第5話 白狐面の黒装束
「この置屋がお前の引き渡し先だ」
二階建ての屋敷……
脇に配置された前庭には、青々とした緑が美しく目に映える。
「これまた随分と立派な……」
「適当に売っぱらう予定だったが……証文を破棄して欲しいか?」
格子戸を開けようと伸ばした腕を止め、松五郎が振り向いた。
売る気満々だったくせに、なぜだか急に及び腰……大事な証文を自ら破棄するなど聞いたこともない。
「今まで島に流れてきた罪人達は、どのように?」
「いや、別に千歳みたく物を知らないヤツはいなかったし……」
そもそも冤罪じゃなかったし、それにお前ほど幼くもなかった。
最後は消え入るほどに小さな声だが、一体千歳を何歳だと思っているのだろう。
栄養不足による低身長と、幼い顔立ち。
与えられた浴衣を見る限り、下手をすれば十を少し超えた辺りだと認識しているのかもしれないが、正真正銘まごうことなく十五歳。
結婚も可能な、成人女性なのだ。
「
「……どうなっても知らねぇからな」
松五郎が意を決したように再度格子戸へ指をかけたその時、二人の足元に影が差した。
振り向くと、
ぶよりとした質感と醜悪な姿……漂う異臭に生理的な嫌悪感を覚えたのだろう、松五郎が喉奥で小さく悲鳴を上げる。
身体を折り曲げて、真上から二人へ覆い被さるかのようにゆっくりと近付いてくる、巨大な『あやかし』。
「誰か! 誰か助けてくれッ!!」
松五郎が震える手で
このままでは危ういと、慌てて周囲に目をやるが、逃げようにも四方塞がれ逃げ場がない。
寒威増す暁の、
「こんな竹製の、小さな笛がひとつ銀二十匁もしたのに!!」
「それはまた随分と……」
呆れる千歳をよそに松五郎は、頼みの綱である
『ピィーーーーッ』
先程より長く鋭く、甲高い音が空高く昇っていく。
「花街であやかしに襲われたら、助けに来てくれるんじゃなかったのかよ!?」
「……今のところ、払った金額分の恩恵は何も受けられていないですね」
「んなもん分かってるわ! ぜんっぜん、来ないじゃねぇかぁぁあぁああッ!?」
だがそうしている間も、松五郎の身体にゆるゆると伸びた触手が覆う。
じっとりと湿ったソレが素足に触れると、ゾワッと全身に悪寒が走った。
次の瞬間引き込まれ――。
助けを乞うように伸びた腕が彷徨い、藻掻くように宙をかく。
とぷん、と音を立てて、松五郎は『あやかし』に呑み込まれた。
***
――ふむ。
あやかしの内で藻掻く松五郎を眺めながら、千歳はどうしたものかと首を傾げていた。
「あのままだと息ができないな」
引っ張り出さねばと
祭祀を司り、祓い屋も務める『神宮司家』の前当主の娘ともなれば、幼い頃から見合う教育を受けて然るべきなのだが、今世ではまともな教育を受けていない。
ゆっくりと開いて、また握り――数度繰り返すが、何しろ今の自分に何が出来るかもよく分かっておらず、前世の記憶に頼りきりである。
松五郎を呑み込んだあやかしは、再び千歳を覆うように触手を伸ばしてくる。
「まぁ、やってみるしかないか」
真上から伸ばされたソレを視界に収め、のんびりと足を踏み出した。
身体の奥底から霊力を引き出そうと目を閉じたその時、ヒュッ、と軽やかな風切り音が耳元を掠める。
瞬きほどの間に、ぶよりとした
見上げれば、舞うように身を翻す黒装束の……白狐の面を被った男。
まるで重さなど無いかのように空高く舞う黒装束の男は、息もつかずに千歳の視界をひらいていく。
「……きれい」
思わず声が漏れ出た千歳の足元に、切断され落ちた触手が苦しそうにうねり、しばらくして動きを止めた。
その一つがボトリと頬に落ち、千歳の輪郭を辿るように伝っていく。
頬を起点に一筋の模様を描きながら動きを止め、惜しむように顎をなぞった後、ゆっくりと地に落ちる。
神宮司家の屋敷にいた時はおよそ見ることの無かった現実感のない光景が、千歳の瞳にぼんやりと映りこんだ。
男は目にも留まらぬ速さであやかしの背後に回り込み、木を足掛かりにして高く跳ねる。
次いで刃を振り下ろすと、その頂きを裂くように食い込んでいく。
重力に任せ垂直に、……下へ、下へと刃が沈む。
身の毛もよだつあやかしの叫びを分かつように、その身体は大きく二つに分断された。
原形をとどめることができなくなった身体は、どろりと、水飴のようにとろけて崩れ落ちていく。
「ん?」
黒装束の男は小さく呟くなり、あやかしの内から伸びていた松五郎の腕を掴み、一息にずるりと引き出した。
「ん――、違うな。こいつじゃない」
片腕を掴んで軽々持ち上げ、グッタリと力無く項垂れる松五郎をしばらく眺めていたが、そのうち興味がなくなったようにポイッと放り投げる。
糸を引く粘液にからめとられ、全身濡れそぼった松五郎は身体を地に打ちつけた。
衝撃で意識を取り戻したのか激しく咳込み、飲み込んだ液体をゴボッと吐き出して、身体をもたげている。
「た、助かった……」
へなへなと腰が抜けたように蹲る松五郎をそのままに、黒装束の男は千歳のもとへ歩み寄ると、片膝に手を突き屈みこんだ。
「妙にあやかし達が騒ぐと思って来てみたが……」
鼻先が触れ合うほどの距離で交差する、二人の視線。
「……よく分からん。普通の子どもに見えるな」
白狐の面奥で、夜色の双眸が無機質に千歳を映す。
静かな声に囚われ、世界から、音が消えた。
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