4―2

 カシム一家の介抱とヤギ乳によって正気を取り戻すと、シラは槍だけ抱えて森の中へ飛び込んだ。

「頂獣の声?」

「……はい」

「そんなことを聞くためだけに相棒も連れずにやってきたのか……」

 逸るシラに呆れつつ……先人二人は少女の尋常でない姿を見て身を乗り出した。

「ハクオウが人語で喋ったの?」

「いいえ、精神体の声です。お二人も番いの声を聞いてきたんでしょう?」

「いや……少なくともサーベルは虎の声で呼びかけてくるが……」

 二人の反応が悪いのを見るに、頂獣が人語で語りかけてくるの特異な事例のようだ。

 とはいえ引き下がるわけにはいかない。父の痕跡、いやと接触したのだ。シラに残された時間は最短で三日。試練を乗り越えたとしても半年。最も身近な証拠を逃すわけにはいかない。

「本当なんです! ハクオウの中からお父様の声が――」

 シラは堰を切ったように二人に向けて早朝の出来事を事細かに語り出した。

「シラさん落ち着いて!」

「落ち着いてなんかいられません! だってお父様がハクオウで――」

「……少なくとも同盟でそんな話は聞いたことがない。飛べたのは『おめでとう』だが……頂獣の声はハクオウ独特の対話法かもしれんし、槍と親父さんの話は事実だとしても信じがたいことだ」

「そんな……」

 シラにとって到達者同盟が持つ知識こそが父につながる最後の砦だった。

(これ以上ない進展なのに……)

 ようやく捉えた父の背中。しかしいくら進めど伸ばした手は影を打つばかり――シラの中でやり場のない感情が膨れ上がる。

「そんなに気になるならもう一度同じ現象を起こしてみたら?」

「……え?」

「シラさん、特訓はまだ終わっていないのよ」

「ウォン!」

 カーリアが指を鳴らすと同時に奥からグラウが現れた。

「まずは飛行能力を見せてくれるかしら」

「まずはって……」

 果たして今からハクオウは起きるのか。目覚めたとして、状態が万全であるかも怪しいところだが――

(……こうなったらとことんまでやるしかない)

 シラも見よう見まねで指を鳴らしてみた。

 オオォォ――

「⁉︎」

 表情はくたびれているものの、シラの背後から再び追い風が舞い降りた。

「第一条件、シラさんとハクオウが揃ったわね。それじゃあ、早速始めるわよ!」

 二人は番いの首元に潜り込み、鋼の巨体が大地を駆ける。

「――!」

 相変わらずグラウの四つ足は素早く、手加減することなく距離を詰めてきた。

「もらった!」

 灰色の牙が白銀の喉元を捉える――

「――っ‼︎」

 その瞬間――

「オォ!」

 翼の一振りでハクオウは羽ばたき、灰色の猛追を上へと躱わした。

「「だああああ!!!」」

 番いは両足の爪を広げると獲物に向けて降下する。

「「――――――ッ!!!」」

 白銀の刃は、四つ足の喉と腹部に深く食い込み、逃すまいと締め上げた。

「キュ……キュウ……」

「よし! そこまで!」

 第一の試練はシラとハクオウの勝利に終わった。

「たった一日で見違えるようだな……」

 白銀の巨体が最小限の動作で仲間を下した事実に、ジョンは改めてシラとハクオウが持つ潜在能力に感心し、少女の話が全くの作り話ではないと納得する。

「はぁ……はぁ……」

(私たちって……こんなにっけ)

 シラもまた決着の短さに驚き戸惑っていた。

 白銀の温もりの中、シラは自身とハクオウの間を隔てていた壁がひとつ抜けたように感じていた。これまで神通力を使うために「深く、深く」と伸ばしていた領域が、今や跨るだけで自由に手繰り寄せることができていたのだ。

「……」

「……シラさん?」

「……?」

 自分たちは試練を乗り越えるだけの力を得た……その実感があるにも関わらずシラの心に立ち込めるのは「何かとんでもない事をしているのではないか」という不安の渦だった。

「よし、次の稽古に入るぞ」

「え、もうやるんですか⁉︎」

「当たり前だ。帝国が攻めて来るまで三日しかないんだ」

「ガルルル‼︎」

 ジョンの背後にはいつの間にかサーベルが立ち、白磁の刃に稲光を滾らせ臨戦状態に入っていた。

「格闘、能力、お前たちの全部でぶつかって来い。俺とサーベルを倒せたら村の放棄を考え直してもいい――」

 ジョンは相棒の背に跨るとそのままハクオウに向けて迫る。

「――っ⁉︎」

 放つ気迫はシラ達を怯ませ、白銀の側面に強かな一撃を打ち当てられた。

「オォ……」

「どうした! 敵はお前達が万全だろうとなかろうとお構いなしで仕掛けて来るんだ! 村の守護神がそんなザマでいいのか!」

「うぅ……」

 単純な速度で言えば軍配はグラウに上がる。風の流れを読まずとも番の視界はサーベルの動きを捉えることができていた――

「ガルル!」

「オォ……」

 しかし、見えているにも関わらず番いは白磁の稲妻になぶられるまま、受け身すら満足に取れずにいる。

(これが……戦闘員の実力……)

「ガルルルッ!」

 猛禽の視野に対抗するべく、サーベルは纏う稲妻で光の残像を生み、シラたちの視界を惑わせてゆく。ならばとシラも風の流れから動きの予測を始めるも……白磁が纏う稲妻は細かな爆発を繰り返し、戦場に流れる風を絶えず乱している。神通力の相性は不利であった――

「うっ……」

 加えて、ジョンはシラに対し実戦同様に急所に向けた重い一撃をぶつけてくるのだ。

「お前が村を守りたいという覚悟はそんなものなのか!」

 逆立つ体毛によって鏡面のように滑らかになった白磁の毛皮は、シラたちが滲ませる焦りの鏡像を嘲るように浮かび上がらせる。

「敵は一対いっついだけとは限らないんだぞ! 俺たちにいいようにやられているようでどうするんだ!」

「されるがままじゃなくて少しは反撃してみたらどうなんだ!」

(そう言われたって……)

 絶え間なく襲う雷撃と痛み――心身をハクオウと一体化させ、常人を超えた力を得ても尚立ちはだかる理不尽にシラの精神は限界を迎え始めていた。

「……なんで――」

 自分は一体、どこで何を間違えたのだろう。

 限られた子供である時間、その有終の美を飾るために始めた自身の起源を辿る道のりは、いつの間にか森を越え、果てしない外の世界にまで繋がってしまった。

 祖父が望むように、村の中で村娘らしく過ごしていれば未知の脅威に振り回されずに約束された未来に進めたのだろうか……――

(……違う――)

 いや、たとえ子供らしく過ごしていたとして、来訪者二人の言葉通りであればいずれ火種は向こうからやってくる。その意味で、シラもニバ村もひとつの岐路に立たされているのは間違いないのだろう――

(だからって……――)

「……オォォ――」

「⁉︎――」

 シラたちに漂う僅かな変化を感じ取ると、ジョンたち番いは一転して距離を取り、相手の様子を慎重に探り始めた。

(さあ……どう出る?)

「ガルルル……」

「オオォォ……」

「違う……――」

「あ?――」

 ――聞こえないぞ! ジョンはシラを煽るべく声を荒げようとしたのだが……――

(声が……出ない……)

「オォォォォ――」

 ハクオウの声が深く、森中に深々と響いてゆく。

「一体……何が……」

 外野のカーリアもハクオウのただならぬ様子に気付き――

(……痛っ――)

 ――同時に靄がかかるような鈍い頭痛と張り付くような喉の痛みに悶え始める。

(こいつら……まさか……⁉︎)

 霞み始める視界の中、ジョンは最悪の可能性を思い浮かべてシラたちを睨む。

「オオォォォォ……」

 シラはハクオウとサーベルの相性差、その原因が大気そのものであると結論づけた。とりわけ酸素は摩擦や静電気によって容易に発火し、サーベル自身が生み出す稲妻を何倍にも強化してしまう。

「……」

 全ては逆転の一手を打つため。どれだけなぶられても――走馬灯に呑まれようとも――ひたすらに耐え、嘴から静かに大気を奪い続けてきた。

「!――」

 機は熟した!――ハクオウは肺いっぱいに溜め込んだを活力に変えると、敵に向けて大きく羽ばたく。

「オオオォォ!!!」

「ガルッ――……」

 サーベルはハクオウの攻勢に機敏に反応し、構えを作り始めた。さすがは頂獣、極限状況におかれようとも生態系の頂点を名乗るに相応しい生命力を見せつける――

「くっ……」

 しかしながら、鞍上の番いにとってこの状況は死地そのものであった。動きを最小限にしたとしても、人間であるジョンは呼吸を止めるわけにはいかない。頂獣の中で精神が保護されているとはいえ、肉体が酸欠を起こせば繋がりは断ち切れ……最悪の場合――

「……サーベルッ!」

「ガルルルッ!!!」

 弱々しい稲妻を纏いつつ白磁の獣はハクオウに向けてまっすぐに駆け出した。

「オォッ!」

「ガルッ!」

 互いに怯むことなく、勢いに乗せて嘴と牙が煌めき出す。

「オオォ!」

 ハクオウが一矢報いようと首を伸ばしたその時――

「――ガルッ」

 打ち合う直前にサーベルは閃光とともに急加速――両雄はいつの間にかすれ違ってしまった。

「オォ⁉」

「ガルルル……」

(悪く思うなよ……)

 ジョンは酸欠に全身を震わせながらも、事の運びに胸を撫で下ろした。

 白磁の番いの狙いは白銀との正面衝突ではなく、真空領域からの脱出にあった。

 頂獣の心肺も森中全ての大気を取り込めるはずはない。奪える範囲には必ず限界があるはずである。

「ん……んぐっ……」

 不利な状況で足掻き、あまつさえ差し違えようとするなど愚の骨頂。追い込まれたなら一転、逃げることも戦略の一つ。

(もう遊びは挟むまい……)

 状況を立て直し、思考が明瞭になったところで反撃に出る。ひとたび頭が回り出せば……対頂獣の経験は豊富にある。少女が圧倒的な成長速度で戦士のそれに迫っているのなら、こちらは培った経験でねじ伏せるまで――

「ぐっ……」

 四つ足の歩みはとうとう真空領域を越え、縺れていた足が俄かに精彩を取り戻してゆく。

「はぁ――」

 待ち焦がれた大気を感じると番いは大口を開き、肺の中へと満たしていく。あれほど苦しめられた手足の痺れも、思考の靄も晴れてゆき、森の生気を取り込んだ喜びに四肢は喜び伸びていった。

(風は俺たちに吹いたみたいだな)

 あとは攻勢を仕掛けるのみ。サーベルは再び稲妻を滾らせると後ろ足を軸に後方へと体を捻り始めた――

 ヒュイッ――

「⁉︎――」

 ところが――軸足は唐突に崩壊し、頽れる。

「サーベル!」

 ジョンは訓練の果てに、番いの一挙手一投足全ての動作を制御するに至っていた。サーベルの反転は転倒を起こすほど難度の高い動きではなく、普段の番であればすでに、敵の喉元にまで辿り着けているはずであった。

(一体何が――)

 相棒のらしくない動きに心が騒ぎ、ジョンは原因を探るべく頭を上げた。

「……‼――」

 驚くべき事に、サーベルの右後ろ足の腱はパックリと裂け、戦闘に耐えられる状態では無かったのだ。

「ゴ……ゴォ……」

「サーベル‼」

 一瞬のうちに生体金属を切り裂いたナニカに怯え、サーベルは弱々しく痙攣を始める。ジョンも相棒が初めて見せる弱気な姿に戸惑いを隠せない。

 ヒュイッ――

(……風?)

 口笛のような音が風に乗せられジョンの耳に響いてゆく。

「ゴッ――」

 同時にサーベルの腹部に鋭い痛みが走る――

「……まさか!」

「オオォォ……」

 振り仰いだ番いの目に飛び込んだのは、こちらに向いたハクオウの姿であった。

「オォ……」

「……」

 白銀の番いは電光石火で逃げられた後も執念深く反転し、瞬き一つせずに動きを捉え続けていたのである。

「ヒュイッ――」

 ハクオウの嘴から軽快な音色とともに風が吹く。

「――ッ⁉︎」

 風はサーベルの右前足の腱に着弾し、後には白く鮮やかな切断面が露出する。

(かまいたちか!)

 遠距離におけるハクオウの攻撃法は風をぶつける事にあるものの……下手に嵐を起こせば奪っていたはずの酸素を与えてしまう事になる。離脱したサーベルを出し抜くにはいたずらに力を使ってはいけない――

「ヒュイッ――ヒュイッ――ヒュイッ――」

 ――そこで番いは奪った大気をハクオウの体内で圧縮し、高密度の風の弾丸として射出する事を思いついた。

「ガルッ……ゴォ……ッ‼︎」

 果たして番いの狙い通りに、風の弾丸は白磁の雷のこめかみ、首筋、腹部といった急所を次々に打ち抜き、相性差を覆す事に成功した。

「ゴッ――……」

「サーベル!」

 静電気を纏い膨張する体毛、そこから生まれる白磁めいた滑らかな曲線はサーベルの一番の特徴であった。ところが向かい風は「空気が欲しければいくらでもくれてやる」とばかりに降り吹きつけ、自慢の体毛を見るも無惨に切り裂いてゆく。

「やめろ! 頼む! もうやめてくれ!」

 サーベルの心身はもはや戦闘に耐えられない。ジョンは相棒を守るべくなりふり構わず哀願を始めた――

 ヒュイッ――

「⁉︎――」

 ジョンの頬を一筋の風が撫で……血が一滴、こぼれ落ちる。

(……命乞い?)

(……あれだけ私たちを煽っておきながら……今更?)

「……オォォ――」

 ハクオウは一歩一歩ジョンたちに詰め寄ると、耳障りな声を奪うべく再び真空領域を広げ始める。

「オォ!――」

 萎びた獣を前に白銀の覇者は「今度こそ逃がさん」とばかりに嘴、鉤爪、両翼を絶え間なく浴びせ出した。その激しさたるや鳥葬のごとく、贄は悲鳴一つあげることすらできない。

「シラさんやめて! これ以上はジョンが死んじゃう!」

 カーリアも相棒とともに張り裂けんばかりの声で慈悲を訴えた。しかし……声は真空の壁に阻まれ届くことはない。

(あれだけ私たちに先輩風を吹かせておきながらこの程度?)

(持っている知識だって……何が対話よ! その程度なら私だって……時間をかければたどり着ける!)

 いや……たとえ彼女たちの声が届いていたとして今のシラが聞き分けることはないだろう。

「オオオォォ!!!」

 今番いを支配しているのは怒りの大嵐!――シラとて生活の中で悪意をぶつけられた経験が皆無というわけではない。しかしながらシラが持つ血統の唯一性ゆえに、信心深い村人たちは手を荒げるような真似を躊躇わせる。また人々の性格自体が勤勉で温厚なこともあり、村内では暴力沙汰自体稀であった。

「オオオォォ!!!」

 ジョンとサーベルが仕掛けてきた数々の攻撃はシラにとって生まれて初めて遭遇した「理不尽な暴力」であった。

 未知の力に振り回されて滅入っていたところに、万全でない状態のハクオウで戦えと言われ、畳み掛けるように加減の無い攻撃と罵声を浴びせられる――限界を迎えたシラは生まれて初めて怒りの衝動に身を任せていたのだ。

「オオオォォ!!!」

「こんなものなの!」

 幸か不幸かシラにはハクオウという感情を力に変換できる相棒がいる。飛行の思わぬ産物、互いを隔てる壁が一つ取り払われたことでハクオウは見事、シラの中の怒りを汲み取り、嵐に変えて敵にぶつけ続けた。

「オオオォォ!!!」

「……」

「……」

 かろうじて一命を繋いでいるものの……白虎の姿は見るも無惨な鉄塊に成り果てていた。その牙が鋭い雷を纏うことはなく、体毛も襤褸雑巾のように乱れ、指すら一本も動かせない。

(これで……)

 終わりだ――ハクオウの三叉は鋭く輝き、ジョンがまたがるサーベルの首元に向けて振り上げられた。

 シラ‼︎――

「「⁉︎――」」

 あと一歩というところで、番いは再び父の制止耳にした。

 ……そして――

 キイイィィィ――――――

「「うっっ……ぐっ……」」

 白銀を震わせる不快な反響音――反発を始める背中の槍と、側頭部に広がる万力めいた痛み――これも狙い通りというべきか、ここぞという場面で負の共鳴現象は再現された。

(どうして邪魔をするの……)

 どれだけ怒りを燃やそうとも頭部の戒めが解かれることはない。それどころか力を使えば使うほど反発と痛みは強まってゆく。

「「――」」

 流石のハクオウも二度目の反発には耐えられず、番いは精神のつながりがほどけるとそのまま大地へ倒れ込んだ。

「な……」

(何なのよ……これ……)

 目の前で頽れる少女は本当に覚醒したばかりの到達者なのだろうか。

 シラがジョンにもたらした傷はレイギウス帝国の精鋭の水準……いやそれ以上かもしれない。少なくともカーリアはジョンがここまで追い詰められた様子を一度も見たことが無かった。

(頂獣ガルダ……いや、ここではやはりシロガネさまと呼ぶべきね……)

 真空領域は完全に解かれ、森に生気が蘇る。

「……」

 肺を満たす中、カーリアはある可能性を思い浮かべた。

(シラさんがいれば……)

 頂獣の森の奥深くの人里で見つけたシロガネさまの力。未知の領域は多いものの……力はそれだけで人を魅了してやまない。

(使いこなせれば村どころか町はもちろん――)

「帝国との戦いだって終わらせられるかもしれない――」

 これが大巫女の秘技によるものなのか――

「……」

 巫女が次に目覚めた時、風が導く先に答えはあるのだろうか――

「おとう……さま……」

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