第1章 §2:ラオ・ノンルール

――ノルが異界狼と戦闘を開始する数分前、別の場所にて。

 ラオの眼前には異界狼の死体がいくつも散乱していた。腹を斬られ臓腑が飛び出ているものや、頭部がつぶされたもの。頭から真っ二つになったものなど様々だ。

 これらの死体を前にして、ラオの表情に戸惑いはない。むしろ彼の着ている服に付着した赤い血液が、これらの死体を作った張本人である事を物語っている。

 ラオは、身の丈を越すほどの巨大な剣を軽々と持ち上げると肩に置いた。剣の質量を感じさせない自然な動きは、彼が剛力の持ち主であることが伺える。事実、服の袖から覗く彼の二の腕は盛り上がっており、さわやかな外見とは裏腹に筋肉質な男らしい体つきであることを伺わせる。

 不敵な笑みを作りつつ、彼は残り一体となった異界狼を指さして声をかける。

「さぁて、次はお前が相手してくれるのかな?」

 だが声をかけられた異界狼は、一瞬身体をこわばらせると半歩下がった。怪物ですら畏怖を感じるほど、先ほどのラオの戦いぶりは苛烈であったのだ。

 戦闘において数の有利を覆すのは難しい。ましてや相手は人間を襲う事に特化した怪物だ。その怪物が集団で襲い掛かってくるのだから、生き残る可能性は限りなく低いだろう。

 ただし、数の有利が効かなくなる条件は存在する。それは戦力の差である。

 例えば、たった一人の人間が圧倒的な強さを持っていたらどうだろうか? それが数の有利を無意味にさせるほどの存在であれば? そんな都合の良い存在はアニメやゲームの中だけで、現実にはあり得ない……と思うだろう。

 しかしラオこそが、その条件を覆す強者であった。

 彼は襲い来る6体もの異界狼を、実に効率よく、そして破壊的に、あっという間に倒してしまったのだ。数で圧倒的有利を誇っていた異界狼達は、たかが人間の男一人に遅れを取ることはないと高を括っていたことだろう。気づけは一匹だけ取り残されてしまった異界狼が、恐怖を感じて下がってしまうのも無理はない。

 だがもちろん、ラオは逃がすつもりはない。

 しばらく怯える異界狼を観察していたラオは、残念そうに額に手を置きヤレヤレと首を振った。挑発したり、隙を見せたりすれば襲ってくるだろうと期待したのだ。

「泣く子も黙る異界狼も、こうなっちゃか弱い子犬と変わらねぇな」

 ここまで言っても異界狼は襲い掛かってこない。とはいえ、奴らに人間の言葉を理解する知能はない。だがラオが異界狼を馬鹿にしている空気は伝わっているはずである。

 ラオは肩に置いていた巨剣を振り下ろした。ブンと風を斬る音が巨剣の重さと振りの速さを実感させる。ビクッと異界狼の身体が反応しスタンスを広く取った。

「じゃあ、こちらから行かせてもらうぜ」

 言い終わるや否や、ラオは一瞬で異界狼との距離を詰める。想定外の素早さに異界狼は反応に遅れるが、既にラオは攻撃の構えを取っていた。彼は構えていた巨剣を横に薙いだが、異界狼は間一髪で後方へバク宙して躱した。ブォンと巨剣が空を斬り、風圧がラオの前髪を揺らす。攻撃が空振りしたラオは、異界狼の着地点を見極めて再び急接近した。一方、バク宙から着地した異界狼が顔を上げると、距離を取ったはずのラオが眼前で、巨剣を縦に構え大きく掲げている光景が視界に入る。異界狼が反射的に横へ回避行動をとると、攻撃対象がいなくなった巨剣はコンクリートの地面に深々と突き刺ささると同時に、放射状に亀裂が広がった。

「あれれ?」

 巨剣を引き抜こうとしたラオだったが、思ったよりも深くまで突き刺さってしまったらしい。首を傾げながら、ラオは地面に刺さった己の相棒に「おーい」と声をかけている。

 この隙を異界狼は見逃さなかった。相手は明らかに自分よりも格上である。であるならば、異界狼が勝つために取れる手段は意表をついた攻撃しかない。

 牙を剥いた異界狼が唸り声とともにラオへ飛びかかる。急所を狙った牙は間違いなく、彼の首筋へ食い込む……はずだった。

 瞬間、ラオは襲い来る異界狼の方を向いて、ニカッと歯を見せた。異界狼が、ラオの一連の行動が罠であることを理解した時には、既に手遅れだった。

 パッと剣から手を放したラオは、飛びかかってきた異界狼の牙を躱しつつ、その太い首を空中で掴むと、適当な壁に向かって全力で放り投げた。

 コンクリートの壁に異界狼が衝突し、鈍い轟音が響く。見ると、異界狼の身体は半分以上埋まっていて、ぴくりとも動かない。

 ふぅと、まるで一仕事終えたかのように、ラオは腰に手を当ててコンクリートに埋まった異界狼の様子を伺う。しかしその瞳に油断はない。

「……まだ生きてるな」

 彼の言葉の通り、死んでいたかのように見えていた異界狼は、壁から抜け出そうともがき始めていた。

 驚くべきタフネスである。通常の生物であれば即死は免れないはずだ。しかし、異界獣との戦闘を日常にしている立場からすれば、想定の範囲内であった。

 軽々と巨剣を地面から引き抜いたラオは、今度は槍投げのような構えをとり、狙いを定める。剣を握る腕がひと際盛り上がり血管が浮かび上がる。奥歯を噛みしめ力を込めると、全身に血が巡り、彼の周辺に熱気が漂い始めた。

 次の瞬間、彼は力の解放と共に巨剣を投擲した。

 閃光のごとく巨剣が空を裂く。壁から抜け出す事に集中していた異界狼は、自身に迫る危険に気づかなかっただろう。

 剣が異界狼ごと貫き壁に突き刺さる。その衝撃はラオの足元にまで響いた。

 異界狼の身体は巨剣に貫かれ、壁に埋まったまま胴体を寸断されていた。まだ壁から抜け出そうとしている様子から、最後まで自らが死んだことに気づいていなかった事がわかる。

 ラオは大きく息を吐くと、全身の力を抜いてリラックスした。ひとまず、彼に襲い掛かってきた異界狼達は全て排除したからだ。

 深々と壁に突き刺さった巨剣を回収しようとした時だった。突如、彼の背後から場違いな甲高い声が響く。

「あー全滅してるでござる! さすがはラオ殿! 相変わらず容赦ないでござるなぁ」

 にこにこと満面の笑みを浮かべながら、とても独特な喋り方をする女の子が現れた。おーいとラオに手を振りつつ、無邪気に、跳ねるように向かってくる。

 その姿は真っ黒な塊という印象を与える。上下ともに黒でまとめられた服を着て、鼻先まで隠れるほどの黒い前髪を垂らしている。長い前髪からチラチラと紫色の瞳が垣間見えるのがミステリアスさをより一層際立たせる。

 彼女はエルドリッチで薬屋を営む若き天才少女・シタリである。

 ちなみに喋り方と彼女の経歴には一切の関係はない。かつて見たアニメ作品の登場キャラクターを気に入り、その喋り方を真似しているのだとか。

「とりあえず、ここら辺の異界狼は排除しておいたぜ。シタリ」

 ――よいしょ、と剣を引き抜きつつラオが答える。「上出来上出来〜」とシタリが口ずさみながら、あちこちに散乱している異界狼の死体の一つに近づく。誰であれ死体を見れば忌避するものだと思いがちだが、シタリの表情は玩具を与えられた幼子のようにウキウキしていた。

 彼女は死体の前でしゃがみ込むと、腰にぶら下げていた大きな注射器を取り出して、異界狼の身体に押し当てた。直後、シリンジ内を淡く発光する橙色の液体が満たしていく。この注射器は医療用ではなく、異界狼の死体から特定の液体を回収する事を専用に作られた特注品である。手のひらに収まるぐらいのサイズで注射針が内部に格納されているため、持ち運びにも適している。

 一本目のシリンジが満たされると、次に二本目を取り出して同様に橙色の液体を回収し始めた。その様子を眺めながらラオが質問する。

「これだけの量があれば、今月分のノルマは達成できたんじゃないか?」

「かもしれないでござるねぇ。まぁ拙者としては、あればあるだけ嬉しいでござるが」

 と突然、腹の底へ響くような地響きと共に轟音が耳に届く。音の方を見ると、建物の向こう側で土煙が上がっているのが確認できる。

 しかし二人は動揺することなく落ち着いていた。

「今の音はノル殿でござるか?」

 シタリが尋ねた。彼女は微動だにせず異界狼の死体から淡く発光する橙色の液体を回収し続けている。

「多分な。さすが我が妹。派手に暴れてるみたいだ」

「……勿体ないでござるなぁ」

 シタリは口を尖らせる。彼女はノルを心配する気は微塵もなく、むしろ離れた場所で異界狼が死ぬことで橙色の液体が回収できないことを残念がっていた。そして、ノルの兄であるラオも特に心配している様子はない。つまりそれだけの実力をノルは有しているという事がわかる。彼女を信頼しているからこその二人の余裕であった。

 ちなみに、先ほどからシタリが回収している淡く発光する橙色の液体だが、これは淡橙液リクソールと呼ばれている。

 淡橙液リクソールは異界獣にのみ存在する第二の血液である。異界狼の体内には淡橙液を生成する器官が備わっており、これが心臓から排出される血液と混じり合い身体中を循環している。そして様々な用途に利用可能な万能な液体として大都市エルドリッチでは重宝されているし、裏社会では高価で買取されている。

 相変わらず死体からウキウキで淡橙液を回収するシタリを尻目に、ラオはとある異変に気づいて意識を集中した。

 ドスンドスンと一定の間隔で振動が足から伝わってきた。それはまるで巨人が歩いているような想像を連想させる。今までに戦ってきた様々な異界獣の中で、歩くだけで巨体を彷彿とさせる獣は数が少ない。そしてラオは、その中でも厄介な敵の姿を思い描く。

 さらに振動が近くなり、足音が聞こえ始めてきた。確実に、ここへ向かっていると直感する。

 危険を感じたラオはすぐにシタリへ忠告した。

「シタリ! 店に隠れろ! 多分、でかいのが来るぞ!」

「――承知した!」

 状況を察したシタリは淡橙液の回収を中断すると、そそくさと自分の店へ走った。シタリの店であるメディカは自動迎撃用射撃タレットが複数設置されているため、そこらの建物よりよっぽど安全である。

 重たい足音が近づくにつれて揺れが大きくなる。ラオは巨剣を構えると近づいてくる何かに備えた。

 やがて建物の影からぬぅと牛の顔が現れた。かなり大きいサイズで、その全長は7mをゆうに越しているだろう。

 発達した筋肉がひび割れて乾ききった皮膚を突き破り、体内を流れる淡橙液の淡い光が透けて見えている。鼻息は荒く、歯を剥き出しにしているその表情は下品に笑っているかのようだ。

 しかしその中でも一番目を引くのが、両手で持っている大きな斧の存在感だろう。巨大な岩を刃物のように荒く削り、天然の巨木を加工して作られた柄と組み合わせている。それは古代の巨大な樹を彷彿させ、圧倒的な重量感を放っていた。

 神話の生物ミノタウロスが存在していたら、きっとこんな姿なのだろうとラオは想像を膨らませる。

 この牛の顔を持ち、大きな斧を武器とする異界獣を、人々は異界牛と呼んでいた。

 異界牛は目を血走らせ、鼻をひくひくさせながら顔を左右に振る。そしてラオの存在に気づいた。

 歪ませていた口角をさらに上げ、獲物を見つけたと言わんばかりの咆哮を放つ。

「こっちがだったみたいだぜ、ノル」

 軽口を叩きつつも、ラオは巨剣を固く握りなおした。

 異界牛は吠えながら斧を振りあげると、渾身の力でラオに振り下ろした。まるで巨大な岩が落ちてくるかのような重圧に本能が危険信号を発する。だが極限まで集中していたラオは、異界牛の動作をスローモーションで捉えていた。

 ラオは身体を捻るとわずかに力を溜め、まるで払うように、異界牛の斧を巨剣で弾いた。軌道を逸らされた斧は誰もいない地面に衝突し、地面が陥没する。

 一撃で仕留めるつもりだったのだろう。攻撃を受け流された事に気づいた異界牛が全身をワナワナと震わせる。瞳は真っ赤に血走り、眉間にシワを寄せるその表情は鬼を彷彿とさせるほどの恐怖心を煽る。しかし、ラオは涼しい顔を異界牛に向けると、剣の切っ先を突きつけて向けて言い放った。

「かかってきな化物。相手してやるぜ」

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