20話 追憶の冬
──どれほど、水の中に沈んでいただろう。
マグニは頬を撫でるくすぐったさに、「んん……」と呻いて目を開ける。
手足や腹が冷たい。濡れた固い土の上に、倒れ込んでいるのだと気づいた。
視界いっぱいに、チチフの心配げな顔が映り込んできて、「チフ」と顔を舐められる。くすぐったさの理由はチチフの舌だったらしい。
手足は……動く。ぐっしょり濡れてしまったが、息苦しさはなかった。マグニのすぐ隣では、モルトーが気を失って倒れている。同じようにぐっしょり濡れていたが、息はある。大事なさそうだ。
それにしても水に引き込まれたのに、なぜ平気だったのだろう。顔を見上げて、すぐにその理由が分かった。
半径約3mほどの、巨大な水のヴェールが、球体状となって二人とチチフを包んでいる。おそらくこの水のヴェールが、マグニ達が溺れぬよう空気の空間を形成して守ってくれたのだろう。
「おっきい泡だ……」
「チフッフ!チフ、チチフ」
「(もしかして、モルトーさんが守ってくれた?)」
チチフが好奇心で軽くツンツン鼻でつつくと、ヴェールはパチン!と弾けて消えてしまった。
さても、ここは何処なのか。森であることは確かだが、先程まで居た場所とは様相が違う。聳え立つ木々は緑豊かな葉に重たそうな雪をのせ、周囲は純白の雪景色に包まれていた。地面が冷たいのは、この雪のせいだろう。
マグニ達は大きな泉のそばに倒れていた。楕円型の大きな泉だ。
水面は淡い青と群青、鮮やかな薄紅色が混ざり合った色彩をたたえ、水面に宝石に似た光沢を放つ魚たちが悠々と泳ぐ。
過ぎ去ったはずの、冬特有の凍てついた空気がつんと鼻腔を刺激した。
「モルトーさん、しっかり。モルトーさん!」
「チフ、チッチフ?」
「……起きないね。息はしてるけど……早くガルム様やステラさんと合流しなきゃ」
マグニは気絶したモルトーを背負う。とにかく移動せねば。きっと(ガルムはともかく)ステラが心配して、自分たちを探しに来るだろう。
魔獣が現れないともいえないこの状況、まずは安全な場所に移動せねば。そう考えた矢先、遠くから何か聞こえてくる。……にゃあ……ふにゃあ……ふぎゃあ……。叫ぶ猫のような声だが、マグニは暫く声に耳をすませ、はっと息を飲む。
「今の、もしかして、赤ちゃんの声……?」
「チフッ!」
「ああ、行ってみよう。こんな所になんでいるんだろ?でも放っておけないよね」
一度モルトーを草叢のしげみに隠し、声のするほうに足を向ける。声の元は、泉の対岸側。万が一魔獣に聞かれぬよう、四つん這いで雪原を這いながら進む。
声の元まで後10mもない所まで来たとき、岸に誰かが倒れていると気づいた。
みすぼらしい服を着た女だ。籠を抱きしめて蹲っている。咄嗟に身を乗り出し、女へと駆け寄っていた。
「チフチフ、チフッ!」
「あの、大丈夫ですか!しっかり……あ!」
女に近寄って、マグニは思わずたじろいだ。女の手には枷と千切れた鎖、長い片耳には深い切れ込みと、耳裏に数字の焼き印。奴隷の証だ。
びしょ濡れで、切り傷や打ち身の痣がいくつも浮かんでいる。手を顔にやると、辛うじて息があると分かり、安堵した。
赤子の声は、籠の中から漏れてくる。覗き込むと、まだ生後生まれて半年程度の赤ん坊が、薄い布きれを何重にも巻かれて寝かしつけられていた。
「もしかして、何も知らずに迷宮に迷い込んできたのかな。ひどい主人から命からがら逃げてきた、とか……?」
「チフ、チチフ。チーフ」
「そうだね、ひとまずモルトーさんが居る場所まで運ぼう……ん?」
森の奥から、新たな音が聞こえてきた。誰か、来る。鎧が擦れ合う音とウマの嘶き声、何者かの息遣い。かなりの数だ。
隠れる間もなく、木々を掻き分け、彼らはやってきた。見慣れない黒い鎧を纏った兵士や騎士たちだ。男達の大半は、ツノや獣の耳を生やしており、厳めしい兜の隙間から鋭い牙と眼光が覗く。中には下半身が四足歩行の魔獣に似た者たちもいる。
中でも目を引くのは、兵士達を率いる一人の男。
その背丈は、巨漢のガルムすら越えており、目測でおそらくマグニの四倍はある。全身を覆うは黒と金の鎧、夜空のような外套。兜を被っているため顔は見えないが、まず間違いなく男だという妙な確信があった。背にはマグニの背丈ほどもある大剣を背負い、明らかに他の騎士たちと風格が違う。
「王よ、此処が神域の泉に御座いまする。しかしホーロンとは国境にあたるゆえ、あまり長居は出来ませぬぞ」
「分かっている。……予言が確かであれば、この近くに居るはずだ。探せ」
嗄れた声でそう告げ、王と呼ばれた男が手を振るうと、騎士たちはわっと散開した。
呆然とマグニが見ているなか、騎士達はマグニなど意に介さず、周囲を探索しはじめる。そもそも見えていないのだろうか。
やがて、一人の騎士が泉に近寄ってきた。「すみません」とマグニが声をかけようと同じく距離を縮めたその時、騎士の体はマグニを文字通りすり抜けていく。
ぎょ、っと怖気が立つマグニなど目もくれず、騎士は倒れている女と籠を見るや、「居ました、王よ!赤子です!」と叫んだ。
思わず好奇心に駆られ、騎士の間近まで接近してきたその顔をまじまじ見るや、マグニはまたも驚愕に目を見開く。
「えっ、モルトーさん!?」
「チフゥ!?」
黒鎧の騎士の一人は、先程まで倒れていたはずのモルトーだ。
しかも長い髪はしっかり手入れされてまとめてあり、髭もないおかげで、心なしか10歳ほど若々しく見える。眼帯もなく、黒い双眸は、よく磨かれた鎧と同じように輝いている。
モルトーは急いで女性を抱き上げると、「まだ息があります。早急に医術師に診せるべきかと」と王に告げた。
王は頷き、小さな籠を抱き上げた。ちらほらと粉雪が舞い始める。兵士達が、傷ついた女を運ぶさまを横目に、王は手甲で覆われた手を、籠の中にそっと差し入れた。
「やっと見つけたぞ、我が愛しの宝よ」
「ま、待ってください、その人は……わっぷ!?」
男達はやはり、マグニに一瞥もくれず去って行く。追いかけようとマグニが一歩踏み出すと、強い風が吹いて景色を白一色に染め上げていく。
噎せ込みながら、マグニは必死に顔を庇う。やがて雪と冷たい風が止むと──景色が一変していた。
立派な大理石で出来た建物の中、マグニとチチフは廊下にぽつねん、と立っている。
通路では、先程見かけた兵士達が生真面目に巡回しながら雑談している。
「なあ、聞いたか。予言の子が見つかったそうだ」
「災厄を祓う姫君、プリンシアだったか。よりによってキュバス人の子とはな」
「こらお前、声がデカいぞ。王やジルヴェーニ様の耳に入ったらどうする?」
「だがなあ、キュバスといえばヒトを誑かし、閨で男の精を貪り、女を堕落させる
淫らな人種と聞く。そのような者が予言の子とは……」
「だが王は彼女らを保護すると決められたのだ。ジルヴェーニ様など、毎日のように業務の合間をぬって、あのキュバス女を看護していると聞くぞ……」
「さては、永久の冬と呼ばれたジルヴェーニ様にも春がきたかな?この前なんか、あの女と中庭で手を繋ぎ散歩までしていたそうだぞ」
「こら、滅多なことを言うもんじゃないぞ……名門貴族のジルヴェーニ家が、よその国から亡命してきた奴隷女との結婚なんか認めるもんか」
耳慣れない単語がぽんぽんと飛び交うなか、マグニは名門貴族、という単語でふっと腑に落ちた。道理でモルトーの所作がやけに上品かつ隙が無いと思ったのだ。
元貴族なのだとしたら、納得はいく。なぜ今、盗賊めいた冒険者稼業に身をやつしているのだろうか。
下世話な会話を繰り広げる兵士達だが、背後で「オホン」と諫めるような咳払い。
その声にはっと青ざめた兵士達が振り返ると、会話の渦中にあったモルトーその人がじろり、と部下たちを睨み付ける。その隣には、赤子を抱えるキュバスの奴隷女も伴っている。
「げっ、ジルヴェーニ様!」
「どうも近頃、足音どころか声も大きい部下達が増えたな。今後、城内の巡回中に私語厳禁の規則をもうけるべきか」
「もっ申し訳ありませぬッ!口さがない無礼をお許し下されっ!」
「ふん。今すぐ訓練場で全員、素振り三万回だ。客人への態度と仁義礼節とは何たるかを反省するように。行け」
「は、はい~ッ!」
「(……なんか、絵に描いたような貴族だね。モルトーさんって)」
「(チチフ、チフ)」
部下達は敬礼すると慌ただしく、その場を去っていく。
ふん、と鼻を鳴らすモルトーの横で、キュバスの女は申し訳なさそうに「あ、あそこまで厳しくあたることもなかったのでは……」と困惑を顔に浮かべ、兵士達の背中を見送る。
周囲からひしひしと投げられる冷たい視線を受けて、眉尻を下げて俯く女に、モルトーは肩を軽く叩く。
「そなたが元の国でどのような扱いを受けていたところで、我が王はそなたと娘を国をあげて守護すると決めたのだ。そなたは威張っているわけでも、誰かを虐めているわけでも、ましてや罪を犯したわけでもない。胸を張って前を歩け」
「……ありがとうございます、ジルヴェーニ様」
「勘違いするなよ。私は王の忠実な剣に過ぎない。そなたらを庇護すると王が決めた手前、王の威信に関わるからこそ、常日頃から部下の振る舞いや考えには注意を払う必要があってだな……」
「ええ、はい、よく分かっておりますとも」
女がほっと雪解けのような笑みを綻ばせると、モルトーはぱっと視線をそらした。長い耳の先が真っ赤だ。それを見て、女は小声で「可愛い人」と呟き、くすくす笑う。
だが、その場ですぐに噎せ込み始めたかと思うと、重い咳の声を漏らしながら蹲る。
赤ん坊は母親の異常に驚いたのか、「ふぎゃあ、ふぎゃああー!」と泣き喚く。
母親の口から垂れる鮮血は、咳き込むたびに溢れ出て、床をみるみる汚し血の海へと変えていく。モルトーが慌てて「医術師を!誰か、早く!」と騒ぐなか、マグニの視線は真っ赤な血に釘付けとなり、視界が反転する。
「……あ」
深紅の絹で彩られた床が、目に入った。顔を上げると、先程までいた廊下ではなく、今度は豪奢な調度品が並ぶ、広々とした部屋に立ち尽くしている。
外では背の高い木々が、薄紅や白の花を満開に咲かせて、窓際の天蓋ベッドを覗き込むように垂れている。ベッドには、先程の女性が横たわり、側にはモルトーや医術師と思わしきポリマンの老人、王と呼ばれた鎧の巨漢、揺り籠ですやすやと眠る赤子の姿があった。
「(まるで、他人の夢を覗き見してるみたいだ。いや、もしかしたら本当に、誰かの夢をなぞっているのかも。そして、きっとこの夢は……)」
先程までみすぼらしい姿だった女は、やつれてこそすれ、傷もなく表情は穏やかだ。
しかし青ざめた肌色からして、おそらく余命は幾許も無いことは明らか。白いローブを羽織った医術師が女を丹念に診察し、王とモルトー達に向けて首を横に振る。
その様子に思う所があるのか、女は口を開く。
「王様、嵐の国の王様。私のような、いやしい女を今日まで此処に置いてくださったこと、感謝します」
「……無理に話すな。体に障るぞ」
「自身の命の終わりは、自分で一番よく分かります。私はもう長くないのでしょう。
王様、モルトー様、どうか名も無い奴隷女の願いを聞いて下さいませ。先逝く私のぶんまで、娘をどうか可愛がってやってほしいのです。健やかで、明るく笑顔でいられるように」
「……勿論だ。俺は汝の娘を、この王位と人生を賭けて守ると誓おう」
「私もだ、名もなき花のようなキュバスの人よ。そなたの娘は、責任持って我らが守護しよう。だからそのような弱気な言葉はもうよせ。外はもう春だ。外のサクラが美しく咲いている。元気になれば、ダダナランの草原を走ることだって夢ではないのだ」
「有難うございます。そんな優しい言葉をいただけるだけでも、身に余る倖せです。ああ、それを聞けたのだから、私は心置きなく、マナと共に地へ眠れるというもの……」
女は震える声でそう告げると、まもなくがくり、と体から力が抜けてしまった。
あっ、とモルトーが慌ててその手を握るが、細い指先が握り返すことはない。医術師が女の頭に手を掲げ、「ご臨終です」と告げる。モルトーは声もなく、女の手を握りしめて肩を震わせていた。一方、王と呼ばれた男は、初めて兜を脱ぎ、揺り籠の中で母の死を知らず、寝息を立てる赤ん坊を抱き上げた。
マグニは男の横顔を見て、目を見張り、生唾を飲み込んだ。王と呼ばれた男の顔を見て、心乱さずには居られない。
「……ガルム、様……?」
その憂いを帯びた横顔は、ガルムその人に瓜二つであった。
救世のマグニ ─奴隷の少年、魔王の手により英雄となる─ 上衣ルイ @legyak0810
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