第4話.聖女はプレイを好まないの


 産科にいた医療者である自分にとって出血はつきもの。出産は命がけ、最も出血が多い。時には蛇口をひねったよう血が噴き出る、と呼ばれる現場だ。


 顔に吹き出した血の洗礼を受けたことさえある。その時は緊急事態だし、夢中であまり気にしたことはない。


 ――けれど、でも、これは違う。殺された死体の血なんて浴びたことがない。

 男がずるり、と力が抜け床に落ちる。

 

 かろうじて首だけ振り返ると、巨体はカッと目を見開き、床には血が海を作っていた、開かれた瞳孔。死んでいる。


 誰かがいる、床の血だまりの傍に黒いブーツがある。それがカツンと音を立てて動いた。


「ひ……っ」


 まだ体が潰されたままで、喉から息がもれる。そうすると残っていた空気が全部出てしまう。殺人者の顔はまだ見えない、ただ顔をのけぞると、剣が見えた。剣なんて初めて見たよ! 


 医療器具でメスや、ハサミの類はたくさん見ているし、血まみれのそれを洗うのは慣れたもの。


 そんな時に恐ろしさは感じない、とにかく早く終わらせて、使う前と数が合っているか確認、セットしてまた金属の箱に入れて、滅菌にかける。

 そして、また次の処置へ猛ダッシュする。 


 普通の人は血まみれの器具を見て何と思うのだろう。

 自分は、血がこびりついて落ちない、イライラする! ぐらいしかないけど。


 血が滴る剣を見て、逃げたくなるけど逃げられなかった。


 とにかくこのデブを押しのけて抜け出すか、それともこのままでデブを壁にすべきか。そう思ったけど、重い、とにかく重い。


「――いつまでそこにいるつもりだ」


 その時、その殺人者が尋ねた。冷ややかで呆れているという響きだ。


「……は」


 私を殺すために来たのか聞きたい。それとも助けに来たの? 


 尋ねたのは、意思疎通するため? 

 殺人者を前に意外に自分って平静な気がする。だってもっとガタガタ震えて、怯えてもいいのに、デブに押しつぶされてるまま。


 ていうか、殺す気ならもう少し早くどけてくれてもいいし、でもこのデブと一緒に貫通は嫌だし、助けるならどけてくれるんじゃないかな。


「そのデブとそういうプレイをしているのか?」

「はあ?」

「死体フェチか? 楽しんでいるのか?」

「な……わけ、ないでしょ! どけてよ!」

「……えらそうだな」


 は? えらそうなのは、どちらさまですか?


 剣をまっすぐ水平に定めて、その男は亜梨鈴を指す。


「助けて下さいと言えないのか」

「……言わない」


 まだ助けない、なんなんだ。ちらりと見たら顎に手を当てて、考えている。


「気が強いな」

「殺すなら死体をどけてよ、逃げる時に切ればいいじゃない! 助けるなら助けてよ!」


 巨体の重量で気絶しそうだ。息が切れてきた。がくっと顎が台座に落ちて、顔を伏せる。


 その段階で、ようやく男が動いて上から乱暴に死体がどかされた。男と反対側に押しのけられたのだ。


「悪くない、いい」


 アリスは閉じていた目を開き上げた。

 フードを降ろしているからよく顔は見えない。


「はい?」


 いい、って言われた? いきなり変な言葉が聞こえた。叫んで逃げなきゃいけないのに、なんか偉そうすぎて、ヒステリーを起こした医師の方が怖いのは変だろうか。


 ――人殺し、なのに。


 そう、この人は人殺しだ! 男が亜梨鈴の方に歩んでくる、ヤダこの人ヤバい。

 そして彼が手を振り上げた時、ようやく亜梨鈴は小さく叫んで、手で頭を庇う。


「立て」

「やめ……やめて」


 男の力が強い。両手首を掴まれてやすやすと台の上で体をもちあげさせられる。ずるずると転がされるように、台から体が落とされ、自然足も落ちる。


 膝が安定しないまま立たされる。目が血だまりを拒否する。反対側に死体があるなんて考えたくない。


 一体何が起こっているのかわからない。


「こ、ころさ」


 ……ないで。男はそれに答えない。ただ亜梨鈴を無視して腕を掴み、引きずるようにして歩く。それに合わせて亜梨鈴も両腕を掴まされたまま歩く。


 両手を片手で掴んだまま引きずるなんて、なんて握力、なんて筋力。


 蹴ろうとしても、足ががくがくして今にも転びそうなのに無理。


「転ぶなよ。転んだら面倒だ」


 その脅しに息を呑んでいると、奴は祭壇に掲げてあったランプを取り上げ、その口から死体に丁寧にまんべんなく液体をかける。そのとろみのある何かを見て亜梨鈴は予感をした。


 そして殺人者は、祭壇前にあった火をくゆらす蝋燭の燭台ごと死体に投げかける。


「ちょ……!」


 やはりランプに入っていたのは油だ。


 あっという間に、死体の赤い衣に火がついて、青い火が燃えたち勢いよく奴を呑み込む。息を呑みようやく喘ぎ声がでたと思えば、叫びと共に吐き気がこみ上げてくる。


「うっ……」


 悲鳴と吐き気が同時なんて初めての感覚だ。

 その時男がようやく亜梨鈴の存在を意識したように振り返る。手首の拘束を外し、亜梨鈴を引き寄せる。


 片手が後頭部を引き寄せ、もう片方の手が顎をくいと持ち上げる。


 気が付くと、というほどの間。柔らかいその口は亜梨鈴のそれに重なっていた。


 唇は温かくて、柔らかい。怖くも嫌でもなかった。相手は人間なんだと頭の隅で理解して呆然としていると、突然に激痛が襲いかかった。


 男が亜梨鈴の腹を殴ったのだとわかったのは、あとで意識がもどってからだった。

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