1話 夜の森にて
黒と星空で塗り潰された夜を、ひたすらに駆ける少年がいる。
煤に汚れた青髪を振り乱し、銀の瞳を恐怖の色に染めて、走る。肺が焼き切れそうな程に熱い。
夜の森は、梢が月と星を隠してしまい、一寸先は闇。
明かりの類いも持ち合わせていない。それでも少年は、足を交互に突き動かすほかない。
首元と両足を縛る鉄製の鎖が、じゃらじゃらと派手な音を鳴らす。
背後と左右の茂みから、獣の荒い息遣いが聞こえてくる。
胸が詰まるような、すえた臭い。少なくとも二十は居る。確実に、取り囲まれている。
「畜生、グリファントに見つかるなんてッ!」
悪態をつかずには居られない。
魔獣グリファントは獰猛な六足歩行の獣だ。強靱な二つの前脚と後脚、手先の器用な中足を持つ。
大きな嘴とぎらついた黄色い目、大きな尖った耳、堅い毛皮が特徴的だ。
この時期は繁殖期であるため、特にメスはかなり獰猛で飢えている。グリファントが縄張りにする山の生き物は、全て彼らの腹の中に収まるという話もあるくらいだ。
彼らの縄張りだと知っていれば、普通の人はまずそんな山に入りたがらない。
「(戦うか?魔物相手になんて戦ったことないし、まして相手は群れだぞ。やれるのか!?)」
手元の武器は、護身用の小さいナイフひとつだけ。
あと数分もすれば、自分もバラバラに引き裂かれ、彼らの胃袋で一緒くたに溶かされてしまうのだろう。
全身は汗だく、体力もとうに切れていて、死にたくない一心だけが、少年の足を無理矢理動かしていた。
「うわッ!?」
足がもつれ、真っ暗闇の中に倒れ込んだ矢先、少年は「あっ、終わった」と悟った。
一度倒れてしまったせいで、もう体はぴくりとも動けない。筋肉が疲弊のあまり痙攣して、いうことをきかない。
少年の懐からころん!と小さな麻色の毛玉が転がり出る。
毛玉は大きな目玉をぐりんっと回して、小さな齧歯類特有の鼻をひくつかせて、「フーッ!」と唸る。
「チチフ、逃げて!お前がかなう相手じゃないよ!」
「チフ、チチフチフ!フーッ!!」
獣たちがぐるりと少年を取り囲み、じわじわと輪を縮めていく。
ここが自分の終わりらしい。死にたくないと、泣き叫びたい。でも喉がからからで、そんな力すらない。
「(くそ、こんな所で死にたくない……!)」
震える手が、懐のナイフをどうにか握りしめた。
ナイフの柄を掌で握りこんで、どうにか全身に鞭打って起き上がる。
「く、来るなら来い!僕だって一端の男児だ、只では死んでやらないぞ……!!」
少年の全身から銀色に煌めく煙が迸る。さながらその煙は、少年の闘志を可視化したものであるかのよう。
若いグリファントの一頭が、少年の闘志に当てられて突進してくる。
「うわぁっ!」と情けない声がでて、よろめく。少年は必死に突進を避け、エイッとナイフを振りかぶる。だが分厚い毛皮に阻まれ、刃は表皮をなぞるだけ。
逆上した獣は、鋭く後ろ足で、地面ごと少年を蹴り飛ばした。咄嗟に少年は腹を庇い、ごろごろと地面に転がる。
毛玉の小動物がギョッとして、少年を心配するように駆け寄った。
「チフ!チフチフ!!」
「……くそ、チチフ!せめてお前だけでも逃げて……!」
少年は腹を庇うように蹲る。
若いグリファントは、己の手柄たる獲物を、どう嬲ってやろうかと、じわじわ距離を詰める。
──突如、森の奥から白い輝きが矢の如く放たれ、少年のすぐ傍に突き刺さって爆ぜた。
「ギャオワンッ!ギャイン、エイン!」
「うわああッ!?」
グリファントたちが光に怯え、ぱっと少年から距離をとる。
少年もまた、閃光に目が眩み、目を固く瞑る。刹那、粘膜を焼くような刺激臭がツンッと、少年の鼻腔を貫いた。
異臭に弾かれるように、霞む目をこじ開けると、光の中には、一人の男がいた。
「だ、……誰?」
「ヒトに名前を問うときは、先に名乗るのが礼儀じゃないのか。坊主」
全身が黒く塗り潰されたかのような男であった。これだけの光の中だというのに、男の全容がまるで掴めない。
男は少年が動かないことに苛立ったのか、「腰が抜けたか?世話の焼ける仔犬だ」と首根っこを掴んで引っ張り上げる。
その力の強いことといったら!片腕であっさり少年を抱き上げると、「面倒だから逃げるか」とだけ呟き、──飛んだ。
正しくは、男が下半身に力を込めて、木々の梢を突き抜けて、跳躍したのだが、少年からすれば突然夜空が目の前に現れたのだから、飛んだも同然だ。
「わあああああッ!?そっそっ空ァ!?」
「煩いガキだ。ちょっと跳んだくらいで喚くな」
男は、高くそびえる木の一つのてっぺんに、軽々と着地する。
身の丈はどう見ても2mはあるのに、まるで鳥の羽が落ちてきたかのように、重みを一切感じない着地。
銀色の月と満天の星空が、黒い森と少年、そして男を照らした。
少年はやっと、男の顔を見上げた。腰まである夜空と同じ黒い髪、浅黒い肌、蜂蜜にも似た金の瞳。
がっしりとした筋肉質の体格は、歴戦の冒険者や軍人を彷彿とさせる。青と黒で彩られた鎧が、月光を浴びて鈍く煌めく。
なにより目を引くのは、頭頂部の大きな獣の耳と、艶やかで太く長い尾だ。
「あ、あの……助けてくれて……ありがとう」
男は表情ひとつ変えず、大きな獣の耳をはためかせ、鼻息を鳴らすだけ。
直後、荒々しい翼の音が、重苦しく夜の空気を叩きつける。
男と少年が音の方を見ると、蝙蝠にも似た巨大な翼を持つグリファントが、「ギャアアーッ!」と猛々しい雄叫びをあげて迫ってくる!
「ひっ……!お、追ってきた、こんな所までッ!?」
「翼のあるグリファント──ということはメスか。餌を盗られてご立腹ってところだな」
鉤爪を持つ前脚を振りかざし、グリファントは掴みかかる。
だが男は、少年のナイフをサッと奪い取ると、その鉤爪をナイフの太刀筋ひとつで払った。
重たい金属音が辺りに木霊し、空中にいたグリファントは仰け反って一回転。一方で男は木のてっぺんから微塵も動くことはなく、その身がちらとも揺れる気配すらない。
少年はただ驚嘆して、その光景を見ていた。
「ギャグワッ!ギャギキィーッ!!」
「(こ、この人……強い!グリファントの蹴りは石の壁も軽々粉砕するのに……その蹴りの力を全部そらした!蹴られた衝撃が全く伝わらないなんて、そんなことあるのか!?)」
グリファントは男のただならぬ気配を警戒して、二人から距離を取る。
蜂蜜色の瞳が、ぎぬろとグリファントの目をしかと睨みつけた。
再び男から、あの粘膜を焼くような悪臭と共に、青黒い靄が溢れ始め、男と少年にまとわりつく。
じりじりと肌が、靄によって焼かれるような感覚に、少年は身が竦む。
「ギシャアッ!グギャババッ!」
「こらこら、じゃれるな小鳥め」
不気味に赤く巨大な両翼が輝くと、力一杯翼を羽ばたかせる。
刹那、強風に乗って、風の刃が赤い輝きを伴い、両断せんと男へと突貫。
男は軽やかに身を捩り、ナイフひとつで次々と風の刃を叩き砕く。
続けざまに巨獣は、己の前脚を振りかざした。直撃すれば岩をも砕く、強靱な蹴り。
だが男には直撃しない。反撃する素振りは一切見せぬまま、次々とグリファントの攻撃をただ避けるのみ。
「ひっわあ、あああッ!こ、ここ、殺されるッ!」
「おっと、顔には当てないでくれご婦人。俺様の凜々しい双眸に、ひっかき傷は似合わんだろう……っと?」
木のひとつに飛び移った途端、激しく枝が揺れた。
よせばいいのに、少年は見下ろして、ヒイッと息を飲む。雄のグリファントたちが木の幹に飛び掛かり、這い上がろうとしているのだ。
男は宙返りすると、少年を抱えたまま、軽々とグリファントたちの頭を踏み台にして逃げ回る。
攻撃をいなすためだけに使っていたナイフは、そろそろ次の一撃を受ければ砕け散るだろう。
「はッ、反撃し、しないのッ!?」
「奴等は不届き者の侵入者を追い出したいだけだ。俺様は紳士だからな、罪なき魔獣は傷つけたくない」
前方から、一頭のグリファントが暗闇に紛れ、飛び掛かってきた。
鉤爪のついた前脚と中足で、男の上半身を捕まえようと体当たりしてくる。
しかし男は舌打ちし、「邪魔だ」とぼやくや否や──ただの回し蹴りで、2メートルはある巨体を空高く蹴り飛ばした。
更に次々と飛び掛かってくる獣たちを、次々と蹴りの攻撃のみで吹き飛ばし、木々へと叩きつけ、あるいは地面にめりこませ、あるいは空の星へ変えてしまう。
「え、えええッ!?さっき罪なき魔獣はどうのって言ったばっか!」
「あれだ。今あいつら、俺様の顔を狙ったぞ。俺様の美貌を傷つける奴は許さん、よって有罪だ」
無茶苦茶だ。言っていることも、グリファントの群れを足だけで蹴散らしてしまう強さも。
この男は何者なのだろう。重たい鎧を着込み、決して軽くない少年を抱えたまま、何十というグリファントの群れを赤子の如くひねり潰す者など、そうはいない。
あらかたグリファントたちが怯えて逃げ出す頃、彼らの頭であろう翼を持つグリファントが、再び二人の前に姿を現す。
オスのグリファントたちは、情けない声を漏らしながら、メスグリファントの背後に逃げて様子を伺う。
「引け、森の主。お前の獲物は俺様が貰い受ける」
彼の言葉を理解したか、定かではない。単に男の威容を感じ取り、己が身を案じただけかもしれない。
結果として、グリファントは一つ、また雄叫びを上げると、殺意を消して身を翻し、落ちるように森の中へと姿を消した。
配下のグリファント達もまた、カシュウ、コウンと甲高い声をあげて、森の闇の中に溶け込んでいった。
最後には、少年の荒い息遣いと、喝采にも似た木々の梢が擦れ合う音が響くばかり。
グリファントの姿が見えなくなった途端、少年は「助かったのだ」と安堵して、どっと疲れが再び全身を巡る。
掠れた声で、少年は男に問う。
「あなたは……何者なんです?」
男はその言葉を聞くと、笑いもしないくせに、からかうように目だけは細めた。
「名乗るほどの者でもない。強いていうなら──通りすがりの魔王だ」
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