2.癒して


「……な、なに……」


 男は、信じられないという面持ちで空を見つめている。


「そこ、そんなに驚くところかのう?」


「『あたうかぎり』ってなに?」


「いや、そこは前後の文脈から察するところだろう」


 どうやら男は『あたうかぎり』の意味がわからなかっただけのようで、浅田は思わずつっこみを入れた。


「え、じいさんわかるの?」


「……ええと……たぶん……『できる限り』……? と、わしは思うんだが……」


「じいさんもよくわかってねえのか……」


 飄々と明るい口調で尋ねる男に答える浅田の言葉は、しどろもどろになってしまった。浅田の強靭なはずのメンタルが折れかかったとき、またどこからか声が響いた。


「……『できる限り』で合っている。悪かった」


「いいって、そんなん。まーとにかく、出てきたら? 龍神様なんだろ?」


 またも弱々しく言う声に、男が反応する。


「う……、いかにも龍神と呼ばれてはいるが、しかし……」


「何で出てこないのか当ててあげようか。ズバリ、コミュ障だから!」


「こ、こみゅしょっ!! アアッ、アッ、アーッ! アアアーッ! お姉ちゃん今寝てるけど起こして許可もらってここらへん一帯水に沈めてやるううううう!! うわあああん!!!」


「ちょちょ、ちょっ待て待て、りゅ、龍神様、この男の言うことなど気にしたらいけません! お声だけでも十分です、浅田はお話しできて光栄ですぞ!」


「いーじゃん、コミュ障でも。出てきなよ」


 浅田が必死に懇願する横で、男はまたもやニヤリと下卑た笑いを見せ、挑発する。スポークで云々と言っていたが、まさか龍神様をスポークで殺ろうというのだろうか、あんなに細いもので龍神様の硬い鱗(想像)を突き通すことができるのだろうか、目でも狙わないことには無力化するのは……いやいや無力化ってこの地域を守ってくれている神様になんてことを……などと考える浅田をよそに、男は言った。


「ちょっとくらいいいじゃん。ね? 俺は龍神様に会いたいなぁ」


 不登校児童への対応かな? と思えるような優しい声だ。スポークはどうした、スポークは。チェーホフの銃を知らないのか! と浅田が言いそうになったとき、祠の上部からするりと何かが飛び出し、小さな龍が現れた。


「……お、おお……、龍神様、で……?」


「……そうだよ。昔は玉依姫たまよりひめって呼ばれてたけど。豊玉姫とよたまひめはお姉ちゃんで、ボクは妹」


 目の前には、身長百五十センチほどの小さな女子……ではなく龍がふよふよと泳いでいる。まるで以前テレビ放映されていた日本昔話のオープニングテーマに出てくる緑色の龍のような出で立ちだ。しかしあの、毎週気持ちよさそうに空を泳いでみせていた龍とは違い、鱗の色は青みがかっており、それほど硬そうには見えない。


「ちょっと疲れたから、降りるね」


 小さな声は少々震えているようだ。コミュ障と言われて図星を食らったかのように騒いでいたが本当に図星だったのか……と、浅田と男はいろいろと察した。「どうぞ」と言う男の声にほっとした様子で、龍は玉砂利が敷き詰められている地面にすとんと腰を……いや、腹を下ろした。


「ふぅん、かわいいなぁ。ね、きみさ、祠にずっと籠もってたの?」


「かわいい……? わしにはきりっとしたお顔立ちときれいな鱗をお持ちの立派な龍神様に見えるが」


「かわいいじゃん、大きさが」


 浅田に答えた男が、右手でスポークを握り直す。


「お、おまえまさか、それで……!?」


「え、これ? いや、ほら俺ってば殺し屋だからさ、こうしてしっかり握ってないと落ち着かないんだよ」


 スポークから視線を外すことなく浅田は「落ち着かないって何だ」と疑問を呈するが、男はどこ吹く風だ。そんな殺し屋を落ち着かせるスポークを隠しもせずにしゃがみ込んだ男の背中を、じっと見つめる。


「なあ、災害起こしちゃう? あの祠、ちょっと寄りかかっただけで壊れたんだけどさ」


「ボ、ボクはっ、あの祠がないとっ……、怖いからっ……」


「もしかして人間怖い系の人種……いや、龍種? 過去に何かあった?」


「……ううっ……、ボクの、鱗が、高く売れるからって、みんな、剥がしに来るんだ。怖いに決まっているっ……」


「そういえば『アサダ家の絶対伝えるゾ☆伝奇・風習』にもそう書かれていた……おいたわしい……」


「あーそっか、そりゃ確かに怖い。嫌な目に遭ったんだなぁ、かわいそうになぁ」


「だろう? 鱗が剥がれるとき痛くて痛くて……」


 龍との会話の中で男の右手がぴくりと動いたのを、浅田は見逃さなかった。まさか優しい言葉で油断させておいてスポークで……!? と警戒したが、男がしたことはスポークを玉砂利の上に置いて龍に手を差し伸べたことだった。


「よしよし、怖かったな。それで人間が嫌いになったのか?」


 龍は少々怯えながらも男の手を受け入れたようで、さすさすと撫でられる背中を男の手にそのまま預けている。浅田の警戒心はやや薄れてきたが、まだ油断ならないと、念のため彼の一挙手一投足をじっと見つめる。


「うん……。あと、かばってくれた人間が……死んでしまって……」


「……そうか……。でもさ、怖がるより仲良くする方がよくねえか? 俺、あんたのことちょっと気に入ったし」


「おまえは鱗を取ったりしないか?」


「しねえよ、友達が嫌がることするわけねえだろ」


 男が、「はっ」と笑い声を立てる。すると龍は顔を上に向け、「ともだち!」と大声で言った。大きな声出せるんだ、と浅田は思ったが、言わなかった。言ったらとんだ空気読めない野郎になってしまうと踏んでのことだ。


「と、友達、なってくれるのか? でも……どうして……」


「え? だって、えーと何だっけ、『あたうかぎり』だっけ? 叶えてくれるって言ったじゃん。もう忘れたのかよ」


 からかうように笑いを含み、男は龍の背中に乗せていた手を引っ込め、玉砂利の上のスポークを右手に持ち直した。

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