第29話 隠れていないで、出ておいで


 明けた空は厚い雲で覆われ、湿った空気が頬にまとわりつく。


 松五郎から貰った金魚の浴衣はやはり身丈が短く、色鮮やかな可愛らしい金魚が一匹、大きく裾に描かれていた。


「イヅナ、迷惑をかけてすまなかったな」

「迷惑だなんて、そんなこと……!」


 出発前のわずかな時間。

 千歳に会いたくて、呼ばれるのをずっと待っていたイヅナは肩に乗り、何度も何度も頬ずりをする。


 小さな頭を手のひらで撫でると、ビー玉のような目からポロリとこぼれた涙が肩に落ち、小さな水玉模様を作った。


「……千年前、日奈子として湖に沈んだ際、瘴気から発生した何か・・に水底へと引き込まれたのは知っているか?」

「はい。……はい、そう聞いています」

「『鎮め石』を求め、瘴気から何かが伸びていた。私の身体に絡みついた瞬間、足元から黒い影が浮き上がり、湖が黒く濁ったのだ」


 ブクブクと泡を立てて瘴気が湧く様は、まるで地獄の釜のようだった。

 湖全体が瘴気溜まりと化し、いく重にも輪を描いて広がった瘴気の影響はすぐに現れた。


 湖の近くにいた妖が侵され、異形に成り果てて村々を襲い始めたのだ。


 遥か遠く神がおわすころ、涅家当主に嫁いだ花嫁がその身を鎮め、瘴気を払ったという言い伝えから始まった『鎮め石』。


 異形の気配が溢れ、人々の悲鳴が聞こえたのを最後に水底へと沈んだため、その後どうなったかは何も分からない。


「今回も同様のことが、きっと起こる。貧民街、一般街、雨催いの花街……と、島の中央に向かって円を狭めるように区画が分けられているのは、恐らく異形が流入するのを防ぐためだ」


 湖がある『ハレの煉獄』は最奥の中心部。


 そして『ハレの煉獄』に出入りするためには、花街の内側を囲う高壁を超えなければならず、さらに入口は『北の大門』のみ……つまり高壁は、防壁の役割を果たしていたのだ。


「もう少し別れを惜しみたいが、与えられた時間は少ない。お前に……お前達に、お願いがあるんだ」

「な、なんなりとお申し付けください」


 グスグスとベソを書きながら、イヅナが頭を縦に振る。


「現状を鑑みるに、これ以上の人員を割く余裕はなさそうだ。かといって花街に瘴気を祓える者は、いないに等しい」


 千歳達が襲われた時も、涅家の者が来るまで、皆遠巻きに見ていただけだった。


「湖の瘴気が拡がれば、それだけ被害も拡大し対応に手を割かれる。何としてでも花街への流入を防ぎたい」


 つまりは高壁を超えないよう、何かしらの手を打ちたい、ということ。


「イヅナ、力尽きるまで走り回ってくれるか?」

「……えっ?」

「高壁に沿って、等間隔に『護り石』を埋めて欲しい。私が生きている限り、花街への瘴気流入を防いでくれるはずだ」


 丸みを帯びた楕円形の『護り石』に霊力を籠めると、これ以上は受け取れないと拒否するように反発する。


 だがさらに強く強く……中心部に向かって一気に霊力を送った次の瞬間、パキンと音を立てて護り石が五つに割れた。


 そのうち一番大きいものを袂にしまい、残りの四つを小さな袋に入れ、イヅナの首にかけてやる。


「一度埋めても濃い瘴気が当たれば、楔にした『護り石』は抜け落ちてしまう。お前が先んじて走り、埋めた石を豆狸達、鬼山さん、松五郎、……そしてお前、イヅナの四人で各々手分けして押さえていて欲しいんだ」


 前回は力及ばずで駄目だったけれど、今回は二回目。

 出来るところまで抗ってみるつもりだと、千歳はイズナの額に唇を寄せた。


 契約主から、使役するあやかしへ……千歳の霊力が流れ込む。


「鬼山さんにも分けておやり。豆狸達は使役契約こそしていないが、一緒に過ごしていたから私の霊力に身体が馴染んでいる。きっと分けてやれるはずだ」


 ざわ、とイヅナの毛先が揺れ、淡く身体が光り出す。


「でも松五郎は……?」

「松五郎は普通の人間だから、力尽くで抑えてもらって……うん、そうだな。お前が行ってやるといい?」

「お前?」


 誰もいないのではと首を傾げたイヅナに、見てて御覧、と千歳は浴衣の金魚を一撫でする。


「後悔のうちに宿り、あやかしになってしまったのだな。兄と共にいたいお前を一人にするのが不憫で、『ハレの煉獄』へと強引に松五郎を連れて来たが……」


 さぁ、隠れていないで出ておいで。


 その声を合図に浴衣から、ふわりと金魚が浮き上がる。

 まるで水中にいるかのように、千歳の周りをクルリと泳ぎ、パクパクと口を動かした。


「ふふふ、……そうだな。アイツはサボりそうだから、内緒にしておいて、危なくなったら助けてやるといい」


 皆への指示出しと、護り石の件。

 出来るか? と聞くと、涙を引っ込めたイヅナが元気いっぱい頷いた。


「当然よ!! 代々涅家に仕える管狐、このイヅナを舐めて貰っては困るわ!」

「ははは、そうか、それは頼もしい」


 ……私もなんとか頑張ってみるよ。


「また、後でな」


 最後に再び頭を撫で、「行け」と命じると、瞬く間にイヅナの姿が遠ざかる。


 前回は、あまりに多くの者を残して先に逝ってしまった。


 だからどうか。




 ――――今度こそ。



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