21話 その名はヴィオレッタ


マグニはただ、目の前の景色を、呆気にとられて見つめていた。

赤子を愛おしげに抱く男の顔は、どこから見てもガルムと瓜二つだ。艶やかな黒髪も、浅黒い肌の色も、気高い狼のような琥珀の瞳も。しいてあげるなら背丈と体格の違いくらいだろうか。

王と呼ばれるに相応しい、気品ある横顔から、目が離せないでいた。けれど、少年の直感が囁く。──この人は、ガルムではない。


「(なら、この景色はなんだ?誰のなんだ?)」


ふとそんな疑問が湧いて、ストンと腑に落ちた。

そうだ、これは誰かの記憶、思い出だ。過去をそのまま見ているにしては、やけに眩しく色彩が艶やかで、現実味が薄い。ころころ忙しなく切り替わる景色は、さながら絵本のページを捲るみたいだ。

途端、何故だか強烈な罪悪感に見舞われた。誰かの頭の中を勝手に覗き見している。

本来なら誰にも穢されるはずのない、思い出花咲く庭園へ、無作法にも足を踏み込んでしまったという後ろめたさだ。

「王」は、静かに泣き伏せて、冷たい女の手を未だに握る騎士を見下ろした。


「名を」 王は赤ん坊の頬を指で撫でる。

「考えてならねばなるまいよ。彼女はもう、名前を決めていたのか?」

「……ずっと、考えてはいたようでした。生まれた子供に、名前を付けるという事を知らなかったようだったので、自分に名前を付けることも苦労しておりました」

「であろうな。話を聞くに、家畜にも劣るような環境で飼われていたのだ、寧ろ一人で我が子を抱えて逃げる判断が出来ただけでも、彼女はな方だったろう」

「……。王よ、差し出がましい発言をお許しください。この子は祝福されるべきです。願わくば、王の名付けた名で、王のお言葉で、この子を言祝いで戴きたいのです。それを彼女も願っておいででしょう」


「王」はその言葉を受けて、暫し悩む。

窓の外は、天に召された女を悼むかのように、赤や白、黄、橙、様々な色彩の花たちが咲き乱れている。窓からすぐ見えるひとつの花畑に、「王」は目を留めた。

「王」が右手を差し出すと、小さな風のつむじが現れ、女の頭上を一周すると、花畑を駆け巡る。そして風に舞い飛び込んできた、慎ましやかな薄紫の花をひとつ、手に取った。


「そういえば、あの女はこの花が好きだったな?モルトーよ」

「はい……確か、異国から取り寄せた紫星花ヴィオレッタ、でしたか。私はこの花の名前など知りませんでしたが、名も知らぬが、小さな身で懸命に咲く姿が好きだと……そう話していました」

「ふむ。……では、決まりだな。この子の名は、ヴィオレッタ。俺たちの、希望の星で、平和の花だ」


ヴィオレッタ、その名前を呼んだ刹那、花吹雪がぶわりと窓から舞い込んだ。

鮮やかな薄紅色とかぐわしい花の香りと共に、またも景色が変わる。

今度は、石作りの庭園にマグニは立ち尽くしている。

長い髪を悉く三つ編みで盛ったモルトーが、鎧をがしゃがしゃいわせながら、整列された石畳の道を歩く。


「ヴィオレッタ様、いずこにおわしますか。ヴィオレッタ様ー!」

「(……また、変わった。これってやっぱり、モルトーさんの記憶?)」


すると、入り組んだ庭園の迷路の奧から、「モッティー、こっちよ、こっち!」と明るい少女の声が響く。

早足のモルトーにマグニも着いていくと、洒落た白い東屋ガゼボに、愛らしい少女と「王」の姿がある。少女の歳は5歳くらいだろうか。長く乱れ一つないサクラ色の髪を二つに結んで、膝丈ほどの若草色にはためく絹のドレスを身に纏っている。

鼻歌を歌いながら、「王」の足までつきそうな長い髪を、せっせと大きな三つ編みにして遊んでいる。摘んだ花を三つ編みの飾りにして、花嫁の飾りみたいに豪華だ。

当の髪で遊ばれている「王」は、彼の規格に見合う大椅子に腰掛け、髪と櫛を手にせかせかと走り回る少女を、微笑ましそうに見やるのみ。

モルトーは呆れたように、少女へ片膝をついた。


「座学を抜け出して、いずこにいらっしゃるかと思えば、こんな所でお戯れとは……。ヴィオレッタ様、王の御髪おぐしへみだりに触れるのは良くありませんよ。髪にはマナの力が強く宿るといいますし、礼節に反しますゆえ……それとモッティーはおやめ下さい」

「そーなの?でも王さまは良いっていってくれたよー?」

「ジルヴェーニ卿、小言はその程度にしてやれ。休みの今くらい、髪をいじる程度でこんなに喜ぶなら、俺に不満はない」

「……王がそう仰せならば」

「そうだモッティー、髪をあむの手伝ってー!王さまの髪、重たくて一人でもつの、大変なのー!」

「ですからモッティーは……あー……」

「クク。、お姫さまの希望だ。髪を梳く許しを出そう。小さなお姫様を手伝ってやれ」

「く……我が王が仰せならば、そのように。失礼いたします」

「王様の髪の毛、きれいね~。あ、でもモルトーの髪もさらさらで好きよ。まるで神話に出てくる、メリュジーヌのたてがみみたい!」

「ほう、我らが姫の口から、神の遣い……水女竜メリュジーヌと並べて称賛されるとは。光栄な限りだな?モルトー」

「ははっ、恐悦至極に存じます」

「ヴィオね~おべんきょうしたんだよ!メリュジーヌってこの国の女神さまのつかいなんでしょ!の神さまの、ミルトニアさまっていうんだよね?」

「おお、よく勉強しているな。そうとも、婚姻と契約を司る女神ミルトニア。俺達の美しさと強さがメリュジーヌならば、お前はミルトニア様の生まれ変わりと思うくらいの愛らしさだよ」

「え~っそうなの?それだけヴィオがかわいい、ってこと?」

「ああ、勿論だとも、ヴィオレッタ」


あはは、と楽しげな笑い声が庭園じゅうに木霊する。

静かに本を読みふける「王」の髪を、騎士と少女の小さな手が細やかに編んでいく。

木漏れ日が庭園を優しく照らす、懐かしさも似た暖かさに、マグニは目を細めながら、三人へとこっそり近寄った。

だが日差しがひときわ強く目を刺して、思わず目を瞑る。笑い声が次第に遠のいて、けれど足はひとりでに進んでいく。やがて静けさに包まれ、目が慣れてもう一度目を開けると、またも違う室内に佇んでいた。

壁一面に広がるは、棚と数え切れないほどの本。四階ぶんほどの吹き抜け天井を見上げると、等間隔に設置された細窓から夕陽が差し込み、広々とした空間と、行儀良く並ぶ長机を照らす。


「(チフ?)」

「(すごいね、本だらけだ……あの子たちは?)」

「ねえねえモルトー、古典とか歴史の勉強飽きた~。これが人生で何の役に立つのよう!もっと楽しくてワクワクするお話教えてよ~!本草学とか、神学とか!」

「ヴィオレッタ様、本草学と神学は午前のうちにすませてしまったでしょう。古典や神学も、これからの貴女様のために必要なお勉強ですよ、さあ本を開いて」

「めんどーいー。それに、なんで家庭教師さんじゃなくてモルトーが先生なのさ~」

「私の方が適任だと、王自らのご指名ですから」


いた。長机の一角で、モルトーと、また少し成長したヴィオレッタの姿がある。

二人は対面で座学の真っ最中らしい。分厚い歴史書や本に囲まれて、少し背丈の伸びたヴィオレッタは、本を相手に睨めっこ。

その顰め面を、モルトーはどこか微笑ましそうに盗み見ている。「さ、音読して」と促され、不承不承といった具合に少女は本を朗読し始める。


「『──大いなる災いフィン・ベル迷宮深殿ビフレストが最初に発見されたという記述は、実に二千年以上前にものぼる。主要な七つの大陸……すなわちパシフィス、ムール、ニリーバ、レムリア、アトランタ、メガラニカ、タクマ・グハラ、そして天に最も近い【アズガルの天峰】、そして海中……全地域で確認されたことが、【ミミル叙事詩】や【メル・メトの手記】等を始めとする文書にて確認されている。

迷宮深殿ビフレストは全てのマナが収束し暴走する現象が見られるため、【怒れる神の試練】という名で呼ばれ、これを攻略する者は神の代行者、英雄として崇められる風習があった。そしてこのフィン・ベルを』……えーと……」

「『聖癒』です」

「そう、『聖癒し、鎮める者を、かつては希望の光、プリンシアと呼称した。

このプリンシアとは神から授かった、魔術とも種族固有の力とも異なる異能力であり……厄災をちょ……じょ……調伏する唯一の力とされている。ただし、プリンシアの力を持つ者は、千年に一度しか生まれないとされるほどに希有な能力である。一説では、この能力はかつて、イリスと呼ばれる謎の種族のみが有していたとされているが、イリス共々、未だその詳細な内容は解明されていない……』」

「はい、よく出来ました」

「はあ~っ、難しい言葉が多すぎるよう。ねえ、本に書いてあるプリンシア、って私のことだよね?お城の人達が皆、そう呼ぶの。私は只の女の子なのにね」


ヴィオレッタは眉間をつまむ仕草をすると、顔を本に押しつけて、溜息を零す。

その愛らしい仕草に、モルトーは少し物憂げな表情を浮かべるものの、「貴女はそれだけ期待されている人、ということなのですよ。ご自身がどれだけこの世界にとっての希望なのか、いずれ分かる時が来ます」と笑って返す。

「王様も?王様も、私のこと、希望の光だと思ってる?」とヴィオレッタが問うので、「勿論です」と返すと、ヴィオレッタの目がきらきらと輝いた。

「ようし、そういうことなら、もっと勉強しなくちゃ!」と張り切り始めた。

そんな様子を見ていると、マグニはエラブッタとの日々を不意に思い出した。彼の書斎に足を運んで、部屋の掃除や花を替えるたび、エラブッタは彼を呼び止めて、本を読ませてくれたり、勉強を教えてくれたりもした。

そんな少し優しい日々を思い出して、マグニは小さなヴィオレッタの頭越しに、本を見下ろした。すると、体がグンッ!と引っ張られる感覚を覚え、ヘソの奧から全身を巻き込まれるような浮遊感に襲われた。


「わぁッ!?」

「チフーッ!?」


飛び込んだ先は暗闇。

一瞬、上下左右も忘れて、どこまでも昏い水の中を漂うような感覚に恐怖を覚える。視界を彷徨わせると、か細い崩れそうな光の礫で出来た道を見つけた。チチフを抱え、泳ぐようにして藻掻き、必死に光の道を辿って足をばたつかせる。

そのうち、道の先には光の亀裂がぱっかりと開かれていた。地鳴りと風の音が聞こえてくる。無我夢中で光の裂け目の先に飛び込むと、黒に彩られた、荒涼とした土地が一面に広がる崖の上にいた。


「チフ、チチチフチフ!」

「なっ!?なんだ、ここ!?……もしかしてあの黒いのって、全員兵士?」


よく見れば、土地の一角を黒で覆うは、先程見た兵士達。だが様子がおかしい。

彼らの黒い鎧はボロボロで、一様に一方向を見据えて行軍し続けている。手に槍や剣を持つも、どれも錆びてボロボロだ。とても使い物になるとは思えない。

何よりも──彼らの顔がちらりと見えたとき、マグニは息を飲む。顔が、……ない。

彼らには纏う毛皮も皮膚も、肉もない。骨だ。辛うじてへばりついた干からびた肉片や縮れた毛根が、眼窩や鼻腔に引っかかり、風化の激しさを如実に表わしていた。がしゃん、がしゃんと鎧が軋む音を響かせ、彼らは真っ黒な眼窩を北に向け、一心不乱に歩き続けている。

チチフは目の前の光景に恐怖と警戒を露わにして、毛を逆立ててフーッ!と唸る。


「一体、どこへ向かうつもりなんだ……?……わあッ!」


その時、轟音と強い地鳴り。足元がもつれ、思わず転びそうになる。

音の正体は、亡霊の行軍たちが目指す先。そこでは見た事もない巨大な怪物と、誰かが一心不乱に交戦している。

怪物の姿は異様そのもの。女の頭に、鱗に長い首と胴体、腫れ物のような沢山の乳房をぶら下げる、蛇にも芋虫にも似た姿。怪物は長い髪と皮膜のついた翼を振り乱し、口からは水の激流を吐き出す。

あっという間に眼下の荒野一帯が水に押し流され、亡者の行軍も洪水に飲み込まれる。だが、怪物と対峙するその人だけは違う。

黒々とした杖を振るえば、マグニの元にまで届きそうな熱量の烈火が水を一瞬にして蒸発させ、空気も怪物の肌も焼く。

その凜々しい姿に一瞬、マグニは「王」を幻視したが──漂うマナの気配で、すぐに合点がいき、思わず声を張り上げた。


「──ガルム様ッ!」


声を張り上げた矢先、ガルムと怪物がこちらを向いた。まずい、と思った時にはもう遅く、口から螺旋を巻いた水鉄砲が放たれる。

避けられない!思わず身を庇うと同時、凄まじい風の刃が周囲を巡って、水鉄砲を吹き飛ばす。その優しい風の匂いにはっと顔をあげると、マグニを細い腕が力強く抱いた。


「ステラさん!」

「良かった、ここに居たのね!モルトーさんはどこへ?」

「そ、それがはぐれちゃって……」

「探したいところだけど、実を言うと私たちも迷子なの。あの人が何層もの迷宮の床をぶち破っちゃったせいで、色んな魔獣に目をつけられちゃって……」


やおら、またも爆風。ガルムが杖を振り回す度、強烈な火炎が周囲を炭に変え、水が蒸発していき、怪物が炎に当てられて耳障りな怒号をあげる。

ステラは「あの人、竜相手に楽しんでるわ」と苦々しげにぼやいて、すぐさま宙に浮かぶ、つむじ風の結界を展開させる。


「あの、あれ大丈夫なんですか?」

「ちょっと大丈夫じゃないかも!なるべく巻き込まれないよう、私に掴まっていて!あの人が暴れ出す前に、速攻でカタをつけるわ!」

「ッはい!チチフ、しっかり隠れてて!」

「チフ!」


チチフがすぽん!とマグニの服の中に隠れると同時、二人は風に乗って、崖から飛び降りた。


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