6話 いざ旅へ
ピチ、ピチュンチュン。小鳥が窓の外で朝を囀る。
マグニは柔らかなベッドの感触に驚きながら、がばりと身を起こす。
「…………あれ?もう、朝…………」
泣き疲れて寝てしまっていたようだ。夢すらも見なかった。
奴隷の朝は日の出から始まる。だというのに、山の向こうから日が差しても、まだ眠っていていいなんて、奇妙な感覚だ。
窓の外をうかがえば、村人達がもう仕事に繰り出している。
枕元で寝ていたチチフも、くああ、と欠伸すると、丸い体をうんと伸ばして、毛針がピンピン!と逆立った。
「おはよう、チチフ。眠れたかい」
「チフッ、チフチフゥ!」
「はは、良かった。おまえがずっとプウプウいびき立ててるから、僕は眠れなかったよ」
「チフッ!?チフチフフーッ!」
「ごめんごめん、冗談だって。女の子にいびきは失礼だよね」
室内に視線を巡らせる。ガルムとステラの姿は既にあらず、荷物だけがぽんと置いてある。
出会って二日の人間に対して、あまりに無防備ではなかろうか……と些かの心配が鎌首をもたげる。
二階の寝室を出て、廊下を歩けば、吹き抜けの一階にある食堂から賑やかな声。
宿泊客たちが朝食をもりもりと食べている。パンが焼ける香りに、ぐううっと腹が鳴った。
「マグニ、こっちよ。いらっしゃい」
「あ、ステラ様。今参ります」
ガルムとステラは、食堂の陽の当たる席に腰掛けて、既に朝ご飯を口にしていた。
マグニが近づくと「ごめんなさいね、疲れているみたいだったから、起こせなくて」とステラは苦笑い。
一方で、目の前のガルムは、遠慮することなく朝食のパンを口にしている。
「貴方のぶんも取ってあるから、お食べなさい。まだあったかいよ」
「あ、りがとう、ございます。わ……!」
実をいうと、当然といえば当然だが、マグニにとって宿屋の食事は初めてのものだ。
いつもなら干した果物と黴かけた固いパン、野菜のクズや雑穀を煮ただけのスープが、彼にとっての食事だった。
なのに目の前にあるものは、焼きたてのスライスしたパン、目玉焼きにチーズ、野菜のスープ。
いずれも普段なら口にすることのない、贅沢な食事だった。
「す、すごい……朝から卵もチーズも食べていいなんて……パンがこんなに分厚いや!」
「チフチフッ!チッチチ!」
「勿論だよ、チチフにもあげるね。夢みたいだ、あったかいパンを食べてもいいなんて……幸せ……」
「お前の体感幸福度の基準、低すぎやしないか」
ガルムは呆れながら、チーズを乗せたパンをばくんと丸呑み。
十人前ほどの皿が、汚れ一つなく積まれている。食堂にいる面々は「朝からよく食うな……」と呆れを通り越して驚きを隠せない様子。
ステラは恥ずかしさと怒りで眉間の皺を深め、また新たにおかわりしようとしたガルムの手の甲を、これでもかと思いきりつねった。
「痛っでえ!」
「少しは節制しなさいってあれほど言ったでしょうに!旅費の殆どが貴方の食欲に消えてるのよ!」
「煩いな、その分稼いでいるから問題なかろう」
「わ・た・し・も!稼いでますー!マグニも仲間に入るのだから、少しは慮って!特に食費を!」
「はいはい……」
食事を終えると、三人はグリファントの巣を探すため、村の外へと移動し始めた。
季節は春の終わり。雪のほとんどが溶けた柔らかな土の上を踏み締め進む。
日が昇ったとて、森は生い茂る木陰に日差しが阻まれ、薄暗くじめついている。
冷えた土と濡れた草のにおいが鼻腔を冷やして、鳥の羽ばたきや何かが這う音が、よりはっきりと澄んだ空気を伝って聞こえてくる。
「僕、着いてきてよかったんですか?自分でいうのもなんですけど、まともに戦ったことなんてないですよ」
「基礎がないなら、尚更俺様の戦闘には毎回着いてこい。追々、戦えるためにも稽古はつけてやるが、まずは場に慣れるところからだ。戦いの場というものを見て学び、肌で覚えろ」
話している間、チチフは警戒心を露わに、毛を逆立てていた。
羽音ひとつする度に、ぶわっと毛針を立てて、マグニの懐の中で丸くなる。
「大丈夫だよ、チチフ。ただの鳥だよ」と声をかけながらも、少年とて緊張のあまり、何度も生唾を飲み込む。
雪解けの水たまりが、一行の姿を反射する。水たまりの中のマグニは、幼い顔をくしゃりと醜く強張らせていた。
少年の緊張を汲んでか、ステラが「世間話でもしましょうか」と柔らかに話題を振る。残り雪の光を反射して、ステラの淡い茶髪を更に眩しく彩った。
「私たちのこと、禄に説明してなかったわよね。ガルムはウルラン人、私はプランタ人よ」
「あ、なんとなくガルム様はそうでないかと思ってました。……プランタ人とお会いするのは初めてです。てっきり肌の白いポリマン人かと」
「ふふ、よく言われるわ。でもほら、頭にしっかり生えているでしょう、
ステラは己の頭部を指さす。長い髪の隙間からは、いくつもの小さな白い結晶のようなものが生えている。
プランタ人は見た目こそ白い肌のポリマン人によく似ているが、この頭部から突出した、白寿鉱と呼ばれる力の結晶が種族としての最たる特徴だ。性別も女性が殆どで、寿命も三桁を超える。種族の総人口も極めて少なく、隔絶された土地で隠匿した生活を送るプランタ人が大半だ。
「強い魔力を持っていて、数が少ないという点では、イリスもプランタ人もお揃いね。指も5本あるし」
「俺様もあるぞ。指が5本」
横からガルムがむっとした表情で、掌をぐっぱと広げて口を挟む。
その眉間の皺を見て、ステラはむふ、とからかうように唇の端を吊り上げた。
「そうね、足の指も5本だし、それから髪が生えているところも一緒ね。ああ、爪と歯が生えているところや、目と鼻と口がある所も同じよ。満足?」
「フン」
「あのう、気になっていたのですけど。お二人が夫婦って、本当ですか?」
二人のやりとりを見ていたマグニは、ついに我慢が出来なくなって問いかけた。
ぎょっと大きな緑の目を見開くステラの横で、今度はガルムがにたにた笑う。
「そうとも。これでも千代の契りを交わした仲でな、子供だって千人……」
「ち・が・い・ま・す!私はあくまでガルムの監視者、裁定者です!フウフという契約関係にはありませんッ!」
「な、なんかごめんなさい!」
貰った地図を頼りに、しばし歩く。ショウサイ村からグリファントの巣があるとされる地域は、往復で二週間はかかる距離。単純な移動距離ならばもう少し短縮は出来るだろうが、道中は障害物も多く、何より猛獣の数が多い。
ステラは村から出発して、時折樹木や大きな岩に印を刻んでいた。白い文様は、何かしらの目印のようにも見える。
マグニが不思議そうに「これ、なんですか?」と尋ねると、「転移術のために、これまで歩いた道の座標を記録しているの」とステラが答える。
「転移術?」
「往復で長い距離を歩くのは億劫でしょう。過去に通った場所に魔力を打ち込むことで、
「タン……クル……?」
「ふちち?」
「その辺にしておいてやれ。坊主の頭から知恵熱の煙が出てるぞ」
「あらやだ、私ったら。そういえばマグニは魔術を習っては……ないわよね」
「は、い。エラブッタ様も簡単な日用魔術しかお使いになっていませんでしたし」
「そうだ。せっかくだから、休憩地点に到着したらお勉強しましょうか。なにせ魔王を倒せるほどの勇者になるんですもの、魔術は使えるようになって損はないでしょう?ガルム」
「…………異論はないが」
日が暮れる頃、適当な休憩地点を見つけ、一行は足を休めることにした。
周囲に獣避けの術を張り、ガルムにはスープ作りを言いつけ(「俺様は料理せんと何度言ったら分かるんだ!」)、ステラは早速どこからか分厚い本を取り出して広げた。
本の背表紙には「新芽でも分かる!魔術の基礎」というタイトルが踊っていた。
チチフも興味を持ったのか、マグニの頭上をキープし、覗き込んでいる。
「この世界には、万物がエネルギーを有しています。「マナ」はその中でも、特殊な命令式を与えることによって作用するエネルギーの一つ。
マナは生命が正しく活動するために必要な力であり、我々が自我を持ったり、時に強大な力を即座に出力する時も、このマナが作用している……これはこの世界での基本的な知識ね」
「はい、それならエラブッタ様からも教わりました。全ての生き物はマナを有していて、マナの含有量や質……エネルギーそのものの強さは個体差がある、と。
魔獣や人々は、神々から与えられたマナの扱い方に始めは苦悩したが、長年かけてマナと対話し、扱うことで、「魔術」や「魔能」という戦いや生活の手段を得た……と教わりました」
「よく出来ました。では、マナには種類があることは知ってる?」
「ええと……たしか
「正解!6つのマナをそれぞれ組み合わせることで、様々な魔術が使えるようになるわ。それぞれの属性のマナには色んな特性があるから、それを理解することが大事よ」
「……あの、魔術って具体的にどう使うんですか?魔術を使う所はいつも眺めていたんですけど、あんまりピンとこなくて」
「そうねえ」 ステラはやおら、マグニの額を掌で撫でた。
「【
「【眼】?」
「ええ、マナや魔術の術式を直視して理解する能力のこと。大抵は物心ついたり、年頃になると皆【
「一応、補助は入れようかしら」とステラはぼやくと、なんとその額に唇を落とす。
ぷに、と柔らかな感触に、マグニは両目が落っこちるほど赤面し、ガルムは持っていたジャグモの実をぽろりと落とした。
否、赤面の熱は羞恥だけではない。唇が触れた箇所が急速に熱を持ち、異常な熱は全身を巡っていく。体じゅうの細胞がつぼみだとしたら、つぼみが一斉に花開くかのような感覚を覚え、マグニは身震いする。
「チッフ!」
「い、今のは……」
「【
例えばね、とステラが積み上げられた薪に指を向ける。
小さく「
その一部始終を見ていたマグニの脳内に、一瞬にして火がついた魔術の原理と技法がなだれ込んでくる。さながら難解な数式が、たったひとつの数字を入れるだけであっという間に理解出来た時のような開放感にも似ていた。
わ!と感嘆の声を上げ、「な、なんか今なら僕でも出来る気がします!」と息巻くマグニ。「ふふ、一緒に練習しましょうね」と微笑み、改めていちから魔術の教えを説くステラ。
たった一人、スープをぐつぐつと煮込みながら、ガルムは面白くないものを見る目で二人を眺めていた。
◆
夜。あれから火をおこすだけの術を何度も練習し、マグニは体力が切れたのか、すっかり夢の中。
二人とチチフの寝息が静かに響くなか、すっかり冷えた薪を土に埋め、ガルムは音もなく暗闇を見つめていた。
暗闇の向こうでは、獣よけの術を取り囲むようにして、実に数十は下らない大型の魔獣たちが取り囲んでいた。
牙を剥き、涎を垂らし、息の詰まるような悪臭を口元から溢れさせている。獲物を前にして空腹なのか、足音を立てぬまま、今にも獣よけの印を砕いて飛び掛からん勢いである。
ぼさぼさの黒い前髪の下から、ガルムの蜂蜜色の瞳が殺気を放つ。ガルムの顔がおもむろに、鼻先と口が伸びていき、硬質の体毛を帯びていく。さながら肉食獣が如き姿に変貌していくが、その禍々しさは、単なる獣の比ではない。
顔じゅうに切れ長の眼と、鋭い牙が伸びていき、己らを餌とみなす魔獣たちに一喝する。
【失せろ。明日の晩飯になりたいか】
その言葉は人では解せない。端から聞けば、地の底から湧き出る
ガルムの声を聞いた途端、一瞬にして魔獣たちは姿を消していた。真の捕食者が、瞬きの間に見せた殺気を前に、身の程を理解したから。
眠りの妨げが周囲から一切合切消えたとみなすと、ガルムの顔はヒトの顔に戻っていた。
「…………つまらん。一匹くらい張り合いのある奴がいてもよかろうに……」
ガルムの退屈を交えた声は、宵闇の静けさに吸い込まれていった。
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