「……なにが、大丈夫なのよ……?」


 翠玉はギュッと手のひらを握りしめた。


「翠玉は、自分のことだけ考えて、幸せになって」


 凛玲のその台詞が、翠玉には「さよなら」に聞こえた。


「なにそれ……? なんでいきなりそんなこと言うの?」

「いきなりじゃないよ、本当はずっと考えてた……この案件は、禁域に足を踏み入れた、あたしのせい……翠玉のせいじゃない」

「なに言ってんの、しくじったのは私じゃない、凛玲がくれた役割をこなせなかった」


 互いに落ち度はあれど、相手ではなく自分だけを責める二人。

 翠玉は凛玲を、凛玲は翠玉を瞳に映し、束の間の沈黙が訪れる。

 翠玉は凛玲の姿に、過去を思い出していた。

 そして後宮に来てから、世話を焼きながら、いつも笑いかけてくれた凛玲のことを。


「私……嬉しかったのよ、凛玲が私に頼んでくれて……まさか、私まで後宮入りするなんて思ってなかったけど、凛玲とまた会えて、一緒に暮らしてるみたいな、こんな生活……子供の頃に戻ったみたいで、不謹慎だけど、楽しいなんて、思ったりして……」


 凛玲に突き放された気がした翠玉は、なんとか彼女を繋ぎ止めようと、自分の気持ちを懸命に伝える。

 凛玲はなにも言わず、静かに翠玉の言葉に耳を傾けていた。


「それなのに、突然なにもかも、一人で抱えようとしないで、私、いろいろ考えて、ずいぶん真相に近づいたのよ」


 自分だって一緒に戦っている。それを凛玲にわかってほしかった翠玉は、ついに忌々しいその名を口にしてしまう。


「……依頼人は……雲嵐じゃないかって」


 まだ確信は持てないが、最も可能性のある人物の名を、翠玉の艶やかな唇が型どった。

 その瞬間、凛玲の脳がビリッと痺れる。

 誰かに首を絞められたかのように、息が詰まって、地面に膝から崩れ落ちた。

 ハッとした翠玉は、すぐに凛玲に駆け寄る。

 凛玲は手で喉元と胸を押さえ、苦痛に顔を歪めていた。

 翠玉は後悔した。こうなることはわかっていたはずなのに、どうしても言わずにはいられなかったのだ。


「ごめんっ、ごめんなさい、凛玲、大丈夫よ、言わなくて大丈夫、私はなにも聞かない、だから凛玲は、なにも答えなくていい」


 これが凛玲の戒め。

 幼き頃から教え込まれた、自分自身を縛りつける鎖。

 凛玲――請負人は、依頼人の名前を口にしてはならない。

 故意に依頼人に繋がるような情報を流してもならない。

 もしその掟を破ろうとすれば、命に関わる。

 実際、それで死んだ人間を、二人は何度も見てきた。

 だから翠玉は凛玲を抱きしめて、絶えず背中を摩った。

 大丈夫、もうなにも聞かないからと、何度も言い聞かせながら。

 これ以上答えを求めるようなことをすれば、凛玲の命はなかっただろう。

 翠玉の必死な宥めにより、凛玲は徐々に息を吹き返す。

 霞みかけていた凛玲の視界が鮮明になってくると、泡茶色の砂が目に入る。

 凛玲は蹲りながら、その地面を見つめた。

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