2―3

「シラ様! 朝ごはんですだ!」

 カシムの呼び声が牧場にこだまする。主の声に一番に反応したのはヤギたちで、彼らは朝餉をねだる大合唱を始めた。

「今行きます!」

 遅れてシラが声を張る。少女は牧場を真っ直ぐに突っ切ってはカシム一家の家屋へと入っていった。

「昨日はよく眠れましたか?」

「ええ。牧場の芝は極上の寝心地でした」

「シラ様たくましい」

「シラ様、お席はこちらですよ」

「今日は俺とお袋の自信作なんですよ」

 一家は総出でシラを迎え入れ、朝から大きな賑わいを見せている。

「シラ様は今朝もお祈りで?」

「ええ、毎朝のお勤めですから」

「朝からお疲れ様です。シチュー多めに盛りますね」

「私、おばさまとヴェルさんの料理ならいくらでも食べられますよ」

「そう言ってもらえると料理のしがいがありますねー」

 温かなもてなしを受けながらシラは席へと着く。カシムも食事の時ばかりは肩の力を抜いて団欒の雰囲気に身を任せている。初夏といえど、高地の朝は未だ肌寒い。テーブルの上で家族と囲む温かな朝食はニバ村の定番な贅沢の一つだ。

「そんじゃみんな、手を合わせて……いただきます」

 家長の号令に続いて「いただきます」の声が響く。そのあとは皆思い思いにヤギ乳とヤギ肉、ジャガイモといった村の恵をふんだんに使ったシチューに舌鼓を打ち、歓談を始める。

「父さん、毛皮の収穫は大丈夫そうです?」

「次の羽休めまでには間に合うべ。オラはそれよりもチビたちが心配だな。今年のは体が弱そうだ」

「母さん、隠し味に入れてみた木の実なんだけど、どう?」

「うーん……美味しいけど、お乳に負けているかも」

 農家の仕事は基本的に一家総出。カシム一家も例に漏れず、会話の多くは商売道具であるヤギに関わるものが多い。大人たちは料理を楽しみながらも手際よくスプーンを進め、午前の仕事に向けて意識を組み立て始める。

「ねえねえシラ様、また勉強見てもらっていい? 文字もね、だいぶ書けるようになったんだ」

「もちろん。アムちゃんは覚えるのが早いから教えがいがあるわ。私の一番の生徒ね」

(……ふふ)

 一家に包まれる中、シラは自然と笑顔になる。

 生後間もなく両親を失ったシラを、カシム一家は無私の心で迎え入れた。これが彼女にとってどれだけ心の救いになったことか。

 大巫女の血を継いでいるとはいえ、シラの立場は常に微妙なものだ。大巫女の権威欲しさに彼女を己の陣営に迎え入れたところで、後見人たるアルバが許さない。一方で、シラを無下に扱い……うっかり死なせでもすれば、それは村の根幹を破壊することを示す。

「子供は村の宝ですだ」

「……」

 アルバはカシムの素朴な価値観に賭けることにした。

 カシムのことを表現するなら良くも悪くも「仕事人間」が当てはまる。山羊飼いにとって優先すべきはヤギであり、彼は時に政治はもちろん、家族でさえも後回しにする悪癖がある。

「さーてシラ様。お食事が終わったところで大変申し訳ねえんですけど」

「もちろん。お世話になっている分きっちりお役に立ってみせます!」

 溌剌としたシラの言葉に満足するとカシムは三つの器を彼女に差し出した。

 器の中にはそれぞれヤギの乳が注がれており、濃厚な匂いがシラの鼻腔をくすぐりだす。

(これこれ。これがたまらない!)

 母のいないシラにとって、ヤギの乳は生まれて初めて口にした命の源。カシムのヤギたちが出すヤギ乳はとりわけ品質が良く、シラは滅多に使わない巫女の特権を利用してまで毎日の食事に用意させるほどであった。

「これはスーちゃん。相変わらず甘いですね。こっちはエクちゃん。少し薄いかも。こっちは……知らない味ですね。でも濃くてチーズに合うかも――」

 父の右腕としてクーが記録をとりつつ、カシムはシラの前へ次々とヤギ乳を持ってきた。三人の表情は真剣そのもので、時折カシムが乳を出したヤギの詳細を述べたり、シラも乳の味からヤギの特性を指摘したりと、食卓はあっという間に品評会へと様変わりする。

「シラ様……お乳の味……本当に全部分かるの?」

「もちろん! 生まれてから今まで飲んできたヤギ乳の味は全部覚えているわ」

 三人の様子をやや引いて見ているアムに、シラは得意げに答えた。

 シラとカシム一家の繋がりは、シラが持つ記憶能力と、それを利用した「利き乳」が一役買っている。

 これはシラが五歳のある日の事――

「カシムさん、お乳の味がちがう」

 その何気ない一言がきっかけとなった。

「……シラ様、今一体なんて?」

 当時のカシムはシラに対し自分が飼育している中でも最高のヤギ乳を提供していた。ところがその日は当該のヤギが乳房炎を起こしてしまったので、やむなく二番手のヤギ乳を献上したのである。

 そんな事情を露知らず、幼いシラは味の差異を拙いながらも紡ぎ出し――

「シラ様は天才だ!」

 シラの才能を一番に見出したのはカシムだった。カシムも山羊飼いとして利き乳にはそれなりの自負があったものの、シラのそれは比べものにならないほど優れていることを直感した。

 それからシラとカシムの共同開発が始まった。交配、飼料、育成環境など、細かな違いによって変わるヤギ乳の味の差異をシラはカシムに伝え、試行錯誤を繰り返す……気鋭の若手は思わぬ手助けにより実績を積み上げてゆき、今では農業階級の頂点にまで到達したのだった。

「お父さんばっかりずるい! 私もシラ様と勉強したい!」

「ごめんねアムちゃん。でもこれは私がカシムさんにできる唯一の恩返しみたいなものだから」

「何をおっしゃるんですかシラ様。私はシラ様と食卓を囲めるだけで嬉しいですよ。ウチは男世帯でこの人の頭の中なんてヤギ、ヤギ、ヤギ。食事の片付けもせずに飛び出すんですから。シラ様は巫女様なのに洗い物も手伝ってくれて本当に助かりますよ」

「んだども、オラが働かないとヤギたちが可哀想だ」

 ことあるごとにヤギ中心に語り出すカシム。それぞれ反応する妻と子供たち。そして家族同然に輪の中へ迎えられているシラ。

 政治とは無縁であるはずのカシム一家の中に入り込むことは、何か不和をもたらすのではないかとシラは物心ついた時から不安だった。

 そんなシラの不安とは裏腹に、カシム一家は今なお彼女を守るべき子供としてごく自然に接している。

(これさえあれば……大丈夫)

 シラが成人するまで残り半年。何事もなく時が過ぎれば彼女は正式に大巫女の地位を継ぐ事となる。

 村とアルバのことを考えるなら、シラとて大巫女を継ぐことは望むところであった。村の頂点に立つことで政治の捩れは解消し、年老いた祖父をようやく休ませることができる。大巫女を頂点とする本来の姿を取り戻すことこそがニバ村の総意であるとシラは自覚している――

「しっかしなぁ、シラ様も災難で――」

 カシムはおもむろに窓の方へと視線を向けた。

「……」

 カシムの邸宅は牧場と接合している。常にヤギの様子を見ていたいというカシムの要望により開かれた景色には有角の白毛がいっぱいに広がっている。好奇心が旺盛な彼らは草原を駆け回ったり、飛び跳ねたりと活発に動いている。

「メー。メー」

「ベエェ〜」

「オォ――」

 その中に、不自然に巨大な有角の白銀の姿が一つ、太陽の下で燦然と輝いている。

「オォ――」

 山羊飼いの目がヤギたちに向けられるように、白銀の瞳が窓を通して巫女へと向けられる。

 ――そう、牧場のど真ん中にはハクオウが屹立していたのだ。

 ハクオウはシラの側を離れず、常に一定の範囲内に収まろうとする。

 カミから逃れようと駆け出しても巨大な歩幅をもって追いつかれ……向こうを向いている間に姿を隠しても潜伏先へぴたりと止まる。

 シラが私室で過ごす時ももちろん、ハクオウは同じようにその巨体を社殿の敷地に捩じ込もうとするのだが――

「う、うわああああ!!!ーー」

 普段は無表情で働く神官達が、白銀の巨体を視界に入るたびに腰を抜かし、勤めを果たせないとなれば話は変わる。ハクオウが破壊行動を取ったのは後にも先にもあの夜だけ。それ以降は家畜の如く穏やかであることは周知の事実である――とはいえ一度刻まれた恐怖はなかなか抜けるものでは無いらしい。

「ここには儂がおる。それで十分じゃろ」

 アルバはそう言うとシラをカシムに預け、今に至るのだった――

「しかし不思議なものですね」

 クーはメガネの調整しながら牧場の様子を見つめ始める。

「僕はてっきり頂獣は肉食とばかり思っていたんですよ。ほら、シロガネさまって鷹の似姿をされておられるでしょう。だから牧場に入れるのには抵抗があったんですけど……」

「メー。メー」

「ベエェ〜」

 白い毛玉が草原の上を駆け回り、飛び跳ねる……そして――

「メェェェ!」

 カツン! と軽い衝突音が響く。

「メ〜〜!」

「ベエェェ!」

 居座るハクオウを障害物か、それともおもちゃとでも思っているのだろうか。駆けるヤギたちはハクオウに差し掛かると必ず輝き目掛けて頭突きをしていたのだった。

「目の前にエサがウヨウヨいて、しかも煽られているんだったら普通食うよな」

 ヴェルはいつの間にか兄の記録帳と鉛筆を拝借し、ハクオウの姿を描いていた。

「〜〜♪」

 どれだけじゃれつかようとも、ハクオウはヤギなど気にも留めない。ヴェルの手は「動かぬうちに」と筆を走らせ、紙面にカミを描き出した。

「頂獣はんです」

 シラはハクオウを見つめながら、頂獣の生態について紐解きだした。

 頂獣が生身の生き物を襲わないのは彼らが持つ最大の特徴、鋼の肉体が関係しているとされている。生身の生き物が他の生き物の肉を取り込むのと同じく、頂獣も他の頂獣の鋼鉄を喰らうというのが一つの説だ。

 森の頂獣がニバ村に近寄らない理由を、頂点捕食者であるシロガネさまが睨みを効かせているためであると仮定するならば先の説の裏付けになるだろう。生き物は本能的に天敵には近づかない。

 その一方で、眼前のハクオウはもちろん、ニバ村創設今に至るまで、羽休めに訪れて来た他のカミ達も何かを口にすることはなかった。

 シロガネさまの滞在期間はおよそ二週間ほどである。その間カミは境界各所に設置された安息所でひたすら休まれるわけなのだが、シラはもちろん、歴代の神官たちもカミが何かを口に入れた様子を記録していない。

 不調であるのだから、食を断つ事も一つの療養と言えるだろう。とはいえ最低でも二メートルを超える生き物が長期間何も口にせずに肉体を維持できるのだろうか。この疑問から、頂獣の食事についてはもう一つ「そもそも何も食べない」という説もあり、シラも巫女としての実体験からこちらの説を支持していた。

「ま、オラからすればヤギたちを襲わないってだけでありがてえ」

 そう言うとカシムは食器を残したまま牧場へと向かい始めた。

「ちょっとアンタ、シラ様の前で恥ずかしい!」

「そろそろ、の皆さんが帰ってくる。こっちも準備で忙しくなるだ」

 アシャの言葉に構わずに山羊飼いは牧場へと姿を消した。それに便乗するように長男、次男も居間を離れる。

「うちの男たちはもう!」

「男の人ってごちゃごちゃしているの平気なの?」

「うーん……どうだろ」

 シラとアムは、手分けして食器を集め始める。

「お勤めってお片付けよりも大事なの?」

「うーん……」

 シラは食器を抱えながら、妹分に向けて講義を続ける。

「ニバ村の大地は私たちが暮らしてゆくのに十分な恵みをもたらしてくれるんだけど……冬だけはダメなのよ――」

 理想郷唯一の欠点は冬場の豪雪だ。冬の訪れとともに山から吹き下ろされる寒気はあっという間に村を覆い、畑作はもちろん畜産にも大幅な制限をかけてしまう。

 開墾初期こそ祖先達は冬場の窮乏を耐える事で凌いできたが、世代を重ね、村の規模が拡大する中で、内に篭り続けることに対する限界を覚え始める。

「頂獣の脅威はハク様が引き受けてくださった。であれば、人間の問題は我々で解決しなければならない」

 冬を豊かに過ごすためには、足元が渇いているうちに蓄えを集めなくてはいけない。それを村内で賄えないのであれば、外部に求める他ない。

 そこで立ち上がったのが商業階級の前身となる人々だった。彼らは外界の脅威を阻むと同時に、障害にもなっている森を突破するために、羽休みを利用する事を思いついた――

「シロガネさまは森の頂獣にとって最大の天敵。そんな神々が村に一斉に集まったらどうなると思う?」

「怖いから逃げる!」

「正解――」

 療養中とはいえ、二十柱前後のカミが一箇所に固まれば、並の頂獣では太刀打ちできない。ハクが残したカミとの絆は意外にも、森の生態系にまで影響を及ぼしていた。羽休めの時期の間は潮の満ち引きのように森の頂獣の生息数は減少する。商人達は比較的安全になった森の中を行き来する事で外界へと「お勤め」、交易や出稼ぎ労働に出ているのだった。

「村の中も外もカミの力で知らず知らずのうちに繋がっているの。カシムさんが張り切るのもお勤めの皆さんにとっておきの交渉材料を渡したい一心からだと思うなぁ」

 カミの威光があるからと言って、森が全くの安全かといえば違う事をシラはハクオウから学んだ。年四回の羽休めの度に、決死の覚悟で村を行き来する商人たちの心情をシラは我がごとのように思い、胸中で感謝の祝詞を唱える。

「でもお片付けはしてもいいんじゃない?」

 アシャの教育が行き届いているのか、四歳年下の妹分はいつの間にか片付けを終え、食卓を拭き清めている。

「まずは内側から、なんでしょ?」

 次はシラ様の番です――妹分は一仕事終えた満足げな顔を浮かべつつ、シラを洗い場へと促した。

「……あ、あはは」

 初めこそシラの後を追うように片付けをしていたアシャも、今では手際よく、母親と変わらぬ動きを見せる様子にシラは舌を巻いていた。

(私にも母様がいたら……)

「シラ様お皿! 早くしないとお母さんが待ちくたびれます!」

「はーい。今すぐ行きますよ」

「もう……シラ様もお父さんたちみたいなんだから」

 アシャの容赦ない批評を背に受け、流石のシラも足早に洗い場へと歩み始める。

「……」

(……上手くやれただろうか)

 歩みつつ、シラの心を占めているのは相変わらず頂獣の、ハクオウの事。

「オォ――」

 ハクオウの視線は相変わらずシラに向け、窓という窓から注がれる。

 シラはカシム一家に解説する中で一つ、重要な事柄を伏せていた。

(頂獣は人間を視界に収めると襲いかかる習性を持つ)

 ニバ村では人々がシロガネさまに守られることが当たり前になってしまっている故に、シラ自身、物を食わぬはずの頂獣が持つ矛盾した性質を忘れかけていたのだが……――

「オォ――」

 シラはハクオウに連れ去られた時の寒さと乾きを鮮明に思い出せる。獲物を恣にしようとする白銀の嵐。それはカミも頂獣であることを再認識するのに十分すぎるほどの衝撃だった――

(でも……なんで今更……)

 ハクとシロガネさまとの間に結ばれた絆は少なくともシタの代まで何事もなく続いてきた。

(だとすれば……やっぱり!)

 シラの左手に力が入る。

 カミが野生を見せた原因があるとすれば、それはやはりシラが母から大巫女の秘技を受け継いでいない事と――

「お父様……」

 村を襲ったはぐれ頂獣、そしてそれに立ちむかう白銀の輝きを纏った父の姿。

 繰り返し夢見るが答えを示しているなら、飛び込むしかない。

(……今度こそ!)

 抱えた食器を鳴らしつつ、シラは力強く歩みを進める。

 オォ――

 風はまだシラの背を押している。

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