黄金色の稲穂14
アサギはゆっくりと歩きながら、春の空気のぬくもりを胸いっぱいに感じていた。
風に舞う花びらが、ひらひらと舞い降り、あぜ道に淡い桃色の影を落としていく。
遠くでは、カワズ殿たちの笑い声や笛の音がまだかすかに届いていたが、それらは少しずつ遠ざかり、やがて風と草の音だけが耳に残るようになった。
やがて、田んぼの真ん中にひっそりと佇む鎮守の森の入り口が、春霞の向こうにぼんやりと浮かび上がった。
森の縁に立ち並ぶ木々は、まるでこの世界とあちらの世界を分ける門のように静かにそびえ立ち、アサギが近づくにつれて、周囲の気配が少しずつ変わっていくのが感じられた。
木々の影がゆるやかに伸びるなか、奥へと続く細い小道が、静かにアサギの前に現れる。
誘われるように、彼はその道へと足を踏み入れた。
外から見たときよりも、森の中ははるかに深く、広く感じられた。
木々は天を覆うほどに枝を広げ、足元にはしっとりとした苔が広がっていた。踏みしめるたび、柔らかく沈み、森の静けさと一体になる。
それでも森の中は、なぜかほんのりと明るかった。
どこからともなく差し込む木漏れ日のような光が、柔らかく辺りを照らしている。
まるで、見えない太陽が森の奥にあるかのような、不思議な気配が満ちていた。
やがて、アサギの前に現れたのは、苔むした古い社だった。
時の流れを静かに受け止めながらも、どこか丁寧に整えられた気配をまとい、森の中心で息をひそめるように立っていた。
その社の前に、テンとキュウが並んで立っていた。
二人はアサギの姿に気づくと、まるでずっとそこにいたかのように穏やかな笑みを浮かべた。
胸の奥がかすかに高鳴るのを感じながら、アサギはゆっくりと近づいていく。
けれど、その静けさに包まれるほど、言葉が遠のいていく。
深く息を吸い、心を整えるように、アサギはそっと声をかけた。
「テンさん、キュウさん……」
二人は微笑みを崩さずに、静かにうなずく。
そのまなざしに、アサギの緊張は少しだけほどけた。
「お花見に誘おうと思って、来たんだ」
そのひとことに、テンはやわらかく微笑んだ。
舞い落ちる花びらのなか、その笑みはまるで春の陽だまりのようにあたたかく、どこか懐かしさを帯びていた。
「ありがとう、アサギ。でも……わたしたちは、ここから出ることができないの」
その声は、風に紛れる霧のように静かで、やさしかった。
テンは社の奥を見つめながら、そっと言葉を続けた。
「ここには、わたしたちが――ずっと待ち続けているものがあるのよ」
アサギは小さく首をかしげた。
「でも、それなら……花見くらい、一緒にできるんじゃないの?」
その問いに、キュウがそっと目を伏せながら、囁くように応えた。
「うん……でもね、カワズ殿たちとは、どうしても越えられないものがあるの。
わたしたちとあの人たちの間には……声にならない境があるのよ」
その言葉には、どこか遠い記憶から届いたような澄んだ響きがあった。
意味ははっきりとはわからない。けれどなぜか、アサギの胸の奥がふっと静まっていくのを感じた。
そしてその沈黙の奥に――
触れてはいけない、けれど、忘れてはならない何かがあるような気がしてならなかった。
風が吹き抜け、桜の花びらが一枚、アサギの肩に落ちる。
社の前には、時間までもが足音を潜めるような静けさが広がっていた。
しばらく黙っていたアサギは、やがてそっと微笑み、小さくうなずいた。
「……わかった。また今度、誘いに来るね」
その言葉に、テンとキュウはやさしく微笑み返す。何も言わずに、ただ、うなずいた。
アサギはそのまなざしを胸に刻みながら、ゆっくりと背を向けた。
春の風が、やわらかく背中を押してくれるようだった。
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