1―2

「――――――‼︎」

 真っ先に感じたのは猛烈な寒さだった。全身を容赦なく襲う風は、シラの全身を隈なく震わせる。

「かはっ――」

 初夏にも関わらず自身を襲うこの異変を確かめるべく、シラは瞳を見開いたのだが――

「痛っ――」

 瞼を開こうものなら塵が刺さり、寒気が眼球の水分を搾り尽くさんとばかりに飛び込んでくる。シラは今までにない痛みに悶え、涙を流した。

「ううっ……――」

 視覚はもちろん残りの感覚も強風に犯し尽くされている。

「……――」

 生理的な涙は次第に悔し涙へと変わる。

 シラは木っ端のように風に弄ばれるだけの自分がちっぽけで惨めに思えてならなかった。

「っ――」

 せめてもの抵抗としてシラは顔を上げた。視界こそ瞼の裏、それでも己の気高さを失った瞬間砕けてしまう……そんなか細さに屈したくなかった。

「かっ――」

 突如として肺の空気が凍りつく。

 寒さと風はすでに彼女の想像を超える勢いとなっている。異変に揉まれる中、シラは自身が袋小路に陥っている事に気がついた。

「……」

 高台で祈りを捧げていたあの時から遡り始める走馬灯――

「!」

 そんな「死」の予感に白銀の光を纏うシロガネさまの姿が割り込んでゆく。

「⁉︎ ふぐっ――」

 不意に風が止み。次の瞬間シラは何かに叩きつけられた。

「ああっ……うぅ……」

 幸い頭は打たなかったものの……下敷きになった右腕からは鈍い痛みが広がっている。

「……」

 鈍痛にもがきながらも半身を起こし、シラはあたりを見渡す。

「!」

 そこは先ほどまで暴風に襲われていたはずの高台ではなかった。湿り気のある大地と、鬱蒼と茂る森林――

(……飛ばされた!)

 どうやら異変は希望通り、自分を森の中へと案内してくれたらしい。

「……」

 ヒュオォォォ――

 シラは背後に風を感じ取った。

「……」

 まるで囁きのように身に迫るそれに、シラはおそるおそる振り向いてゆく。

「…………⁉︎」

「オオォォ――……」

 視線の先には風と共に現れる白銀の化身。ニバ村の象徴たるシロガネさまの姿があった。

 異変の正体は神隠し。頂獣の人智を超えた運動に巻き込まれたというのであれば、自分を襲った現象の説明がつく。

「……」

「オォ――」

 見合う巫女とカミ。

 シラは右腕を庇いつつ、染みついた巫女の作法のままカミに向けて立ち上がった。

「……」

「オォ――」

 シロガネさまを一言で表すならば「白銀の大鷹」であろう。

 一点の曇りない羽毛は光を浴びることで極彩色に輝き、たくましい翼の羽ばたき一つで嵐を起こす。蓄えた風を両翼に受け大空を流星の如く飛び交い、尾に虹色の軌跡を描きながら村へ降り立つ姿はまさしくカミの降臨。

「……」

 シラは巫女としてシロガネさまという存在に慣れているつもりだった。ニバ村最大の年中行事である「羽休めの儀」は見習いであろうとも巫女の存在が不可欠であり、シラは自身が唯一巫女として携われる業務に熱心に関わってきた――

「オォ――」

 しかしながら目の前におわすカミはシラの常識を打ち砕くほどにであった。

 頂獣の平均的な体長はおよそ二から三メートル。多少の個体差はあるものの、ニバ村に降り立つシロガネさまも概ねその範囲に収まっていた。

 ところがシラが見上げるカミはそれを遥かに上回る。体高は五メートルと二回りも大きく、嘴から尾翼まで含めた全長は八メートルを優に超える。

 加えて……その頭部には通常見られない左右一対のヤギめいた巻き角が、嘴にも劣らぬ鋭い光を湛えながら生えているのだ。

「……」

「オォ――」

 異形を持つカミもシラのことを興味深く、白銀細工の瞳で見下ろす。

「……っ」

 庇う腕に力が入る。

(なん……なの⁉︎)

 今のシラを支配しているのは恐怖だった。

 シロガネさまにとって小娘一人攫うなど造作も無いこと。あれだけの力に巻き込まれながら右腕の負傷だけで済んでいるのは幸運とすら言えるだろう。

(軽く力を行使するだけで……これが頂獣同士のスケールで展開するとしたら……)

 知は力なり。シラは出身階級の理念の下、知識を積み重ねてゆき、シロガネさまについて「理解」していたつもりだった。

 だが現実はどうだろう。たった一柱のシロガネさまが戯れただけでシラの体は満身創痍……人智など、カミの前では須く付け焼き刃に過ぎない。

「……」

 初代大巫女・ハクはおそらくこのような個体に対しても物怖じせず、指揮下に置いて村の基礎を作り出したのだ。シラは今更ながら己が逸脱しようとしていた伝統、その重みに直面した。

「……っ――」

 自分は今、カミの前に服従を強いられているのだろうか。それとも……栄光ある先代のような「力」の証明を求められているのだろうか。

「……」

 前者は容易で、シラの心はそちらに傾きつつあった。

 もはや右腕の感覚は失われつつある。袖の下がどうなっているのか確かめる勇気は無い。

「……」

「オォ――」

 力を証明しようにも、秘技など知らず……ハクと村の契約の証たる神器は高台へ置いてきてしまった。巫女という立場も村の中だけのもの。今この時シラはただの少女でしかない――

「シラ――」

「⁉︎」

 耳元に再び温かい声が届く。

 夢で何度も聞いた優しい父の声。シラが今、最も欲しい安心の象徴。

「お父様!」

 シラは周囲を見まわしその姿を求める。しかし瞳を凝らしても、耳をすませても、人の気配など微塵も感じず、むせかえるような金属の匂いが漂うばかりだ。

「……」

「オォ――」

「……」

 シロガネさまの関心は始めからシラ一人にある。この局面を乗り切るのは彼女自身が動く他ない。

「大丈夫。シラなら大丈夫だ――」

「……」

 頂獣の瞳にシラの顔が映り込む。父親から受け継いだ緑色の瞳。それが彼女に幻聴をもたらしているのだろうか。

(そうだとしても――)

 野生の前に人間の理屈は通じない。であれば、シラはありのままの村娘としてカミと向き合うしかない。

「……」

「……」

 一歩、また一歩……震える足取りで彼女は頂獣へと向かう。近寄る度に頂獣の体躯はその威容を増し、シラは怖気を必死で堪える。

「……!」

「……」

 獣は何も語らず、ただじっと目の前の少女を見つめていた。

「……」

「……」

 鏡合わせのように互いの瞳が重なってゆく。患部の熱はすでに全身を蝕んでいた。本音を言えば今すぐにでも倒れ込みたい。だがシラはその瞳に導かれるように、震える足をしゃんと立たせて前へと踏み出す。

「シラ!――」

「!」

 シラは声に導かれるまま獣に向けて左手を伸ばす――

「オォォ――!」

 再び巻き上がる風。

 獣は大きく翼を広げると、シラに見せつけるように胸部を晒しあげた。

 整った体毛には鏡面めいた艶があり、シラの姿をぼんやりと浮かび上がらせるのだが……がむしゃらに迫るシラにはそれが父の姿に見え――

「!」

「――」

 ヒュオオオオオオオオ――

 触れた瞬間、両者を包み込むように風の勢いが増した。風は再び木々を軋ませると、両者を包み込むように旋風の結界を作り出してゆく。

「……」

 襲われた時以上の風を感じるも、シラの心にあるのは安心だった。

「……」

 シラは頂獣の肉体を硬質なものと思っていた。ところが、シロガネさまの羽毛はヤギの産毛よりも柔らかく、光沢眩い金属でできているとは思えないほどだった。

「オォ――」

 風は内側にいるシラを傷つけず、むしろ慮るように患部に向けて温もりを運んでいた。シラはもはや恐怖を忘れ、台風の目の中でその力強い調べを楽しんでいた。

「ははは――」

 シラ――

「ハク……」

 左手から伝わる熱が、声に呼応するように火照りだし――

「……オウ――」

 心に告げられた真名を唱えると、シラの左手が銀色に輝き出す。

「オオオオオオオオオオオォォォ――」

 光と風は混じり合い、白銀の大嵐が吹き荒れる。

「あはははははははは!――」

「オオオオオオォォォ!――」

 大嵐の中、人と獣は歓喜の声を上げた。

 二人が笑う度に風は勢いを増した。羽ばたけば木々は千切れ、物陰に潜んでいた頂獣ですらあっけなくひっくり返る。大嵐の化身と化した二人は己を縛っていた窮屈さから解放された喜びと、とめどなくあふれる力に夢中になり、もっともっとと風を起こす。

「あはははははははは――」

「オオオオオオォォォ――」

 先ほどまで自分を傷つけた風が今や己の手足のように自在に操れる感覚にシラは酔いしれていた。笑うだけでこれだけの力を出せるのだ。本腰を入れれば頂獣ごと森を平らかにする事すら造作もないように思えた。

 そうやって正気を溶かす中、シラは重要なことを忘れていた。

 シロガネさまに、頂獣に直接触れることは決してあってはならない――

 なるほどカミに睨まれ己を差し出さざるを得なかった状況を誰も責める事はできないだろう。

 だが理由はどうあれシラはニバ村における最大の掟を破ってしまった。

「あはははははははは――」

「オオオオオオォォォ――」

 大嵐は白銀の輝きと共に森の地形を平らかにしてゆく。

「はははは……――」

「オオォォ……――」

 この世の全てを吹き飛ばすほどの嵐が不意に止まる。

「……」

「……」

 力を使い果たし、倒れ込む二人。小さき命はまどろみ、それを風の化身が雛鳥を守るが如く包み込む。

「オォ――」

 森は村へと入り込む、あまねく脅威の防波堤。風は暗い静寂に包まれると、そよ風となって村へと抜けてゆく。

 今この時、人と獣の間に禁じられた絆が結ばれた。

 シラが望んだ風は思いもよらぬ方向で吹き荒れようとしている。

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