第30話 一度も死ねとは言ってない
朝霧がまとわりつく岸辺で、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
煉宝山の稜線を、一枚鏡のように映す湖面は穏やかで、昨日黒い靄が柱のように昇っていたとは思えないほど美しい。
「可能な限り、地上に出ている瘴気は祓った。中央の岩場までは問題なくたどり着けるはずだ」
少し疲れた様子の御守様――あれから一晩中走り回り、湖周辺を祓ってくれていたらしい。
家門を守護する、人の力が及ばぬ最高位のあやかし。
身を削って人のために力を尽くす御守様の姿など、前世では一度も見たことがない。
この九尾の狐が二代目とならなければ、今日のこの日を待たず、三ツ島全体が瘴気に侵されていてもおかしくはなかった。
「……御守様、二代目を継ぐ前はどのようなお立場で?」
「そうだな。取るに足らぬ者だった」
千年前に代替わりしたと聞いたが、当時涅家に、これほど強い九尾の狐はいなかった。
心当たりもないので、外から来たあやかしなのかもしれない。
「鎮め石だけでは鎮まらず、先代が力を使い果たし……すべてを終えたあと、私にその座を御譲りくださったのだ」
あの時のことは鮮明に覚えているが、もう時間もない。
この話はお終いだ、と御守様が口をつぐんだ。
「……ほら。早く船に乗れ」
前世の……日奈子だった時の記憶にある『御守様』は、掴みどころのない蜻蛉のような姿であった。
日奈子が湖に沈んだ後、人に関わるのを避けていた先代の御守様もまた、その身を以て三ツ島を守ってくれたらしい。
多くの人が戦いに身を投じ、命を失った。
だが今回は――。
喉元まで出かけた言葉を呑み込み、船へと乗り込むと、蒼士郎もまた何かを言いたそうにこちらを見ていた。
思い思いに岸辺を離れ、向かったのは湖の中央に突き出した岩山。
その岩山へと降り立ち、舟が離れた次の瞬間、大きな泡がボコリとひとつ浮かび上がった。
ぞわりと総毛立ち、身体中の神経が研ぎ澄まされる。
続いて、小さな泡がブクブクと続けざまに立ち、足元に黒い影が揺らめいた。
一瞬の静寂、だがまるで一面を墨で塗りたくったかのように湖が黒く濁る。
――さぁ、千年ぶりの再会だ。
直後、岩山を囲うように瘴気が噴き上がる。
水面を伝い広がる瘴気は瞬く間に岸辺へと到達し、待機していた部隊が臨戦態勢に入った。
『鎮め石』を求める時だけ姿を現すソレは、禍々しく、千歳を水底に引きずりこもうと岩場を伝い、足元目掛けて伸びてくる。
前回は引きずり込まれ、すべての霊力で以て水底の亀裂に封じたが、それでは駄目だったのだと今なら分かる。
水中戦ではとても息が続かず、さらには同じことの繰り返し。
押し込むのではなく正解は、引きずり出しての地上戦。
足元に触れる先から瘴気を祓えば、苛立ち水面ギリギリまで迫ってくる。
……以前より、大きくなっている?
見えてきたソレの周囲を覆うべく、霊力を網のように細く、強く張り巡らせる。
千歳を囲む空間ごと水中に引き込もうと、ついに湖上へ姿を現した次の瞬間、水底をさらうように持ち上げた霊力の網をぎゅうっと収縮した。
出来ることなら祓いたかったが、さすがにコレは無理。
でも岸辺まで放り投げれば、蒼士郎達がいる。
勢いを付け、網に巻き付けられたソレを、湖上へザバンと持ち上げた。
「お、重い……ッ!!」
このままだとすぐに霊力が底をついてしまいそうだ。
跳ね上がるように、そのまま千歳の真上へと――。
早く投げなければと気が焦るが、粘着質な液体が網を伝い溶かすため、放り投げるには強度が足りない。
――あと、もう少しなのに。
袂には、今朝五つに割ったうちの一番大きな護り石。
とめどなく流れ出る霊力を補いきれず、反発するほどに宿していた霊力は、すでに半分以下にまで減っている。
見上げれば網の隙間から、千歳に向かって一直線に、尖った触手が伸びてくる。
貫かれそうなほど、ギリギリまで迫った触手……だが後ろから何かが飛び出した。
触手が反応する間もなく食らいつくと踵を返し、跳ぶようにして水面を駆けていく。
引き上げられ、すべてが明らかになったその姿はまるで大蛇。
――御守様!?
低い唸り声をあげ、瞬き程の間に遠ざかっていく真白の狐は、噴き出し始めた瘴気を九本の尾で払いながら一気に岸辺へと向かう。
「千歳、急げ!!」
いつの間にか横付けされた舟から蒼士郎の逞しい腕が伸び、抱き寄せられた。
三ツ島に向かう際に見た渦潮のように、出来ては消えていく渦を縫うようにして、舟は進んでいく。
「……なぜ、ここに!?」
「湖に沈めとは言ったが、死ねとは言っていない」
確かに、死を思わせる言葉は一度たりとも聞いていない。
「なぜ言ってくださらなかったのですか?」
「失敗すれば死ぬことになる。出来るかも分からないのに、期待を持たせる訳にはいかないだろう」
御守様ともよくよく話して決めたことだ。
水底のさらに奥に住み、瘴気の発生源となっている何か。
白羽の矢で呼んだ娘は、ソレをおびき出すことが出来る囮だったのだという。
「鎮め石になれる者が岩山に立たねば、姿を現さない。一時的に防いだとして、また同じことになるならば生贄にする意味がない」
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