黄金色の稲穂19

 泥に足をとられながら田んぼに戻ったアサギの目に、ひときわ異質な光景が飛び込んできた。


 さっきまで田植えの歌が賑やかに響いていた場所。

 その中心に、倒れ伏す一人のカワズ殿。

 その傍らに、静かに佇むカガチ様――。


 誰よりも先に、彼が動いた。

 ゆるやかに体を曲げ、ためらいもなく、倒れていたカワズ殿をその口へと運ぶ。

 動きは滑らかで、驚くほど静かだった。

 まるでそれが、いつもの日常の一部かのように。


 「……やめて……!」


 アサギの声は、風にかき消された。

 喉の奥がひりつき、胸の中の何かが崩れ落ちた。


 周囲を見渡すと、他のカワズ殿たちは、まるで何事もなかったかのように、また苗を手に取り、田にしゃがみこんでいる。

 誰も何も言わない。

 誰も悲しまない。


 「いつものこったて、アサギ殿。気にすんな」


 その言葉が耳に入った瞬間、アサギの中で何かがはじけた。


 気にするな?

 さっきまで笑っていた仲間が、いなくなったのに?

 血を流して倒れていたのに、まるごと呑みこまれて、それでも――?


 手が震える。

 景色が遠ざかる。

 胸の奥で、ひとつの問いが大きく膨らむ。


 「これは、ほんとうに“いつも”なのか?」


 答えのないまま、アサギの体は動いていた。

 泥を蹴り、畦道を踏み外し、あてもなく、ただ無我夢中で走る。

 どこへ向かうのかもわからず、風の音に追われるように。


 足元はもう痛みを通り越して、感覚が薄れていた。

 冷たい風が顔にぶつかり、視界が滲む。

 喉の奥に詰まったままの叫びが、ずっと言葉にならない。


 さっきまでのぬくもりも、笑い声も、桜の記憶さえも、

 すべてが嘘だったかのように、背後に遠ざかっていった。


 どこまでも、どこまでも逃げたかった。

 この感情から、目の前の現実から、

 そして――自分自身の無力さから。

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