を走っていた。
ざかざかと落ち葉を踏みしめる音が、静かな森に響く。穏やかな川のせせらぎが耳に心地いい。大型獣の気配もなく、たまに小さな
思いのほかヴィオレッタの足は速く、そして消すのが上手だ。彼女の癖なのだろうか。たどたどしく続く足跡は、躊躇いなく森の奥へ進んでいる。
足跡を慎重に追うマグニの耳元で、チチフ・モルトーが口を開いた。
『申し訳ありやせん、坊ちゃん。私が不甲斐ないばかりに。ですがどうか、あの子を見切らないでやってください』
「へ?別に……怒ってないですよ。頭をぶつけたのも、僕の不注意ですし」
『いや、そうではなくて……あの子は、ああ見えて怖がりなんです』
「そうなんですか?どっちかというと、恐れ知らずって顔に見えるけど。ガルム様とも恐れずに口喧嘩するし」
『勇ましくはありますがね、それでもあの子は、坊ちゃんたちがどれだけ自分を受け入れてくれるか、図っているといいますか……少なくとも、坊ちゃんのことは好きなんだと思います。でなけりゃ、あんな意地悪はしません』
「え?……むしろ、嫌われているもんだとばかり」
『彼女にとっての試し行為なんです、あれは。昔、よく私もやられました』
モルトーが一瞬、どこか遠い所を……おそらくは、昔懐かしい過去を見つめていた。
小さな頭を撫でつつも、マグニは少女を探す足を止めることはなく、モルトーもまた言葉を続ける。
『あの子は長年ずっと、王宮という敵だらけの世界で暮らしてきやした。だから人を見る目はあるし、危機管理能力は高い方だと思いやす。百年前のクライン国との停戦条約を結ぶ際にも、彼女だけはクライン国に直に足を運ぶことはしたくないと、何度も周りに訴えるだけの慧眼があったほどです。
当時、あの子にとって幸いだったのは、あの子に救世者という称号を王自らが与え、王自身という護りもあったこと。あの国は、王は、ヴィオレッタ様を真に必要としていた。だからあの子はのびのびと育つことが出来やした』
「……愛されるってことを、よく知ってるんですね」
『キュバス人という、当時は卑しいとされる立場であっても、彼女は強かった。王や私に愛されていることが幸いしたのでしょう。あの子は愛してくれる人を疑うということはしなかった』
川を挟んで、ついには足跡が消えてしまった。これからどう追いかけよう?
その時、チチフの顔を見て、モルトーの……正しくは、エルー人の特性を思い出した。マナを追いかけてみたらどうだろう?マグニは息を吸い、意識を集中させる。
瞼の裏にはっきりと、宙や地の中に漂うマナの気配が、あるいは生き物が発するマナの熱が感じ取れる。その中でも、ぱっと浮かぶ、濃いマナの気配がある。
彼女だ、と直感して、目を開き、マグニは走る。
『でも今は状況が変わった。一番の心の拠り所たるロボ王は消え、国は敵のクラインの手に堕ちた。あの子を知る者は歴史書だけになった。私もこんなナリです。
長い旅は彼女にとっても苦しいものになるでしょう。……だからこそ、貴方にどれだけ甘えていいのか、知りたいのではないでしょうか……』
かける言葉を考え、マグニは押し黙った。
獣道を抜けると、開けた草地を見つけた。野草や花が咲く中で、ヴィオレッタがちまちまと草を摘んでいる。
マグニが「ヴィオレッタ」と声をかけると、肩をびくっと震わせて振り返った。腕の中は、根ごと抜かれた野草でいっぱいで、顔まで泥だらけだ。ゆっくり花を踏まないように近づいて、マグニは片膝をついて、ちらり、と腕の中の野草を見やった。
「な、なんでここが分かったの?」
「マナを追いかけてみたら、出来た。大丈夫?けがはない?」
「……あなた、さらっと言うけど、とんでもないことしてるわね」
「君こそ、ずいぶん泥だらけじゃないか。それにこれ……ミブルト草に、アッキノゲシに、ケンザンショにイモチ草……。どれも痛み止めの草じゃないか」
マグニが指摘した通り、彼女が引き抜いた野草は、どれもこれもが、根や葉に痛み止めや血止めの効果がある薬草ばかりだ。
ヴィオレッタがきゅっと唇を噛み締め、顔を伏せた。泥だらけの頬が真っ赤だ。
少し間があった後、ああ、とマグニはその意味に気づいて、ヴィオレッタに微笑みかけた。
「怖がらせてごめんね。大丈夫、ただ打っただけだよ。すぐに治るから」
「なっ!わ、私、何も言ってな……!」
「言わなくてもいいよ。気持ちは伝わったから。今度はちゃんと、受け止められるようになるからね」
黙り込むヴィオレッタ。だが刹那、違和感を覚えた。
地面が揺れている。地震か?ヴィオレッタも気づいて「な、なに?」と咄嗟にマグニへしがみつく。
刹那──突如、ズボッ!という荒々しい音と共に、草地が地下から穿たれた。地面にいくつもの巨大な穴が開き、何かが飛び出してくる。
森の暗さの中、その正体を二人が見極めるより早く、闖入者は黒い巨大な鞭となって、二人を叩き潰さんと襲ってくる──!
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