瑠璃色の告発

七名菜々

瑠璃色の告発

 見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。私という人間は、日記を付ける習慣はあるくせに、それを見返すことはほとんどしない。だから今の今まで、そんなページがあったことに気付きもしなかった。

 文庫本サイズのノートに、どんなに余白が残ろうと、一日一ページ。一度書き終えたページを再び捲るのは、せいぜい年末あるいは年始か、引っ越しの折に古い日記を発掘したときくらいだ。そして今この瞬間、取り調べを受けるとき、というのがそこに加わった。


『もう大丈夫。私の手で終わらせよう。ここから先は自由だ』


「あなたの恋人である岡崎マサトさんが、昨日九月二十日正午頃に交通事故で亡くなった。事故の原因は彼の車の自律走行システムの異常作動で、調査の結果プログラムが不正に書き換えられた形跡があることが判明した。つまり他殺の可能性が高いということだ。そしてこの文章が書かれたのも、事故が起きたのと同じ九月二十日のページ。あなたのこの日記は、彼の車に仕掛けを施し殺害することへの決意を書き記したものだ。違うか?」

 私がもう少し達筆だったなら、きっと誰かが私の筆跡を真似たんだ、はめられたんだと主張もできたかもしれない。だがそこに記されていたのは、真似のしようのないほどにバランスが悪く規則性に乏しい、私にしか書けない、私に似て不細工な字だ。

 しかしその文字の主、つまり私には、それを書いた覚えがまるでない。その上、使われているペンにも心当たりがなかった。いつも使っている二十本入りの安物ボールペンとは全く違う、美しい艶のある青いインクで、万年筆のようなはっきりと強弱のついた線だが、私はこんな風に書けるペンを持っていない。

「あなたが岡崎氏を殺す動機も充分にあるようだな」

 尋問が天職と思われる脂ぎった強面の刑事が、泡立った唾を飛ばしながら私の日記をパラパラと捲った。


『またマサトを怒らせてしまった。でも、私のために言ってくれてるのだから頑張らないと』

『マサトの手が当たって、顔に痣ができてしまった。目立たなくなるまで出掛けられないな』

『また失敗してしまった。殴られたのは痛かったけど、マサトも怒り過ぎたと謝ってくれた』

『マサトが家計を管理してくれることになった。私がだらしないから、頼りきりで情けない』

『三日連続で食事を抜かれた。早く眠ってしまいたいが、お腹が空いて寝つけそうにもない』


「あなたは日常的に岡崎氏からDVを受けていた。次第にエスカレートしていく彼の様子について、あなたはこう綴っている」


『もしかして、マサトは精神的にどこかおかしいんじゃないだろうか。治療を受ければ昔の優しいマサトに戻ってくれるだろうか』

『病院に行こうと言ったら、今までにないくらいに酷く殴られた。殺されるかと思った。食事ももらえない。もう二度と言わない』

『急にマサトが優しくなったと思ったら、夜の誘いだった。もうこういうときにしか優しくしてもらえないのかと、悲しくなった』


『もう限界だ。このままじゃ壊れてしまう。明日、勇気を振り絞って、別れを切り出そう』


『駄目だった。怖い。死ぬ』


「命の危険を感じるほどの酷い扱いを受けて、なおかつ逃げることもできないとなれば、いっそ殺してしまおうと考えるのも無理はない」

 勝ち誇ったように鼻の穴を膨らませながら刑事は言う。

 そんなのあんまりだと思った。少し前に彼の暴行について警察に相談した時は、痴話喧嘩ならよそでやってくれ、とでも言いたげなぞんざいな対応だったくせに。いざ彼が殺されたとなれば、彼から受けてきた行いは充分に殺人の動機になり得る、だなんて。だったらどうして、こうなる前に助けてくれなかったのか。

 そこで強面刑事が不意にふわりと表情を崩し、優しげな眼差しをこちらに向けた。それも彼の作戦のうちだということくらい、察せられないはずがなかった。

「泉さん。あなたもお辛かったんでしょう。ならばこそ、罪を告白して、早く楽になるべきだ。あなたなんでしょう? 岡崎氏を殺したのは」

 違う。私じゃない。

 だが、私の口からは、上手く否定の言葉が出てこなかった。あの、身に覚えのない九月二十日の日記が、頭から離れなかったからだ。


 他に決定的な証拠があったわけではないのだろう。あの日記を前にひたすら「わからない」を繰り返しているうちに、渋々ながら私は解放された。

 マサトが死んだ。その事実だけでもまだ受け入れきれていないのに、彼が殺されたかもしれないなんて、信じられるはずもなかった。それどころか、自分が容疑者だなんて。

 日記のことは気になったが、証拠品として押収されてしまった以上、身に覚えのない私の文字で書かれた九月二十日のページの正体を調べる術はない。

 今マサトと暮らしたマンションに一人きりになったら正気でいられる気がしなくて、私は混乱した頭を抱えたまま、ふらふらと実家に足を向けていた。

 警察官がマンションに押し掛けてきた時には青々と空を照らしていた太陽が、今は古びた住宅街の小ぶりな一軒家を茜色に染めている。

 相変わらず、在宅中に鍵をかける習慣はないらしい。チャイムも鳴らさずにその玄関のドアを開けると、廊下の突き当たりにあるリビングのドアから、訝る様子で母が顔を出した。逆光に目を凝らし、ようやく私の姿を認めると、母は目を丸くし、歓声に近い高い声を上げた。

「あんた、どうしたの! 連絡も寄越さずに」

 二年か三年に一度髪をばっさりと切ってショートヘアとロングヘアのサイクルを繰り返している母はちょうどその周期の始まりにあったらしく、最後に会った時には胸の辺りまであった髪は肩より短く、染め直してツヤツヤとしている。

 うん、まあね。と曖昧な音声を発する私の顔色など気にも留めず、矢継ぎ早に彼女は続ける。

「あんた、岡崎さんとは上手くやってるんでしょうね? 便りのないのは良い便りとは言うけどね、同棲始めてから一年半も顔出してくれないんじゃ、やっぱりこっちは心配するんだから」

 マサトは死んだよ。とは、簡単には言葉にできない。今言わなければ改まって切り出さなければならなくなるのに、タイミングを逃したことが悔やまれる。

「わかってると思うけど、あんなに素敵な方手放したら、二度とこれ以上のチャンスは巡ってこないからね。絶対に逃しちゃ駄目よ」

 去年の春、同棲開始を前に私の両親に挨拶に訪れたマサトは、礼儀正しく気配りは完璧で、私にも優しかった。そんな彼がいつしか豹変し、コミュニケーションの手段として真っ先に暴力を選ぶようになったことなんて、伝えていないのだから知る由もなく、母がこんな無邪気なことを言うのも当然だと思った。

 その時ふと、母が私の顔を覗き込んだ。今日ここへ来てから、初めて本当の意味で目が合った気がした。

「あんた、何かあった?」

 母の質問を、私は上手く躱すことができない。私は小さく首を振り、疲れたから部屋で休みたい、とだけ告げて階段に足をかけた。

 二階へ向かう途中、「そうだ」と小さく叫ぶ母の声が聞こえた。

「一昨日、アカネちゃんが来たわよ」

 背中に向かって発せられた声に、私は徐に振り返る。

「アカネが?」

 随分と懐かしい響きだと思った。アカネは私の幼馴染であり、唯一と言ってもいい友人だ。

 いや、と首を振る。アカネとの思い出を懐かしみそうになったが、そういえば彼女とは先日ばったり会ったばかりだ。警察にマサトのことを相談しに行った帰りで途方に暮れていたところだったので、彼女の顔を見た途端に涙が溢れ出してしまい、慌ててその場を逃げ出したのだった。顔の痣も見られたと思う。その後何度もアカネから連絡が来ているが、返信はできていなかった。

「アカネちゃん、学会でどこだったか、海外行ったんだって。もらったお土産、あんたの机に置いといたから」

 海外って、広すぎるよ。と思いながら、階段を上った。

 でも、しばらく近況は聞けていなかったが、海外の学会に出たということは、アカネは相変わらず活躍しているのだろう。アカネは偉いな。私と違って。


 部屋に入ると、窓際の勉強机の上に、見覚えのない小さな紙箱が置いてあるのを見つけた。あれがさっき言っていた、アカネのお土産なのだろう。

 歩み寄ってその箱を手に取ると、予想外にしっかりとした重みがある。紙は上質で手触りが良く、商品名だかメーカーだかのロゴマークが金で箔押しされている。デザインからしてお菓子ではなさそうだ。私はベッドに腰を下ろしながら、紙箱の蓋を開けた。すると、予想もしていなかったその中身に、思わず首を捻ってしまう。

 箱の中に現れたのは、仰々しくもベルベットのクッションの上に鎮座した、青色の万年筆だった。

 私は昔から筆記具の類いには全くの無頓着で、せいぜいインクが水性か油性か、黒か赤かくらいしか気にしたことがない。同級生の女子たちが色とりどりのキラキラしたペンに夢中になっていた時期に、私は両親に最新モデルの半導体をねだって困惑させたくらいで、アカネも私のそういう嗜好はよく知っているはずだった。

 万年筆のブランドなんて一つも知らないし、箔押しのロゴマークからブランド名を正しく読み取ることすら私にはできないが、その恭しいパッケージから、この万年筆が高級品であることくらいは察することができた。

 どうして私なんかにこんな上等なものを? ありがたいとは思うが、私には分不相応というか、身に余るというか、もったいないというか、正直持て余してしまいそうだ。

 箱の中に添えられている商品説明のリーフレットを手に取った。定かではないがドイツ語と思われる言語で書かれていて、ところどころ意味のわかりそうな単語はあるものの、文意までは読めはしない。が、要所要所に挿し込まれている写真から、恐らくこの万年筆の製造工程が解説されているのだろうということは見当がついた。どうやらこの万年筆は、天然石から削り出したボディを使用したシリーズの商品らしい。

 とそこで、ふと頭の中に過ぎるものがあった。

 この万年筆の青いボディ。私はこの石の名前を知っている気がする。鮮やかな濃い青色の中に、星雲のような白い靄と煌びやかな星のような金色が散った、美しい石だ。

 もう一度、リーフレットに目を落とした。シリーズのラインナップが紹介されている箇所を探す。

 あった。


『Lapislazuli』


 ドイツ語に疎い私でも、さすがにこれは読むことができる。

 ラピスラズリ。和名で『瑠璃』。

 私と同じ名前の石だ。

 アカネがどうしてこの万年筆を私に贈ったのか、ようやくそこで理解することができた。

 あなたの名前は『おい』でも『おまえ』でもない。自分が何者か思い出せ。

 アカネはそう言っているのだ。

 いつからその名を呼ばれていなかったのだろう。自分の名前なのに、その響きが懐かしいとすら思う。

 私は。私の名は。

「泉ルリだ」


 寡黙で内気な子供だった私は、言葉で自分の意思を伝えられるようになるより早くプログラミングを習得し、幼稚園で友達を作るより早くロボットの友達を造り上げた。そんな調子で、小学校入学直前になっても同年代の遊び相手を作れずにいた私だったが、幼年ロボット開発コンテストで一緒に表彰台を飾ったのをきっかけに、アカネとの交流が始まった。私がグランプリで、アカネが準グランプリだった。

 一時は天才少女と持て囃された私だったが、引っ込み思案な性格が災いしてすぐに学校に通うことができなくなり、その才能も年齢が二桁に達するかどうかのうちに頭打ちになった。恩師たちは早々に私を身限り、メディアは私の転落を面白おかしく語り、両親すらも落胆を隠し切れていなかった。天才と早熟の判別は難しいから、仕方ないよね、などという溜め息混じりの声が八方から聞こえてきた。そんな中、唯一変わらず私と接し続けてくれたのがアカネだった。誰にも心を開くことができずに引き籠もりの日々を送る中で、アカネが誘ってくれたサークル活動だけが辛うじて私を社会に繋ぎ止めていた。

 私とマサトを繋いでくれたのも、そのサークル活動だった。十八歳の時、アカネに誘われて、私は技術開発の同人イベントに出展した。未来視ゴーグルや天候操作スイッチにリニア式自転車など、私の展示は雑然としたおもちゃ屋のそれに近かったが、そんな展示からマサトは私の才能を見出し、彼の研究室の見学に誘ってくれたのだった。

 見学にはアカネも一緒について来てもらった。最先端の研究が行われている研究室は刺激的で、私は十年近く振りに胸が高鳴るのを感じた。そしてありがたいことに、マサトは私を研究員として迎え入れたいと言ってくれた。通信制の高校を卒業した後のことが何も決まっていなかった私は、迷わずそれに飛びついた。だがアカネは。アカネは、なんと言ったんだっけ。アカネは。私は。


 そうだ。あの時アカネは。

 私は転がり落ちるようにベッドから降り、勉強机の引き出しをひっくり返した。床に散らばった文庫本サイズのノートの山の中から十八歳の時の日記を探し出し、三月頃のページを開いた。


『岡崎さんが研究室に入らないかと言ってくれた。こんな機会、二度と来ないかもしれないので、私は喜んで誘いを受けようと思う。でもアカネにはやめておいた方がいいと言われてしまった。岡崎さんの部下に対する態度を気にしていたようだ。確かに少し厳しい言い方をしていたかもしれないが、それは彼の熱心さの表れだと思うので、私には気にならなかった。アカネが一緒に喜んでくれなかったことが、少しショックだ』


 続いて、十九歳の頃の日記を開いた。


『研究室にも少しずつ慣れてきた。みんな優しく指導してくれるが、中でも岡崎さんは特に優しくて、私が荷物を運んでいると重くもないのに持ってくれたり、軽く肩が触れただけで怪我がないかと心配したり、とにかく私のことを気にかけてくれる。アカネはやはり私が研究室に入ったことを良く思っていないみたいで、その話をアカネにしたら、何故か彼女は嫌な顔をしていた。人間扱いされてないみたいだって。そんな風に言わなくていいのに。もしかしたらアカネは、大した努力もせずに運良く最先端の研究室に入れてもらえた私に、嫉妬しているんだろうか』


 二十一歳の頃の日記。


『三年目になって、ようやく一人で仕事をこなせるようになってきた。と言ってもまだ私は雑用しかやらせてもらえないが、最先端の研究にほんの少しでも関われていると思うと、誇らしい気持ちになる。でもアカネには、もう三年目なのに雑用ばかりなのはおかしいと言われてしまった。なんでも、大学では三年生で全員自分の研究テーマを決めるそうだ。大学と私立の研究機関では扱っていることのレベルが違うのだから比較できないと私は思ったが、アカネには言わなかった』


 二十二歳の頃の日記。


『マサトさんの研究が学会で優秀賞を取った。私も手伝っていた研究だったので、誇らしい気持ちだ。アカネは彼の論文に私の名前が載っていなかったことに怒っていたが、私は雑用しかしていないのだから当然だろう。最近のアカネは、いちいちマサトさんの粗を探しているようで、話すと嫌な気分になることが多い。そういえば全く関係ないが、マサトさんも最近恋人と険悪な雰囲気だと言っていた。マサトさんは優秀な人で毎日忙しいから、私に愚痴を言うのが息抜きにでもなっていてくれたら嬉しい』


 二十三歳の頃の日記。


『マサトさんに交際を申し込まれた。驚いた。彼は最近恋人と別れたばかりなのに。気が動転して、思わずアカネに相談してしまったが、やめておけばよかった。アカネはどうしてだか、マサトさんのことを嫌っている。ろくに私の気持ちも聞かずに猛反対されて、嫌な思いをしただけだった。でも、これでわかった。私は背中を押してほしかったんだ。明日マサトさんに返事をしよう』


 二十四歳の頃の日記。


『マサトが室長に口利きしてくれたおかげで、私も自分の研究を始められることになった。そのことをアカネに話したら、むしろ遅過ぎるくらいだと憤慨していた。どうして口利きしたことをわざわざ恩着せがましく言うのかとか、どうしてそれができるならもっと早くしなかったのかとか、色々と怒っていたが、要するに彼が嫌いで仕方ないのだろう。もうアカネの前でマサトの話をするのはやめようと思う』


 二十五歳の頃の日記。


『私の研究が学会で最優秀賞をもらった。奇しくも、三年前にマサトが優秀賞を取ったのと同じ学会だ。浮かれて彼に報告したら、俺の指導のおかげで取れた賞なんだから調子に乗るなと釘を刺されてしまった。語気の強さに驚いて泣いてしまったが、よく考えてみれば彼の言う通りだ。マサトや他の先輩方にたくさん支えてもらってやっと取れた賞なのだから、思い上がってはいけない。アカネからも連絡が来て、私の受賞を喜んでくれたが、きっと社交辞令だろう。お祝いは辞退しようと思う』


 見返した日記は、意味のわからない箇所だらけだ。

 なんということか、アカネは最初からマサトの本性に気付いていたのだ。彼女はずっと、真っ直ぐな言葉でそれを私に伝え続けてくれていたのに、どうして私は素直に受け取ることができなかったのだろう。ありもしない妬みや僻みを言葉の裏に感じ取って、信じたいものだけを信じて、信じるべきものを信じられなかった。アカネはずっと私のことを思ってくれていたのに。アカネが私を妬むべきところなんて、一つもないのに。

 ああ、そうか。私はきっと、心のどこかでアカネのことを見下していたんだ。幼稚園児の時に登ったあの表彰台の、ほんの一段上から。あの日から私は表彰台の上に縋り付いたままで、アカネは台なんかよりもずっと高い山を登り続けているのに、私の方が世界のことがよく見えていると思い込んで。

 そうか。ようやくわかった。

 アカネはきっと、全部気付いていたんだろう。私がマサトから暴力を受けていることも、逃げたくても逃げられずにいることも。そして、数日前に私のぼろぼろの泣き顔を見たことが、決定打になったのだ。


 マサトを殺したのは、アカネだ。


 私は立ち上がり、机の上の置き時計を手に取った。これはただの時計ではない。私が小学生の頃に遊び半分で作り上げた、時間転移装置だ。

 と言っても所詮は子供の作品で、しょうもない不具合が山ほどある。タイムパラドックスの発生を防止する保護プログラムは搭載されていないし、何より時間の計算方法に致命的なミスがあって、日を跨いで時間転移することができない、ほとんどガラクタみたいなものだ。だが、今の私にはそれで充分だった。

 アカネにもらった瑠璃色の万年筆を胸ポケットに挿し、私は時計の針を回した。


 沈みかけていた太陽が反対回りに登ってまた沈み、時計の短針は真上を指している。

 九月二十一日午前零時。マサトが死んだ次の深夜だ。私は忍び足で実家を出て、チェーンの錆びたリニア式自転車を走らせた。

 マサトと暮らしているマンションに着き、部屋に入ると、リビングには電気を点けたまま、泣き腫らした目で眠りに落ちた私がいた。つい十二時間ほど前に警察に呼び出されて、恋人の死に顔を目の当たりにしてきたのだ。私はそれを横目に、音を立てないように注意しながら自室に入った。

 目当てのものは、机の上に開かれたまま置かれていた。九月二十日のページにはまだ何も書かれていない。

 科学捜査がこれだけ進歩した現代においても、犯人による自供以上に強い証拠は未だ存在しない。そして歴史改変の完全な防止が困難であることから、余程の難事件でない限り警察が過去の時間軸の捜査に乗り出すこともない。だから、これからする私の行いが暴かれることはないはずだ。

 アカネがしてしまったことはもう変えられない。でも私は、私のために犯した罪でアカネが罰を受けるのは、どうしても許せなかった。

 アカネの忠告を素直に聞けなかったこと。

 褒め言葉すら聞き入れられずに自分を小さな殻の中に押し込めたこと。

 それでも差し伸べてくれた手を取れなかったこと。

 アカネをずっと見下していたこと。

 これは全て、私の罪だ。


 私は胸ポケットから、瑠璃色の万年筆を抜き取った。

 ノートにペン先を落とすと、天然石の色に合わせた、鮮やかな青のインクが紙に染みていく。


『もう大丈夫。私の手で終わらせよう。ここから先は自由だ』

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