カサブランカ サーガ Nin

井荻のあたり

哀愁・霞斬り(斬らないけど)

 1998年、師走も半ばを過ぎたころ。

 スペインから地中海を渡り、モロッコの港町タンジェに入った時は、イスラム教断食月のラマダン真っ最中だったから、その後、列車でカサブランカに向かった時にも、まだラマダンは続いていた時期だったかもしれない。


 カサブランカを訪れたのには、べつにさしたる意味はなかった。映画のタイトルで見たことがあったから? 歌のタイトルで聞いたことがあったから? それかなんかハードボイルドな気がしたから? まぁ何か月も何年も旅をしていると、次の目的地を決める理由は(ぼくの場合は)せいぜいその程度なものだった。


 アフリカとはいえモロッコは大陸の北端で、緯度的には西日本と同じくらい。つまり北半球の真冬だから日は短い。カサブランカの小さな路地を抜け、車のまばらな大通りを歩いていると、孤独な長旅の哀愁が胸に迫る。空を見上げれば、太陽はだんだんと傾き始めているようだった。


 舗装された場違いなほど大きな車道が、どこまでも続く荒野の真ん中を地平の果てまで突っ切っている。その周囲は一面赤茶の地面で、まるで映画の火星のよう。視界のどこにも草木一本生えていない。しかしその車道のはるか先には、何か建物があるようにも見えた。これは、5キロ先か10キロ先か、行こうと思ったらそうとう遠い、とぼくは思った。


 このモロッコという国、こう人通りもなく、こう交通量も少ない荒野の一本道で、一人で夕暮れの中を歩くのは、いかにも「殺してください」の危機を招く。

 ぼくはもう一度太陽の位置を確認し、太陽が地平線までの半分に差し掛かる前には引き返そう、と考えながら歩き続けた。


 いつまでたっても見えていた建物はなかなか近づいてこなかったが、だんだんとその輪郭は分かってきた。カサブランカにはイスラム教、世界最大のモスクがあるのは知っていた。

 あれかなぁ。あれはたぶんモスクだと思う。それにかなり巨大なのは数キロ先からでもありありとわかる。でも他にもっとでかいのがあるかもしれないし、あれだろうか、あれが世界最大のモスクだろうか、そうではないのか。


 はっきりとモスクの輪郭が見えてきたころ、道路の右手に広がる荒野の果てに、ぽつぽつと点在して見えていた黒い点が、どうやら座っている人間のようだとわかってきた。なんだろうあれは。あんな荒野の果てに一人一人はそうとう離れて、だがほぼ一直線に並んで座っている。


 さらにモスクが近づいてきた。だが太陽は地平線に向かってかなり低くなっている。少しオレンジ色に色づき始めていたかもしれない。もう今日は引き返し時だろう(遅いくらいだ)。荒野の果てに座る人々に視線をやると、色づき始めた光線の中、一瞬、人の先に何か線が見えたような気がした。


 んん? なんだろうあれ? 確かめてみたくなった。どうでもいいのに知りたくなった。車道から外れてあんな荒野の先に行くのはまずい。危険だ。わかっていた。心臓の鼓動が「やめておけ」とドキドキした。

 好奇心が猫を殺す。


 ぼくは遠くで座っている人々が、一体なぜそこで何をしているのか確かめたくって道を外れた。数百メートル行ったところで、今までひたすら荒野が続いているように見えた先が、断崖絶壁の海なのだとわかった。

 あ、大西洋か。人間の先に見えた気がした線のようなものは釣り竿か。へー、モロッコでもこんな日がな一日、釣り糸垂らしてぼーっとしてたりする人いるのねー。ちょっと楽しくなった。


 釣り人たちまでは遠すぎるけど、せめて大西洋を見てから帰ろう。一番近そうな崖っぷちに行って海を見た。

 満足。帰ろう。

 車道に戻ろうと踵を返した途端、巨大な男が自分に向かって、地響きを立てながら突進してくるのが目に入った。

 ”しまったあ”


 く、既に、すぐ目のまえまで迫られている。油断した。

 男は一直線にぼくに向かって走ってくる。ぼくは男の走る軌道から外れるように移動してみた。が、男もしっかり軌道修正して向かってくる。ホーミングミサイルのレーダー照射、ロックオン! やつの真意は違うかもしれないという淡い希望はもう皆無だ。


 どうする。走るか。でもこんな奴から走って逃げるのはなんか悔しい、いやだ。

 などと迷っているうちに、くそっ、スタート切るにはもう遅い。

 あえてぼくは海を覗くよう、何にも警戒していないていを装い、無防備に崖っぷちに近づいた。


 男、突進してくる。こいつ、広い河原で獲物を見つけた時のヒグマみたいだ。

「食いもんだー。ヒャッホー!」

 と、うっきうき全開の心の叫びが体全体から爆発している。

 ドドドドドドドドドッ!

 やつは突進してきた勢いのまま、体ごとぼくに覆いかぶさる。まじ、クマ。こいつクマ。人間じゃねぇ。


 心は人間じゃねぇけど、でもやっぱヒト。しかも特別な訓練を受けているわけでもない、巨大なだけのボンクラだ。

 やつが体ごと覆いかぶさったと思った瞬間、ぼくはほぼ体を動かすこともなく、そしてわずかでも触れさせることもなく、やつと体の位置を入れ替えた。


 サンタナ喰いして体を丸めた中に獲物がいないことに、男は「え? え?」ときょろきょろする。男はようやく背後にぼくが立っていることに気づき、目を真ん丸に見開きながら、何か喚く。


 ん~、このまま崖から落としちゃおうかなぁ。下の岩場まで3メートルくらいかな。こいつ武蔵丸かと思っちゃったくらいの大男だからダメージもでかいだろうが、まぁ死にはしないんじゃないの? 知らんけど。

 ん~、でも、武蔵丸を寄り切るには、殺すかもしれないと思った迷いが、可能性の一瞬をきっと逃した。

 ま、いっか。許してやる。


 ぼくは背を向けて車道に向かって歩き出す。途端、再びやつは覆いかぶさろうと飛びかかってきた。うん、体の軸をずらしといたんだ~。まっすぐ飛びかかってきた男と、もう一度一瞬でポジションを入れ替える。

(「永遠のゼロ」で主人公がゼロ戦をまっすぐ飛んでいるように見せて、実はわずかに斜めにスライドさせているから、真後ろからまっすぐ撃ったつもりの相手の機銃がなぜか全然命中しない。のイメージ)


「ニンジャ? ニンジャ?」

 このアホウには瞬間移動に見えたのだろう。間抜けなセリフをほざきながら目をパチクリさせて驚いている。剣道の足さばきなどでも、十分に鍛錬を積んだ達人のそれは、素人目には瞬間移動に見えるものだ、と、「めだかボックス」だったかな? アニメで見た。


 しかし、体を入れ替えちゃったから、今度はぼくが崖側で、道路に向かう退路をこいつに塞がれてしまっていた。まずいなぁ。でも正反対ではなくかなり斜めに入れ替えたから、ぼくの背後にちょうど傾いてきた太陽、男の真後ろにはイスラム教のモスクがある。


 男は気をとりなおして「金を出せ、カネカネ」と喚き散らした。ん~でも、これはアラビア語なのかフランス語なのか? さっぱりわからん。

 さっぱりわからんぞ、と英語で答える。

 わからん、と首をかしげてみせると、男はさらに喚きながら人差し指と中指を揃えて親指でこすってみせた。ちなみに親指と人差し指で丸を作ってお金というのは日本くらいだ。コインのしぐさでお金なんて、日本人は謙虚だな。ガイジンは卑しいから札束を数えるしぐさでカネカネ、だ。


 「あのな、お前の後ろを見ろ」

 英語は通じないから、言いながら遠く男の背後にそびえるモスクを指さす。男は振り返りモスクを見る。

「あれはモスクだな?」

「モスクがどうした」

「お前の神様がそこにいるんじゃねぇのかよ」

「カネだ、カネカネ」

「アラーがあそこにいるんだろうがよ。おめぇ神様の目の前で強盗すんのか。神様の目の前だぞ。アラーが見てんぞ!」


 もちろん英語で言ったって通じちゃいないが、こういうことは勢いだ。ゴッドくらいわかるだろう。アラーはさすがに通じるだろう。

「いいからカネ!」

「アラーがそこにいんぞ」


 それにしても、こいつぼくがモスクを指さすたびに後ろを振り返りやがる。こちらに向き直るたび、ぼくの背中の太陽で多少なりとも目がくらむだろう。キンタマ蹴り上げてやるべきか。


 やつがまたモスクを振り返り、そしてぼくに顔を戻したときには、ぼくはやつの背後で車道に向けて歩き出していた。また瞬間移動に見えたかな?

「おい待て、カネだカネ」

 と息巻く割に、やつは積極的には追ってこない。

「うるせえ! 神様が見てんぞ。アラーが見てんぞ、バカヤロー」

 やつは追ってこなかった。


 ふー。やぁばかったよ。腹すかしたヒグマ相手によくしのいだもんだよ。

 あとなぁ! ニンジャなんていねぇんだよ、この馬鹿野郎!

 



 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カサブランカ サーガ Nin 井荻のあたり @hummingcat

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ