何があった
「……さん!……
自分を呼ぶ声で暁月は目覚めた。何とも目覚めが悪い夢を見てしまった。今まで一時も当時の事を忘れた事は無いが、夢とはいえ母と兄の悲惨な死をそう何度も見たくは無い。暁月の身体は冷や汗で湿っており、頬には涙の跡が見える。
ベッドサイドには何故かバスローブ姿の
昨夜の事が全く思い出せないのだが、これは一体どういう状況なのだろうか。何故蓮が寝起きの暁月にペットボトルの水を手渡している?そして何故彼はバスローブ姿なのだろうか?
暁月はペットボトルを受け取らずにじっと蓮の方を見つめると、蓮も暁月が何を考えているのかに気が付いたらしく、苦笑いで訂正する。
「……昨晩、暁月さんは間違えて酒を呑んでしまったようでね。その時たまたま俺が居合わせて、暁月さんは俺の事を誰かと勘違いして離れようとしなかったんだ。だから
「ふーん」
蓮は昨夜の事実を話さなかった。いくら場数を踏んで慣れてしまった暁月とはいえ、聞いていて気持ちのいいものでは無いだろう。犯人は
誤解が解けたのか、暁月は蓮の手からペットボトルを受け取ると控えめに口を付けて水を飲んだ。酒を呑んだのは確かな話だ、飲んだ時点で暁月も酒だと気が付いていたのだから。だが、おかしいのはその後の事だ。暁月は酒を呑んだことが無いわけではない。なんなら接待で無理矢理飲まされた事があるほどだ。酒は好きではないが、呑み慣れている。酒に弱いわけでもないのを知っている。なのに昨晩はたった一杯で眠ってしまったなんて、どうにもおかしな話だ。暁月に酒を渡してきたのは香主だったはず。なら彼奴はきっと何かを企てていたのだろう。
「ならば昨晩は迷惑をかけたみたいだ。すまなかったね」
「いえいえ。身体は平気?」
「ええ、大丈夫。酒には慣れているから」
暁月がそう言うと、蓮は片眉を上げた。蓮の嘘はバレている。だが、蓮は敢えてそこには触れず、いつものように人の良い笑顔で暁月を見つめるだけだ。
「……もう戻るよ。昨晩はどうもありがとう」
暁月は起き上がり、重たい頭を抱えながらそう言った。どうも昨日盛られたのはただの睡眠薬では無いらしい。香主ならば暁月が薬に詳しく、滅多な薬物は効かないという事も知っているだろう。龍瀏が処分を任せてくれるならば、彼奴をどうしてくれようか。
「顔色が悪い、体調が悪いんじゃ?」
「睡眠薬……かなりキツいものを盛られたみたい。きっとそれの後遺症だ。時間が経てば平気になる」
「それでも今は辛いだろう?俺は大丈夫だから暫くここで休んでいたらどうかな。必要であれば俺も席を外すから」
蓮は出て行こうとする暁月の肩を掴むと、再びベッドに座らせた。
「……医学生の言う事は聞いておいた方がいいね。そうさせてもらうよ」
暁月が再び横になると、逆に蓮は出て行こうとした。
「ちょっと待って、どこに行くの?」
「一人がいいのかと」
そんなこと、一言も言っていないのに。暁月は少し不満そうな表情を浮かべたが、それでも蓮の表情は何一つ変わらない。何と厚い仮面なのだろうか。
「僕の話し相手をしてよ。暇なんだ」
「もちろん。俺でいいなら」
蓮は鏡台の椅子をベッドサイドに持ってくると、椅子を反対にして座り、榻背に腕を乗せて前にもたれるように座る。
「そういえば、泣いていたけれど悪夢でも見たのかい?」
「……ああ、昔の夢をね。そんな事はどうでもいい。前からずっと思っていたけれど、蓮さんはどうして医者になりたいの?」
暁月がそう言うと、蓮は僅か一瞬だけ顔を強ばらせた。それは紛れもなく本顔だろう。しかしまたすぐにいつもの仮面を被ると、軽く言った。
「俺、妹がいるんだけど昔から身体が弱くて。俺が医者になれば何かあった時もすぐ対応できるでしょ?」
「……へぇ、お兄さんだったの」
暁月は妙に納得した。確かにこの包容力……というか温かく何かを包み込む彼の雰囲気からは兄力を感じられる。
それから他愛も無い会話を続け、一時間程経っただろうか。気が付けばもう十二時をまわっており、そろそろ昼食の時間も近付いてきた。
「話に付き合ってくれてありがとう。忙しい医学生の時間を奪ってしまって申し訳ないね」
「いえいえ。暁月さんは医学に詳しいんですね」
「……まあね」
会話の内容は主に蓮の大学の話だった。人体の不思議や構造をつい暁月に熱弁してしまい、少し気が引けた蓮だったが、以外にも暁月は真面目に聞いていて、その上自分の意見や考えまで話し始めた。こんな深窓の令嬢のような見目の暁月がここまで詳しいとは思っておらず、蓮も感心せざるを得ない。
だが蓮がそう言うと、暁月の表情は曇を見せ、長いまつ毛を下に向けた。何か触れてはいけない話題だったのだろうか。暁月もそんな自分にはっとすると、淡々と付け足すように言った。
「僕は兄から一通りの教育を受けている。その過程に医学が少しあっただけで、そんなに詳しいとかじゃないよ」
「ならば暁月さんはとても聡明だ。僕は死に物狂いで勉強して、何とか医学生になれたのに」
その時、部屋のインターホンが鳴った。蓮がモニターを覗くと、そこにいたのは張偉だった。
「張偉さんだ。少し待っていて」
蓮がドアを開けると、張偉は深深と頭を下げていた。
「昨晩は暁月様をありがとうございました」
「い、いえ……そんな……」
少々堅苦しすぎる張偉にどんな風に接していいかわからず、蓮はただ両手を左右に振っていたが、張偉は業務連絡のように淡々と告げる。
「暁月様はまだ中で休まれていますか?」
「はい。1時間程前に目を覚まされましたよ。ただ昨晩の記憶はあまり無いみたいなので、あまり触れないでください」
「分かりました」
張偉は中へ入り、暁月が視界に入ると着替えやらを手渡し、蓮の方に視線をやった。
空気を読んだ蓮はにこやかに頷いて部屋を後にする。暁月は蓮に何かを言いかけようとするも、言葉が喉につっかえて出てこなかった。本当はまだここに居て欲しかったのに。
「で、どうしたの?」
暁月が少しぶっきらぼうにそう言うと、張偉は一瞬目を大きく開いた気がしたが、またいつもの仏頂面に戻る。
「今朝方、首領が帰国されました。本国で少し面倒事があったとの事です」
「あぁ……あの風俗店の件か。取り掛かるのが遅すぎる。売人達は今頃逃げているだろうね。国外に逃亡されたらいくらうちでも面倒なのに」
以前、楊家の息がかかっている違法風俗店を任されていた担当の構成員がアメリカのマフィアと密かに密会をしていると噂があった。何を企んでいるのか知らないし、噂は噂だったのだが、火のないところに煙はたたないと言うだろう。暁月が少し探りを入れてみれば、密会どころか様々な不正が見つかった。不正だけならばまだ後回しに出来るものの、密会の相手はよりによって楊家と対立関係にあるアメリカのマフィアだった。
「……で、香主は?」
暁月が横目にそう聞くと、張偉は顔を顰めた。
「覚えていたんですね」
「微かにね。
暁月は身を整えると、風のようにホテルを後にした。ホテルを出る際、霧谷の者だと名乗る男からコーヒーを貰った。知らない者からの飲食物は絶対に口にしない暁月だが、下っ端とはいえ取引相手を無下にするわけにもいかない。受け取って車に乗ったのだが、ふとある事に気が付いた。カップには番号が書かれているのだ。その番号の下には鳳来蓮と書かれており、恐らく電話番号なのだろう。
暁月は僅かに心拍数が上がった気がしたが、よくよく考えてみればこれは本当に蓮の番号なのかわからない。確かめる為にも一度掛けてみる必要がある。と、自分に言い聞かせ、電話番号を入力した。あとは発信ボタンを押すだけだ。
指を伸ばすも、手が震えていることに気が付いた。一体自分は何をしている?鳳来蓮は大事な取引相手であり、連絡先くらい交換するだろう。それに自分から落とすと心に決めたではないか。たかが電話くらいで何をこんなに緊張している?立場で言えば自分の方が上なはずだ。何なら緊張するのは自分ではなく蓮の方だろう。
だが、考えれば考えるほど押すのを躊躇ってしまう。いつもと違い、誰かに対して弱気になっている事に寒気がする。意を決して発信ボタンを押した。
静かな車内にコール音が鳴り響く。運転席の張偉も、バックミラー越しに見るいつもとは違う暁月の様子に内心自分の目を疑っていた。一体暁月にそんな顔をさせる相手は誰なんだ?と。
だが、中々電話を取られない。やはりあの男がからかいか何かが目的だったのかもしれない、そう思った矢先、声が聞こえた。
『……はい』
その声の主は蓮だった。暁月は自分からかけたはいいものの、別に何か要件があるわけでは無い。何を言うか口ごもってしまう。
「……コーヒーを差し入れてくれたのはあなた?」
『あぁ、暁月さんか!鳳来蓮です、掛けてくれてありがとう。連絡先を聞こうと思っていたんだけど、忘れてしまっていて。こんな形で不快にさせてしまったかな?』
「いえ、そんな事は無い。僕も連絡手段が欲しかったから、良かった」
こんな時、暁月は素直になれない。僕も連絡先を聞きたかったと素直に言えばいいのに。つい距離を置くような言い方をしてしまう。客の男達にならば、相手を喜ばすような返答が出来るのに。本当、今日の自分はどうにかしている。
『今日はお話が出来てとても楽しかった。また時間のある日にでもお茶に誘っても?』
「ええ。……もちろん」
電話が終わっても、暁月は暫くボーッとしていた。だが、よく良く考えればこれは自分がよく使う手でもある。離したくない取引相手はこうやって心を掴んでおけば贔屓にしてくれるし、離れていかない。舞い上がってはいけない。これでは自分もあの客と同じではないか。だが、どうにも蓮の言葉と今日のバスローブ姿が頭から離れない。胸元が少しはだけており、彫刻のように整った顔からは想像出来ない厚い胸板が主張されていた。あの時は寝起きだった事もあり、上手く頭が働かず状況を読み込む事に必死まったが、今になって冷静に考えてみれば何とも言えない恥ずかしさが込み上げてくる。いやいや、男の裸なんて見慣れているだろう。第一、見た目は違えど自分も蓮と同じ身体の構造をしているのだ。
暁月は満潮の桜のように顔を紅潮させ、俯く。自分の感情に気持ちの整理が追いつかない。ただ少し優しくされただけじゃないか。あの態度を本気にするなんて馬鹿馬鹿しい。
しかし、本人以上に驚いていたのは張偉だった。長年暁月を見てきたが、一体あの表情は何なんだ。まるで十代の少女が初恋に目覚めた時のような初々しい赤面ではないか。電話の声は鳳来蓮に聞こえたが、何故あんなに親しそうなんだ?自分がいない数時間の間に一体何があったというのか。聞きたい事は山ほどあったが、正直に聞いた所で「うるさい!」と叱責されてしまうだろう。
暁月は自責する為にも自分の頬を叩いた。今まで下心丸出しの汚い客しか相手をして来なかったからだ。蓮だってあの仮面の下には下心を隠しているに決まっている。見た感じ今は男に興味が無さそうだった。となると望んでいるのは霧谷の更なる活躍か?人脈か?そう考える事で暁月は自分の心を保った。
一方で蓮は、暁月からの連絡に素直に喜んでいた。下心があるわけではない。ただ、暁月と知り合ってからは彼の境遇にかなりの同情を寄せていた。暁月は大人の欲望に蝕まれ、傷を負った幼い少年だ。楊家の者や取引相手の大人と接する時は暁月は仮面を付けている。傍から見ればそんな事はわからないだろうが、蓮はまた同じく仮面を付けている立場だ。だが、それが蓮と話している時は外れていたのだ。それに、昨晩の暁月はあれからも時折蓮に向かって"
それに、蓮も暁月とは一緒にいて飽きない。聡明で話が合うのはもちろんなのだが、どこか庇護欲を掻き立てられる。弟のように逞しく育てるために放っておけるような存在では無く、妹のように大事に囲って守ってあげたい。もちろん暁月は男なので妹という表現はおかしいのだが、例えるとそういう存在なのだ。まあ、実妹とは全然違う感情ではあるが。厳密に言うと"年下の女の子"といった感じか。もちろん、本人にこんな事は言えるわけが無い。
「……何でそんなにニヤニヤしてるんだ?」
「ん?」
大学の講義が終わり、近くのカフェで友人とレポートを纏めていたら、友人に突然そんな事を言われた。暁月を思い出していたら知らず知らずのうちに口角が上がってしまっていたらしい。
「もしかしてまた新しい女が出来たとか?」
「違うよ。……暫く女はいいかな」
友人は呆れたように蓮を見ると、羨ましそうに言葉を零した。
「まったく、なんて贅沢な奴なんだ。やっぱりイケメンは良いよな。でもお前、そんなに女を取っかえ引っ変えしてるといつか刺されるぞ」
鳳来蓮は女性から非常に人気が高い。背が高く、ルックスも良く、将来有望な医学生。おまけにこの紳士さだ。蓮を前にしたら世の男は鼠のように見えるだろう。当然色んな女性から誘いを受けたりするのだが、蓮は自分から断るような事はしない。来る者拒まずな人間だが、その代わり誰も自分の深くへは来させなかった。女性の方もそのうち遊びだと気が付き、離れていく人もいれば遊びでもいいと嵌っていく人もいる。
そんなこんなで女をとっかえひっかえしている蓮だったが、正しくこれが裏の顔、仮面の下と言える。こんな事が信義に知られてみろ、何と言われるかは予想がつく。だが、普段の行いが良いため、"鳳来蓮は女癖が悪い"と噂が流れてもそれはあくまで噂となった。
「……大丈夫だよ。俺の本性に気が付いた女の子は自分の意思で離れていくか、残るかだからね。俺は何も強制していない」
ムーンライト 丹花 @tanhua
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