2話 マグニと魔王
「ま…………おう?」
一瞬の沈黙。少年が何か答えようとした矢先、「チフッ!」と少年の服の下から甲高い鳴き声。
おや、と男が見下ろすと、少年の服の下をもぞもぞと這い回り、先ほどの小動物がポン!と顔を出す。
男を見上げるや、小さな生き物は毛を全身針に変えて威嚇し始める。
「フーッ!チフ!チチフチフ!」
「こら、チチフ!やめな、僕たちを助けてくれた人だよ!」
「くく……ボンチフの幼体か。寒冷地帯にしか生息しないはずだが、こんな森で見かけるのは珍しいな」
「チッフ!ブッチチフ!」
「威勢の良い毛玉だ、御主人様を守ろうと必死だな」
「ご、ごめんなさい。チチフは人見知りなんです」
チチフは呻きながらも、逆立った毛を少しずつ柔らかな毛に戻し、ヂッ!と舌打ちのように鳴いた。
男は気にするでもなく、少年を担いだまま軽く屈伸する。
「少し跳ぶ。舌を噛むなよ」
「わ、待ってッ……チチフ、入って!」
少年は男の鎧にしがみつき、チチフは少年の服の中に潜り込む。刹那、流れ星の如く軽々と、男は木から木へと跳躍していく。
暴風の中に放り込まれたような風を受け、熱かった肺も、汗にまみれた体も、急速に冷やされていく。
鋭い鎧の装飾が掌に食い込む感触が、これは夢などではないのだと教えてくれる。
必死に下だけは見るまいと、男の顔を見上げた。男の真上で、月が大きく輝く。
「なんだ、怖いのか。こんなに晴れやかな夜を駆けているというのに」
その一言に諭された少年は、弾かれたように顔を上げた。
ざらめ菓子のように散らばる星々。頭上に飾られた、大きな金色にきらめく月。
吸い込まれそうな夜の色に、少年は小さく息を漏らして、流れゆく星空の景色に、ただ見とれていた。
「こんなに綺麗な夜の森、初めて見た……」
「ふん。矮小な生き物らしい感想だな」
「あの!」 少年は声を張り上げた。
「僕、マグニっていいます!魔王さん、貴方の名前は!」
「マーナガルム。月をば喰らう、マーナガルムだ」
男は涼やかな声で返した。
どれほど走っていただろうか。マグニの視線がぐんっと引っ張られる。急降下しているのだ。
ずん!と激しい音を鳴らして地面に着地するが、衝撃は一切体に伝わらなかった。
マグニは顔を離して周囲を見回す。やはり森の中だったが、不気味なほど人の気配はない。
「あの、どこに向かってるんですか?」
「俺様の世話係が、この先で野宿の準備をしている。……ああそうだ、俺様が名乗った名前のことは一旦忘れろ」
「へ?」
「故あって、あまり表だって名乗ってはならんと言われてるんだ。お前のような仔犬に名を知られたと聞いたら、あの馬鹿女がうるさいんでな」
「は、はあ……」
まさか旅仲間がいたとは、予想外だった。口ぶりからして、下女を伴っているのだろうか。
豪奢な鎧の装備や尊大な口調からして、かなり階級の高い騎士か、貴族の類いなのだろうか……。
邪推している間に、明かりがほんのりと近づいてくる。
「今戻ったぞ、ステラ。やはり獣たちは、大半がこの森から逃げ出したか食われたようだな」
夜の森を優しく照らす、焚き火が目に入る。炎に照らされ、年若い女が佇んでいる。
あどけなさの残る顔立ちに、亜麻色の長い髪、若草のような眩い緑の目。白と深緑のドレスを纏い、凜とした気配を漂わせる。
白いマントの上からでも、女性らしい豊満なシルエットがぼんやりと浮かんでいる。
「お帰りなさい。ということは今日も、晩ご飯はお野菜と燻製肉のスープということね、ガルム」
「その呼び方はやめろと言っているだろう」
「……あら、その子は?どこで拾ったの。まあ、怪我をしているのね、傷をみせてちょうだい」
「無視か貴様」
女、ステラは抱えられた少年を見ると、驚いてすぐに男、ガルムから引き剥がした。
地面に置かれた荷物へ、ステラが片手を向けてくるっと掌を翻す動作をすると、荷物がひとりでにほどけていく。
鍋と支え棒たちが跳躍しつつ焚き火の上に着地し、敷き布が地面をコロコロと転がり広がる。
唖然、と少年が見ている目の前で、ステラは「横になって」と少年に促した。
「この首輪と手足の飾りは邪魔ね。取っちゃうよ」
「あっ……」
ステラがちょん、と枷を指でつついた途端、枷が小気味良い音を立ててバラバラと崩れ落ちた。
マグニは、いとも容易く砕け散った枷を、呆気にとられて見下ろす。
その間にも、ステラは少年の肌に刻まれた傷を診ながら「どれもこれも酷い傷ね」とぼやく。
擦り傷、切り傷、青痣。一晩で治る傷ではない。
「ガルム、ご飯先に作っておいてね」
「指図するな!だいたい、なぜ俺様が飯など作らねばならん!」
「私がこの子を手当してる間は、誰もご飯は作ってくれないのですよ。ご飯は待っていれば、勝手に出来るものではありません」
まるで母親が叱るような口調で、ステラがにべもなく切り捨てる。
ガルムはポカンと大口を開けて、呆れた目をステラに向けたが、「ふざけるなよ」「スープなど切って煮たらおしまいだろうが」とぶつくさ言いながら、ぎこちない手つきで野菜の皮を剥き始めた。
ステラは苦笑いし、目を細める。
「治癒術をかけたら、反動で貴方の体のほうが弱ってしまうわ。浅い傷ばかりだし、普通の手当にしましょうか」
「は、はい。ありがとうございます、ステラさん」
「元気になったら、残りの傷も綺麗に治してあげるからね」
そう告げて、傷口に薬草と軟膏を塗り、包帯を巻いていく。
薬のおかげか、全身の傷からは、程なくして痛みが消えていくかのようだった。
手当が終わる頃、ガルムは退屈そうな顔で、コンコンと鍋の外側をおたまで叩いていた。
「おい、ステラ。これでいいか」
「あらまあ、よく出来…………てないわね。鍋の中がすごい色じゃない、こんな色初めて見たわ」
「普通に野菜と、その辺の食べれそうなキノコを切って煮ただけだが?お前が前に作っていたベェフナンタラシチューと似たようなもんだろう」
「さてはマヨルタケを混ぜて強火で作ったでしょ」
「おお、分かるか。あれの味は俺様好みだったからな、何に混ぜても旨いだろうと思ったのだ。どうだ、俺様は料理の天才ではないか?」
「おばかさん、マヨルタケは湯に通したら一瞬で燃えて炭になっちゃうのよ。これは炭のシチューと名付けるべきね、作り直しです」
「はァ!?口に入れば同じだろうが!」
「あら。悪食の貴方はそうでも、この子と私は反対すると思うわよ。ねー」
「あ、あの、僕は何でも食べれますから……」
しばし二人の言い争いのあと、一口味見した後に、結局炭のシチューは土の肥やしとなった。
ステラが不承不承スープを作り直し、食欲をくすぐる匂いが漂う。
あたたかなシチューを体に流し込むと、生き返ったような気分になって、少年の目に涙がにじんだ。
「あったかくて、美味しい……」
「お口に合ったようで良かった。そういえば、自己紹介がまだだったわね。私はステラ、隣の彼はガルム。貴方の名前は?」
「マグニです。僕、マ……ガルムさんに危ないところを助けて貰って。本当に有難う御座いました」
「まあ、そうだったの。早速善行を積んだのね、良いことよガルム」
「ほら、チチフもお食べ」
ぷい、とガルムは視線をそらした。
匂いにつられてか、チチフもすぽん!と服の下から顔を出すと、マグニの皿をフンフンと嗅いで、じゅるりと涎を垂らした。
ステラはチチフを視界にみとめると、「まあ可愛い!」と微笑む。意外にも、チチフはステラを威嚇することなく、それどころか挨拶でもするように「チフ!」と上機嫌に鳴く。
「マグニ、貴方はどこから来たの?一人でこんな夜の森を歩くなんて、危ないよ」
「僕……実は、山の向こうのショウサイって村から来たんです。御主人……エラブッタ様のお伴で。商談のために、コマタって町まで向かう途中で」
「コマタ?ああ、北東にある町だったか」
「はい。コマタを新たな名主が治めることになったので、挨拶に伺うがてら、うちの村の名産品を町でもさばいてもらうよう、話をつけにいくと」
「その割に、他の連中は見なかったが、皆逃げたのか?ウマの姿すらなかったが」
ガルムが問うと、マグニはすかさず首を横にふった。
「エラブッタ様以外には、僕以外に奴隷が3人と護衛が一人だけでした。
町まで近いから、ウマを使う必要も無いだろうって。皆、ちりぢりになって逃げていったけど……食われたんじゃないかな」
「なら、そのエラブッタって人も探さないと。貴方達や荷物のことを心配してるでしょうし」
「必要ないです。……真っ先に、乗っていたウマと一緒に、グリファントに食われてしまいましたから」
あっ、とステラが気まずそうに眉尻を下げた。
マグニは「まあ、魔獣に襲われて死ぬなんて、よくある話ですよね」と苦笑いを零すだけ。
皿が空になると、ステラは不安げに、森の奥深くの暗闇を見やった。
「朝になったら、貴方の村へ送っていってあげる。一人じゃ帰れないでしょうし」
「……有難うございます。心強いです。またグリファントに遭遇したら、一人で生き残れる自信……ないですし」
マグニの口調がふやけてきた。瞼が重いのか、皿を持ったまま、こくり、こくりと船を漕ぐ。
あらあらとステラは微笑むと、やんわり空の皿をとりあげて、寝床にマグニを横たわらせた。
一緒にたらふく食べたチチフも、マグニの頬に寄り添って丸くなり、ぷうぷう寝息を立て始める。
その様子を手伝うでもなく、ガルムは焚き火の炎越しに、じっと見つめていた。
──誰もがこの時、知る由などなかっただろう。
魔王を名乗るこの男に救われたこの日から、この少年がやがて、世界を救う者となることを。
「救世のマグニ」と呼ばれ、後世に語り継がれる日が来ることを──
数奇な二人の出会いを、月と星空だけが見守っていた。
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