第25話 余暇の素敵な使いみち
頬をくすぐるフワフワとした感触。
驚くほどに瞼が重く、蒼士郎は
「……御守様?」
澄んだ大きな瞳。
大柄な蒼士郎でも難なく
目に飛び込んできたのは、艶やかな毛並みを惜しげもなく披露する御守様の姿だった。
「うん、だいぶ顔色が良くなった。三日程眠っていたが、お前の霊力が回復したのでな。昨夜封じを解いて、部屋に移した」
具合はどうだと一歩近付き、鼻を寄せた御守様の声に安堵の色が混じる。
「三日も!? 煉宝山……湖はどうなりましたか!?」
気を失う直前、煉宝山の麓にある湖が黒く染まった。
広がった瘴気が屋敷まで届けば、犠牲者の数が加速度的に拡大する恐れもある。
一刻も早く、向かわねばならない。
身体をもたげ、今にも駆けだしそうな蒼士郎を落ち着かせるように、御守様は鼻先でその頭をグイっと布団に押し付けた。
「地上に出てきたものについては殆ど祓い終えている。数日は問題ないだろう」
「御守様が祓ってくださったのですか!?」
「家門を守護するということは、当主であるお前自身をも護るということ。何も気にする必要はない」
いつもは大広間でゆったりと過ごしている御守様。
大きな尻尾がふわりと揺れて、蒼士郎の鼻先をくすぐった。
「身体は重いですが、思考はハッキリとしています。現場で指揮を執るくらいなら出来ます」
起き上がろうと身体を起こすが遮られ、身動き取れないよう肩に手を乗せられる。
「まったくお前は忙しない……駄目だ。回復したとはいえ、その霊力では通常時の半分にも満たないだろう。また霊力が尽き、倒れることになるぞ」
自分でも気付かぬまま、霊力が尽きかけていたらしい。
また同じことを繰り返す気かと強い口調で問われれば、今回迷惑をかけてしまった手前、それ以上は何も言えなかった。
「最低でも二日間、屋敷から出ず養生しろ」
「……承知しました」
「各部隊の疲労が溜まっているため、その間の見回りはイヅナに任せたい。これより二日、イヅナを預かるが問題ないな?」
異論などあろうはずもなく、頷く蒼士郎を満足気に見遣り、御守様は部屋を後にする。
これまで、頭痛とともに断片的に映像が差し込んでいたが、それもなくなった。
気付けば『護り石』を手にして以来、頻繁に起こっていた頭痛も収まり、スッキリと頭が晴れている。
その代わり、クリアに……怒りすらも鮮明に、
正直、前世の記憶が蘇ったからといって何が変わるわけでもない。
さて、何をしたらよいものか……。
残された蒼士郎は布団から出ていた腕を組み、困ったように天井を見上げた。
御守様が対応してくださるのなら、蒼士郎の出番はまず来ない。
鍛錬……は許してもらえないだろうし、霊力を練って瞑想するのも駄目そうだ。
「屋敷内の書物は殆ど目を通してしまったし……休みをもらった途端に、暇を持て余してしまうとは」
これといってやることがない自分の無趣味さに辟易としていると、ふと千歳の顔が頭を過ぎった。
花街で襲われても、豆狸を見ても、怯える様子もなくいつもマイペースにのほほんとしている。
回復した後、瘴気に侵される原因となった豆狸達に怯えるようなら、配置換えも考えていたのだが……。
何かあったら報告するようイヅナに命じてはいるものの、何も言わないところを見ると、どうやら上手いこと馴染めているらしい。
「そういえば、イヅナに文字を教えるよう頼んでいたな……」
持て余した余暇の使いみちを思いついた蒼士郎は、チリンチリンと呼び鈴を二回鳴らした。
***
『お前のことを当主様が呼んでいる』
朝餉の準備を終えた、朝六時。
白狐の面を被った男に早朝から物々しく呼び出され、攫われるがごとく小脇に抱えられて向かってみれば、案内されたのはなんと蒼士郎の私室であった。
思い当たる節は割と色々あるのだが――。
さてどの件だろうと平伏していると、そんなもんはいらんと鼻で笑われる。
「これより二日間、イヅナに代わり俺が文字を教えてやろう」
「……ありがとうございます。体調はもうよろしいのですか?」
「問題ない。御守様に何年ぶりかの休みを頂いた。……特にこれといってやることもないから、朝昼晩とみっちり教えてやる」
「朝昼晩!?」
何年ぶりかの休みというのにもビックリだが、余暇の使いみちが『下働きの新参者に文字を教えること』なのも驚きである。
それも朝昼晩と一日中……。
まだ二十代だろうに、遊興に耽るでもなく……酒を酌み交わす者も、将棋を指して楽しむ相手すらもいないのだろうか。
遊ぶ場所が花街くらいしかないとはいえ、涅家の当主ともなればどこにいっても歓迎されるはずなのに……。
ただひたすら仕事漬けの毎日を送ってきたらしい。
「早くこちらへ座れ」
「どこまでやった?」
「すべの文字を教えていただきました」
ゆっくりと筆を滑らせ、ぎこちない手付きに
「随分と飲み込みが早いな」
「土に書き、毎日練習しましたので」
「それにしても、だ。こんな短い期間で……頑張ったのだな」
相変わらずニコリともしないが、感心したように褒められる。
そのまま千歳の頭を撫でようと手を伸ばし、――蒼士郎は、ふと動きを止めた。
「……封じの間にいる時、お前の夢を見たような気がする」
「私の夢ですか? それは光栄です」
何故か急に視線が合わなくなった蒼士郎。
まさか起きていたのかと内心焦り、どんな夢ですかと探りを入れた千歳を前に、そのまま黙りこくってしまう。
「……撫でては貰えないのですか?」
「ん? ああ……」
「千歳の頭はここです」
宙を彷徨ったまま。
大きな手のひらは一向に、千歳の頭に着地する気配がない。
虐げられていたため、褒められた記憶は一度もない。
さらに前世は当主だったので、子供のように頭を撫でられることなど一度も無かった。
初めての機会に思わず零れた、強請るような言葉に自分でも驚いてしまう。
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