黄金色の稲穂18

 刈り取りの季節がやってきた。田んぼは黄金色に染まり、風がそよぐたびに稲穂が揺れ、まるで大地が静かに笑っているようだった。


「さぁて、いっちょ始めるか!」

「唄うぞー! 収穫の唄だべ!」


 カワズ殿たちは小さな体で稲の間を飛び回りながら、陽気に唄を歌いはじめる。


♪ 刈れや刈れや 稲刈れや

  カガチ様に褒められっぞ

  うまく刈れねば 丸呑みだ〜


 その歌に合わせて、アサギもくすっと笑いながら稲を手に取った。

 小さな手、大きな笑い声。水面に映る提灯の光がゆらゆらと揺れ、彼らの動きとともに夢のように広がっていく。


「アサギ殿、こっち手伝ってけろ!」

「んだんだ、はよせんとカガチ様に尻つつかれるど!」


 あちこちから飛んでくる声に囲まれて、アサギは「はいはい」と笑いながら答えた。

 そんな、何気ない光景──だった。


 その時、ふいに「カシャンッ」と鋭い金属音が鳴った。


「──あっ」


 一瞬の静寂。


 振り返ると、稲の間に倒れ込んだカワズ殿がいた。

 その傍に転がる鎌。動揺した誰かの手が滑ったのだ。

 泥の上にぽたぽたと赤いしずくが落ちている。

 その光景に、場の空気が凍りついた。


「カ、カワズ殿……!」

「だ、だいじょぶかっ!?」

「しっかりしろ! こら、誰か水持ってこーい!」


 先ほどまで歌っていた声は、悲鳴と混乱に変わる。

 あんなに元気に笑っていた仲間が、いまは苦しげに目を閉じている。

 アサギは動けなかった。頭の中がぐらぐらと揺れ、身体の芯が冷たくなっていくのを感じた。


 ──どうしよう。どうしたら……。


 気がつけば、アサギは走り出していた。

 夢中で田んぼを飛び出し、あぜ道を駆け抜ける。

 息が切れても、足がもつれても構わない。


 目指すのは、鎮守の森。

 あの人がいる、静かで、深くて、やさしい──でも、なぜか遠い場所。


 風が頬を打ち、桜の花びらが散ってゆく。

 それはまるで、どこかで見た幻のようにアサギの視界を淡く染めながら、彼を導いていた。


 森を駆け抜けるアサギの胸には、まだ熱く焦げつくような動揺が残っていた。

 あの賑やかな田んぼの空気が、ほんの一瞬で色を失い、血の赤と仲間の叫びで染まったことが信じられなかった。


 泥を跳ねあげながら、草をかきわけて進む足元は、もはやどこを踏んでいるのかもわからなかった。

 けれど、ただひとつ――テンさんなら、きっと助けてくれる。

 その祈りにも似た想いだけが、アサギを突き動かしていた。


 鎮守の森の入口を越えると、空気はすぐに変わった。

 外とはまるで別の時間が流れているように、鳥の声も遠く、風の音さえも深い湖の底のようにくぐもっている。

 けれどその静けさが、アサギにはなぜか懐かしく、どこか優しく感じられた。


 やがて、御神木の前へとたどり着く。


 その根元に、白い衣をまとった人影が、静かに立っていた。

 それはまるで、霧のなかに浮かびあがった幻のようで――けれど、確かにそこにいる。


「テンさん……!」


 アサギは息を切らしながら駆け寄った。

 その声に、テンはゆるやかに振り返る。

 淡い白衣の端が、風にそよいで揺れた。

 金でも銀でもない、どこか色を持たない色――この森の静けさと同じ色を、身にまとっていた。


 その表情は変わらず穏やかで、それが余計に胸に刺さった。


「お願い、カワズ殿が……鎌で、ひどく……血が止まらなくて……!」


 叫ぶように訴えるアサギに、テンはしばらく黙っていた。

 ただまっすぐに、その目でアサギを見つめていた。


 そして、低く静かな声で言った。


「……すまない。わたしには、あの世界の命を救うことはできないんだ」


 その言葉は、まるで霧のように淡く、けれど鋭く胸を貫いた。


「でも……あなたは医者でしょう? 前にそう言ってたじゃないか……」


 涙混じりに食い下がるアサギの声は、まるで森の奥に吸い込まれるように小さくなっていった。


 テンは、ふと目を伏せて、深く息を吐いた。


「この森は、境にある。こちらに属するわたしには、あちらへ手を伸ばすことができない。

 見届けることはできても、触れることは……」


 その声音は、諦めというにはあまりに優しく、かえって残酷だった。


「……そんなの、嫌だ……っ!」


 アサギの声が震えた。

 握りしめた拳に力が入る。


「お願いだよ……あんなに楽しそうに歌って、笑ってたのに……あの声が、急に……消えちゃったんだよ……!」


 テンは答えず、ただ一歩だけ、アサギに近づいた。

 そして、そっと右手を差し出した。

 白衣の袖から伸びる手は、どこか透けているようで、けれどその温もりだけは確かだった。


「アサギ……おまえの心が、あの人たちをどれだけ想っているか……それは、ちゃんと届いているよ」


 その言葉に、アサギは泣きながら首を振った。

 「届くだけじゃ……足りないよ……」

 そうつぶやいた声は、もう風にさえ乗らなかった。


 テンは、何も言わず、ただその手をアサギの肩に置いた。

 その重みは、とても静かで、とてもあたたかく――そして、どこか儚かった。

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