「凛玲――!」


 翠玉が呼ぶと、背中を向けていた凛玲がピクッと反応した。

 しかし、彼女はそれ以上動かない。竹でできた物干し竿の前に立ち止まったままだ。

 翠玉は思わず凛玲に駆け寄ると、その手首を掴んで建物の後ろに連れ込んだ。

 人目を避けた場所で向かい合う二人だが、凛玲は俯いたままで翠玉を見ようとしない。

 翠玉はそんな凛玲の顔を覗き込むように話しかける。


「凛玲……どうしたの、急に、私の女官を辞めてしまうなんて」


 凛玲はしばらくぼんやりとしたような、空虚な顔をしていた。

 だが不意に、パッと顔を上げるとニコッと微笑んだ。


「特に理由はないですよ、ただ、翠風様は人気のある皇妃様なので、翠風様のお世話をしたい女官はたくさんいますから……代わってあげようと思っただけです」


 本音を隠す、不自然で固い表情に、二人きりなのに妙に丁寧な言葉遣い。

 明らかに今までの様子とは違う凛玲に、翠玉の胸がざわついた。


「そんなの、私になんの断りもなく?」

「……申し訳ありません、女官ごときが皇妃様の許可も取らず、勝手なことをして」


 恭しく頭を下げる凛玲に、翠玉は言いようのない寂しさを覚える。

 ずいぶん距離を感じさせる、凛玲の態度。まるで本当に、ただの皇妃と女官になったようだ。


「そんなこと言ってるんじゃないわ、わかってるでしょ、どうして、そんな……」


 綺麗な顔を苦しげに歪め、声を荒げる翠玉に、凛玲はそっと手を伸ばした。

 そして少し距離を詰めると、耳元でコソッと言う。


「大きな声を出さないで、誰が聞いてるかわからないよ」


 以前と同じ凛玲の口調に、翠玉はやや冷静さを取り戻す。

 翠玉と再び目が合った時には、凛玲は優しく微笑んでいた。

 先ほどの貼り付けたような笑顔ではない、だが、今にも消え入りそうに、儚い笑顔だった。


「翠玉……あたし、もう、大丈夫だから」


 ここに来てから、翠玉は一体何回、凛玲のこの言葉を聞いただろう。

 その度に本当に辛そうにするくせに、凛玲は一度も翠玉に助けてとは言わなかった。

 そんなことは、弱い者のすること。救いを乞うようにできていない、孤独な暗殺者たち。

 それでも、翠玉は凛玲にだけは、頼ってほしいと願っていたのに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る