夕さり街2

「この街にはね、いろんなものが眠ってるの」

 マリがふと、呟くように言った。


「でもアサギは、無理しなくていいよ。……ちゃんと、大丈夫だから」


 その声は優しくて、どこか子守歌のように心に染みてくる。

 けれどアサギの胸の奥には、説明のつかないざわつきが広がっていた。

 言葉にはできない感情が、ふわふわと浮かんでは消え、マリの言葉を完全には受け止めきれない自分がいる。


 それでも彼は、黙ってうなずき、マリと並んで駅の出口をくぐった。


 夜の街は、冷たく、けれど美しかった。

 ネオンがゆらゆらと瞬き、車のライトが通りを照らし、人々の声がどこからともなく流れてくる。

 夢の続きのような光景の中で、アサギの心に、何かを探さなければならないという気持ちが芽生えかけていた。


 けれどその一方で、自分はこの街に馴染めない――そんな感覚がじわりと胸に滲む。

 ここにいていいのか、何をしているのか。答えのない問いが、アサギの思考に絡みつく。


 そんなふうに、迷いと共に歩いているうちに、彼の足は知らぬ間に、この街の空気に少しずつ馴染んでいった。

 退廃と幻想がないまぜになった風景に、どこか心を引かれていく。


 そのとき、不意に背後から声がした。


「……ほう、こんなところに子どもがいるとは。妙なものだねぇ」


 静かだが妙に通る声だった。闇を縫うように届いてきて、アサギはびくりと振り返った。


 そこには、ホロスケと名乗る男が立っていた。

 背格好は平均的。ラフな服装に、整えすぎていない髪。どこにでもいそうな青年の風貌だったが、目だけが異様に鋭い。

 その双眸はまるでフクロウのように、夜の奥深くまで見通しているかのようだった。


 マリが一歩前へ出る。その小さな体が、不意に大きく見えた。


「……誰?」


 短く、鋭く。マリの声には、明確な警戒の色が込められていた。

 アサギの前に立ちはだかるようにして、ホロスケを睨む。


 ホロスケはそれに動じる様子もなく、にこりと微笑んだ。

 その笑みには温度がなかった。ただ形だけがそこに浮かんでいるようだった。


「名はホロスケ。ちょっとこの辺りでね、世話を焼いているんだよ」


 目だけが、ぎらりと光った。マリとアサギを交互に見やる視線は、まるで何かの正体を探っているようだった。


「で――君たち、どこから来たのかな? 親は? まさか迷子じゃないだろうねぇ?」


 言葉の切れ間なく、矢継ぎ早に問いが飛ぶ。


「夜中に子どもだけでってのは、ちょっと妙じゃないか? どうやって来た? 電車か? 誰かに連れて来られた?」


 アサギは、口を開こうとしたが、言葉が出てこなかった。

 その問いは、答えを求めるというより、相手の混乱を引き出すためのもののように思えた。


「あ……えっと……」


 ようやく声を絞り出しかけたその瞬間――マリがそっとアサギの肩に手を置いた。


「……そんなの、今はどうでもいいでしょ」


 静かな怒りを帯びた声だった。

 マリは、冷たい視線でホロスケを見据えていた。


 ホロスケは、ほんの一瞬だけ目を瞬かせた。意外だったのか、面白がっているのか、その表情は読み取りづらい。


「ほう……そうかい」


 やがて低く、笑うような声が返ってきた。

 その声には棘がなく、けれどどこか耳に残る奇妙な響きがあった。


 再び静寂が落ちる。


 アサギは、マリの手の温もりに身を委ねながら、少しずつ呼吸を整えていった。

 不安は完全には消えない。けれど、隣にマリがいるというその事実が、アサギにとっては何よりの救いだった。


 今はただ、その温もりに身を預けていたかった。

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