高松宮記念

村上春樹の『風の歌を聴け』を本棚から取り出した3月20日の午後5時。携帯の画面で実にきっかり1時間も居座り続けていた16がとうとう17に場所を譲って消えたのを見て、僕はJRAの当落画面を確認してから美雪さんとのトーク・スクリーンへ、そして両側の本棚に沿って会計処へと動き始めた。


「厳正なる抽選の結果・・・」


 当落画面のスクショを送る。用済みの画像データはギャラリーから消した。


「まじ!

 やった!

 かみ!」

「競馬場に行った経験はおあり?」

「ない!」

「はしゃぎすぎでは。」

「え、エールちゃんに会えるだけで感動もの!

 3歳から追っかけしてますんで」

 入場料、お金はいくら払えば?」

「ホワイトデーのお返しということで。」


1週間遅れの3倍返し宣言をしてから、僕は会計処の前で立ち止まった。店員は在庫整理で忙しそうに手を動かしている。僕はじっと待ちながら、3月24日のことを考える。頭の中の言葉がもくもく増えていった。


第54回高松宮記念。中京競馬場で行われる短距離レースであり、今回はメイケイエールのラストランでもある。そこで美雪さんのボディ・ガードとなって、無事に家まで送り届けるエスカウト・ミッションが僕の天命だ。店員が向かってくるのを見て、僕は支払い画面を準備した。


「、いらっしゃいませ、お待たせしました、お伺い致します」

「これと、これお願いします。」

「、はい、990円です、はい」

\Paypay!/

「、ありがとうございました!」


店員から受け取った、底が白くなっている感熱紙に印字されているのは、ISBN978-4-10-100244-6と、ISBN4-06-274870-3だ。しかし走行中の地下鉄の中で優先席に腰掛けて読み進める本は、また別の作品である。僕はKindleを開いた。講義のために自費で入手しておいたやつだ。


Who waits two years to revenge himself on love gone sour? Outside Agatha Christie, that is.

(Sara Paretsky, Blood Shot, 1988, Chapter12 "Common Sense")

『誰が破局した彼氏に復讐するために2年間も待っていられるだろう?そんなのアガサ・クリスティくらいだ。』


僕はどうやら、暗に他の小説家を馬鹿にしている表現が好きらしい。トゥー・イーズ前にラーヴ・ゴーン・サーした彼氏にリヴェンジ・オンするためという稚拙なマーダー・モティヴを採用したアガサ・クリスティ的女性像の現実味の欠如を嘲っているのだ。


電子レンジで加熱している固茹で卵が、分厚い扉や壁の内側で爆発するみたいに、僕は電車の中で静かに爆笑した。片付け大変そう。


 ☆


安全確認のために停まった車両内で、僕は足の裏を床から離さないまま左右交互にぐっぐっと押しつけながら、混声合唱と管弦楽のための「詩篇」を聴いていた。三善晃のくそばか合唱だ。聴いてみれば分かる。聴いてみても分からないから。爆発した後の固茹で卵みたいなものだ。散らかり過ぎで、手がつけられない。頭の中の情報が飽和してくる。


電車は依然として動かない。しかし正午の空を覆い尽くす雲が、強い風に吹かれて足早に歩き去っていくのを見てふとLINEを確認すると、美雪さんから写真が届いていた。どうやら遊園地の写真らしい。横殴りの強風が園内の旗を乱暴になびかせている。


「白鯨好き。」

「行ってきた」

「あいにくの天気やったね。」

「うん」

「強風のせいで乗り物停止ばっかでしょ。」

「白鯨もスチールドラゴンも両方❌で、代わりに温泉入ってきた」

「いいなあ。」

「すべすべになりました」

「美肌の湯やったんか。」

「うん」

「アルカリ性のお湯がそうなんだっけ。」

「そこまで詳しくない」

「そっか。」

「炭酸系もあった

 腰痛に効くらしいよ」

「腰痛持ちなん?」

「腰痛と肩こり

 背負う物の重さに体が耐えられてない」

「ふーん、葉っぱ。僕も最近肩こり酷いんだよね。」

「行けば良いじゃん、温泉」

「うーん、温泉行きたいねぇー。」

「行ってら」

「あ、僕が行くことは確定してるのね。」


電車が動き始めると、僕は足踏みをやめて雪国へ立ち戻った。しかし、文章の連続を複数平行して読んでいると頭が混乱する。島村が南シカゴで死んだ3人目の彼女の謎を追う小説。といった頓珍漢な情報の混濁が起きてしまう。覚醒剤を飲んだときの妄想ってこんな感じなのだろうか。


電車を降りた瞬間に、強風が背中へ殴り吹いてきた。せめてこのカイロがもう少し、心さえ暖めてくれればいいのに。助詞の使い方が所々粗く、ごってごての正二十面体みたいな美しさをフェティシズム溢れる描写によって徹底的に出力しただけの、清らかで奥ゆかしい官能小説に過ぎず、未だ酸化しきってないとはいえ、100年くらい前に封を開けてしまった使い捨てカイロのようだ。


暴力的なウィンド・ブロウは、僕の心も確実に痛めつけていた。よくよく考えてみなくても、あの写真は美雪さんが彼氏君と一緒に行ったデート・スポットとしての遊園地を映しているのだろう。僕はトイレに籠ってお腹を抱えた。頭がスッキリとした。


早く、草津の温泉にでも浸かって、いろいろ治して楽になりたいものだ。いつかやりたいことがまた1つ増えた。あれ、違うな、これは草津の湯でも治せない。


 ☆


「おはよう。」

「おはよう」


今朝は5分の1だった。ちょっと嬉しい。


それから12時間経った午後8時頃。ゼミの教授のおごりで、まあまあお手頃な値段のワインを飲みまくった後の帰宅道中、バスを降りて家までの道を走りながら、美雪さんとのトーク・スクリーンを開いた。


「ばおわ。

 24どす。」


レッ・ミー・イクスプレイン。[ばおわ]とは、ここでは[バイト終わった。]という意味の省略語である。同様の言葉には[しごおわ]などがある。説明なんて要らなかった。


そして、彼女からの返信がきたのは、最後のメッセージからトゥー・アワーズ・レイターの事だった。


「は?

 ・・・ばおつ」

「ばおつ。

 24どす?」

「どうする?を略さないでください」

「ん。

 どす?

 せりけん855からやど。」

「そうですね、早く行ってもっていう感じですよね」

「ちなみにローソンが19時からなので、17時には競馬場を出たい。」

「了解です

 私は残ります

 確かエールの引退式はもっと遅くなるので・・・」


休ませてほしいと連絡を入れるか迷ったが、シフトが19時からというのも本来15時だったものから遅らしてもらったのだ。「ご厚意」のカードは使い切ってしまっている。時既に遅し。


「そっかぁー。

 じゃあ、そこは1人で楽しんで。」

「エールの有終の美を私は見ます」

「きけてえるんじゃぞ。」

「??」

「気を付けて帰るんじゃぞ。」

「あぁ、ありがとう」

「おやすみ。」

「おやすみ」


美雪さんとの今日のトーク・スクリーンを見返して、僕は気分が華やいだ。だから何度も読み返した。そして1つ気付いたことがあって、会話を再び切り出した。


「どう集合するのかまだ決めてなかった。」

「うん」

「君の家の最寄り駅まで行くのが早いか。」

「いや別に迎えに来なくても行けるけど・・・」

「合流できなくても入れるけどさあ。」

「うん」

「NHKでサリンジャーの番組やってる。」

「なるほど」

「んじゃあ待ち合わせはそうするとして。

 なじがい。」

「お昼をどうするかによる」

「屋台飯にすればいいやん?」

「考えてなかった」

「オグリ的グルメ巡りできるかも。

 たべたべ。」

「どて煮」

「あるやろうか。

 集合時間11時くらいにしますか。」

「向こうついた頃にはちょうどお昼時だね」

「うん。

 おやすみ。」



既読スルーがなされてしまった。はぁ、フォー・フィフスになってしまった。僕はシャトレーゼのお手頃ワインをガブガブと、大きめのマグカップ2杯ぐらい一気に呑み干した。


 ☆ 


23 僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」と呼んだ。


この文章を見て声を出して笑ったのは、思想のアクが強くって、かつひっどい下ネタだったからではない。今時レーゾン・デートゥルなんて用語くらい、仏文専攻でなくたって誰でも知っているだろうし、半端に頭の良い人間が自惚れている時の有頂天感、なんというか、気取った勘違い大学生のノリそのものが見事に描写された1文だと思ったからだ。腹筋が飛び去った。


「おはよう。」

「おはよう

 あした雨だから集合時間早めますか?」

「10時にしますか。」

「了解です」

「遅刻しないように気を付けます。」


息が整ってきた。本を胸の上に開いたまま置いて、実家の天井を見上げる。


それにしても村上春樹の文章は、過剰にかぶれている。痛々しいまでに西洋かぶりっ子だ。プシュード・ウェスタンだ。レーゾン・デートゥルて。


そんな言葉遣い、自分をヒロインか何かと勘違いしている女性でもないと普通、会話の中で使わないぜ。んで、自分をヒロインか何かと勘違いしている3人目の彼女だから筆者の意図通りなんだろうけど。多分その子は、理想と現実の解離に耐えられなくて首をつっちゃったのだろう。


それにしても彼が翻訳した本のタイトルはロング・グッドバイとか、キャッチャー・イン・ザ・ライとか、ジャパニーズ・イングリッシュ過ぎる。むしろオーストラリアかよ。僕ならロン・グッバイ、キャッチャ・イン・ザ・ライにするね。


野崎孝もぶってる。良い感じのタイトルを狙いすぎてて的から外れてんの、実を言うとね。何が「ライ麦畑でつかまえて」だよ。子供達がライ麦畑の崖から落ちていかないようにがっしりキャッチするんだから。キャッチャが含んでいて然るべき「子守り役」のニュアンスはどこへ行ったというの。


本当のことを知りたいってんなら話すけど、僕は彼の訳文は好きなんだ。だけど、そのタイトル・ネーミングだけは気に食わない。お風呂場でお腹を抱えた。ホールデンは銃で腹を撃たれたときに、なぜか水場に行くんだ。また1つ賢くなったね。


灯りを消した寝室のベッドの上でブラウザを開いた。彼女はメイケイエールに賭けるらしいから、僕はどの馬を狙おうか決めておこうかなと思った。1番人気はルガル。6番での出走だ。そのくらいの情報は競馬新聞を買わなくてもサイトで仕入れられる。僕は無難にそれにしておこう。


[実は]の話が聞きたいんなら、エールは10番人気らしいんだな。それについては美雪さんには黙っておこうか。話す気が起きない。


「おやすみ。」


意識が宙に飛び去っていった。


 ☆


「はよ。」

「おはよう」

「10時18分到着です。

 すまーん!」

「許す

 ホームの待合で待っていようと思う」

「了解した。」


終点である我がホームステーションに到着した電車からは、多くの人が降りてきた。大きめのレフレックス・キャメラを首に下げた男たちがぞろぞろと降りてくる。路線バスの路線図を広げながら歩いている。


そういえば今日が十五夜なんだっけか。ぐずついた曇りの夜空から零れる、さやけき月光でも狙いに来てるのだろうか。あれは秋の歌だが。まだ春だぞ。乗り込んだ折り返し特急がホームを出発し、走り出す。


「お昼ご飯は何が良いと思う?」

「馬天ってのオススメだよ」

「食べたことあるの?」

「ううん

 だって競馬場行くの初めてだし」

「馬券はどうするの?」

「エールちゃんの応援馬券買う」

「そんなのがあるんだ。」

「うん、単勝と複勝が一緒になったやつ

 あとターフィーショップ行きたい」

「おっけー。

 高松宮記念以外の馬券は買わない感じ?」

「えー、どうしようかな」

「ホワイトデーの負債まだ返済し切れてないけど。」

「いや、それは要らない

 君にこれ以上借りを作るのは何かイャ」

「・・・なんでャが拗音なん?」

「普通に打ち間違い」

「そういえばキャメラ持った?」

「持ってる」

「打ち間違えた。

 キメラです。」

「競馬場にキメラ持ち込むって何

 キメラでどうやって写真撮るの」

「着いた。」


電車を降りて美雪さんを探す。僕の天然パーマを認めた彼女は立ち上がって、こちらに向かってきた。今朝のXで宣言していた通り、上目蓋をキラキラに飾り立てている。もちろん僕ではなく、推し馬に会いに行くためだとは知っているが、気合いを入れたメイク・アップでバッチバチにキメてきてくれているのが少し嬉しかった。大袈裟で無く、この世の者ならざる天女らしさを彼女に感じたのだ。


「おはよう。」

「おはよう」

「そのアイメイクいいね。かわいい。」

「は?刺すぞ?」


この感じ、懐かしい。中学の頃を思い出す。僕らはクラスの副代表的な役職で1年間を共にしたこともあった。放課後に教室で2人きりで残って、そこまで張り切る必要も無い書類仕事に精を出していたものだ。


座ってスマホを取り出した美雪さんは、中京競馬場に来るまでずっとウマ娘を実況解説プレイしてくれた。彼女はリリース当初からトレーナーを続けているそうだ。つまりユーザー歴3年。


そういえば先日のデートは彼氏君と交際し始めて半年たった記念らしい。


ちなみに、僕と美雪さんとの関係は10年以上になる。電車に揺られているのは30分くらい。10年って、30分を約17万5200セットだ。約9万7600時間。別にマウントを取ってる訳じゃ無いけど。


着いた。歩きスマホは危ないよと告げるまでもなく、彼女は育成を中断して前を向き、僕と並んで改札を出た。


「そういえばおばあちゃんからレインコートもらってる。2着」

「へー。まあでも、折りたたみ持ってるしそれでいいんじゃない?」

「まあ、私も持ってるけど。あと馬券のお使い頼まれた。このメモに書いてある」

「へー。え、けっこう強気なオーダーだね。」

「うん、オッズ爆発してんの」


枠複で1000円の馬券を1枠2枠で1枚と、6枠7枠で1枚を買ってきて欲しいとのことだ。当たったらそこそこ大きな払い戻しがあるぞこれ・・・。と、ちょっと良い未来を思うと、落ち着きなく背筋が震えた。


「『当たったらお友達にもごちそうするからね』だって」

「まあ、これ当たるわけないでしょ。」

「うん」


駅から0.5kmくらい歩いてエスカレータを昇り、QRコードを改札にかざして入場。エントランスすぐにある馬の形をしたモニターでは、歴代の高松宮記念で活躍した名馬を特集したVTRが流されている。ナイスネイチャ、キングヘイロー、カレンチャン。ウマ娘で聞いたことのある名前が次々と映し出された。少し進むとロードカナロアの刺繍パッチがもらえた。続いて屋台が並ぶ。


雨なのもあって、建物の中はどこも人で溢れていた。特に食べ物の屋台が悉く卵爆発している。僕らは建物の2階に昇って、比較的空いているおむすび屋さんに並んだ。僕の後ろに付いた美雪さんは、ちょうどウマ娘のトレーニング待機モーションみたいに、心ここに在らずという感じで揺れていた。


「君ら女子ってさ、好きなイベントになると元気良いよね。」

「そう?」

「前に英米文専攻の友達とルーブル行ったとき、僕は疲れちゃってそこらへんのベンチで座って休んでんのに、彼女はずんずん前に進んで行っちゃうんだもん。」

「女の子は綺麗なものとカワイイもの、好きなものには必死になるんだよ」

「そういうものか。あ、ビール売ってる。」

「ダメだぞ 今日バイトあるんでしょ?」

「別にバイト前に呑んだってバレないし。」

「好きにすれば」


僕はおにぎり3個セットを頼んだ。ビールは買わなかった。その代わりに串カツを1本買って、美雪さんが会計を済ませるまでの待ち時間に食べた。サクサクアツアツで良かった。あっという間に串カツは姿を消した。


「お待たせ あれ、串カツ買ってなかったっけ」

「君を待つ間に食べ切っちゃいました。机を探そうか。」

「あっちにあるよ パドックを見下ろせる場所」


奇跡的に空いていた1人分のスペースに彼女を入れると、お隣さんが少し詰めてくれた。場所確保。ガラス向こうの大画面には、次のレースで出走する馬たちの名前と騎手と体重増減などが表示されていた。美雪さんがその中にいたロストボールという名を口にした。


「ロストボール?」

「珍名馬として有名な馬の1人、ほら、意味分かる?」

「え、ああ、まあ。たったいま分かった。」

「さすが」

「馬券買う?」

「え、買いたいけど、君に借りを作るのは嫌」

「僕が君に借りを作ってるんだけど。バレンタインのチョコ。」

「別に買わなくて良い 先にターフィーショップ行こ」

「オッケー。」


僕はもう一度ガラスの外に視線を投げた。レースに出るにはロスト・ボールするしかなかった、ということなのだろうか。何となく自分のことのように思われて、じわじわと同情の念が沸いてきた。


銀だこと吉野屋に挟まれたエリアに形成された行列は1階へ続く階段でU字カーブを決めていた。これだと店に入るまで1時間くらいはかかるだろう。美雪さんはスマホを取り出して育成を再会した。


ここにはWi-Fiが飛び交っているので、僕もウマ娘を開いた。画面を覗き込もうと彼女が懐に潜り込んできたので、一瞬、息が出来なくなった。呼吸が荒くなりそうなのを抑えた。


「誰を育ててるの?」

「オグリ。」

「ふーん」


彼女に勧められてダウンロードしてから既に3ヶ月ほどが経つ。その間、僕は毎日律儀にログインしてデイリーを達成して、今ではそこそこ不自由ないトレーナーとしてゲームを進められる状態になっている。もちろん廃課金とかガチ勢には遠く及ばない。彼等はとうの昔に僕みたいな無課金ユーザーなんて置いてけぼりにして、遠く遠くに離れてしまっている。


「ここWi-Fi弱い。」

「まあ、こんだけ人が居ればね」


通信が不安定でまともにゲームが進まないので、僕はゲームをやめて美雪さんのスマホを覗き込む。ちょうどそのタイミングでLINEに誰かからのメッセージが来たらしい。誰から、と聞くと、サークルの先輩からと帰ってきた。偶然、今日の中京競馬場の何処かにいると言うことらしい。探した方がいいですか、と彼女が訪ねると、探すな。と帰ってきた。


「そ、う、で、す、か、っと」


そうですか

何をするにも実況しないと我慢できない人っているよね。そんな美雪さんの横顔はニコニコとしていた。何かと「そうか」「そうですか」と素っ気ない返事をすることが多い彼女だが、別に僕が特別鬱陶しくて会話をしたくないから適当な応答をしている訳ではないのが分かってひと安心した。


入り込むだけの興味が湧かなかっただけなのだ。何にでも首を突っ込もうとする僕とは違う人間なんだ。ほらまた、僕と彼女が釣り合わない理由が出てきた。


待機列は意外とすんなり進み、10年の約17万5200分の1の時間で入店できた。僕は何も買わなかったが、彼女はパーカーやらぬいぐるみやらで1万円を越える思い切った奮発ぶりを見せた。というのも、[推しは推せるときに推しましょう]なんて張り紙を見つけてしまったからだ。


そうだな。推しは推せるときに推しておかなければならない。大切なことを学んだ気がする。


「君は何も買わなくていいの?」

「何も買わないのは馬券のためだよ。」

「は?」

「大寒桜賞、なんか賭けてみようかなと思うんだけど、美雪さんはいい?」

「私、分かんないもん」

「でも、とりあえず馬に賭けてからレースを見ると、また違った面白さがあるんだってば。それこそウマ娘では体験できないような。」

「買うとしても、私のお金で買うから」

「でも、ホワイトデーのお返しがあるしさ。」

「あのね、推しには自分のお金を貢ぎたいの 自分のお金で推しに貢がないと、意味がないの」


あのね、推しには自分のお金を貢ぎたいの。はぁ・・・。


僕は観念して自分の分だけ馬券を買った。1番人気の10番シュガークンと、2番人気の8番ガイアメンテの複勝。これでレースを見る目が変わるぞ。馬カッコイイー!なんて生ぬるい気持ちじゃ観戦していられなくなる。


「そろそろ下に行こっか。」

「オッケー」


途中で見かけた馬天を買って食べた。イカが練り込まれた、さつま揚げ的な意味での天ぷらだった。ちょうど揚げたてでおいしかった。ペロリと食べてしまった。


レース場は人で溢れていた。雨が降っているのもあって、傘を差している人もいる。頭より高い位置に据えるもんだから、後ろの人たちの視界を塞いでめちゃくちゃ邪魔になっている。なるほどレインコートを用意しておく訳だ。でも、いまさら貸してと頼むのはなんだか恥ずかしい気がした。


「見える?」

「なんとか」

「肩車しようか?」

「刺すぞおら」

「へっへっへ。」


年頃の娘は難しいものだ。娘、結婚適齢期に片足を突っ込みつつある女性と、彼氏でも無い異性が2人きりで競馬場に来ているシチュエーションって、今更ながらどうなの?って思った。


いやいや、いやいやいや、僕から彼女に向けている愛情は親心のようなものだ。実際に彼女は1歳年下である訳だし。


コース中央に設置された巨大な電光掲示板で繰り広げられていた他競馬場でのレース中継が終わり、ついに中京の9Rが始まった。雨に濡れて重いレース場を、馬たちが泥を跳ね上げながら駆けていく。1番人気のシュガークンが序盤のトップに躍り出た。僕が賭けたもう1頭は8番ガイアメンテ、2番人気であるが最後方から2番目。当然だが2番人気の子が勝ってくれた方が、僕に払い戻されてくる金額が増えるから嬉しい。


なぁ。何が面白いのか薄々分かってきたんじゃない?


みんなが勝つであろうと思う、勝って欲しいと願う馬に賭けるから1番人気の馬が発生する。[1番人気の馬だから勝って欲しい]というのは因果関係が逆なのだが、そういう純粋な楽しみ方も競馬の醍醐味かもしれない。応援馬券とかその筋の楽しみ方の極致かもしれないね。


しかしながら競馬って、やっぱりギャンブルだから。賭けである以上、多く儲けることができた方が良いのは分かるよね。


みんなから期待されている子に勝って欲しい人、自分に儲けを与えてくれる子に応援を送る人。それぞれの感情が黄色い歓声になったり、下品な怒号になったり。楽譜を持たない数万人の、感情をむき出しにした大合唱が競馬場を包むのだ。想像以上だ。これほどの卵爆発は笠松では到底体験できない。


最終コーナーを回って直線に入ったときにもシュガークンは先頭をキープしていた。レース中盤まで最後方だった8番人気の5番コスモレオナルドがシュガークンのすぐ後ろまで追い上げてきている。ガイアメンテも大きく外を回って追いすがっている。コスモレオナルドが勝てば僕の払い戻しはゼロ。でもその子に賭けていた人らは結構な大勝ちになる。頑張れシュガークン、もっと頑張れガイアメンテ。


「シュガークン行けーっ!!!」


いつの間にか、僕もこの合唱に加わっていた。僕は頑張ってる子を応援したくなる心根を腐らせ切ることが出来なかったらしい。結局、シュガークンが1着。僕の払い戻しは180円。このレースに賭けた金額は200円なので、20円分負けた状態になっている。次だ次。


「さて、馬券買いましょうか。そこにマークシート記入所あるから。」

「言っとくけど、私の馬券は私のお金で買うからね」

「はいはい」


美雪さんはメイケイエール応援馬券2000円(単勝と複勝1000円ずつの馬券)と、お祖母さんから頼まれたらしいオーダーで馬券を買った。僕は次の10Rであるロードカナロアカップに出走する1番人気3番マリアナトレンチ、2番人気4番サンテックス、3番人気8番ダッシュダクラウンに単勝100円ずつを投入した。ついでに11R、つまり高松宮記念の1番人気6番ルガルに単勝100円。レースの出走までにはまだ少し時間がある。


「そういえば、高松宮記念の限定カクテルみたいなのあったよね。」

「またお酒?」

「いや、今日はまだ呑んでないし。ノンアルもあるし。」

「それなら私も飲みたいかも」

「どこで売ってるんだっけ、えっと、2階にあるBar2400だって。」

「よし行こー!」

「えっ、急に元気。」


女の子は綺麗なものとカワイイもの、好きなものには必死になるって本当らしい。お昼ご飯のピークは去ったようで、お客さんは僕らの前に1組しか居なかった。彼らが受け取り口から離れていくと、僕は高松宮記念のノンアルを、彼女は[スピードの向こう側]のノンアルを注文した。


高松宮記念 アルコール入り版では[電気ブラン]と言われるブランデーを使っているらしいが、ノンアル版ではジンジャーエールをベースに、柚子やレモンやライムを加えた、ちょっとゴージャスなジュースになっている。おまけにプラカップの飲み口縁は、パチパチキャンディをスノースタイル的に纏っている。おいしい。


「そっちも飲ませてもらっていい?」

「いいよ、それって、ノンアルだよね?」

「うん。ジンジャーエールだから大丈夫。」

「あ、私、ジンジャーエール飲めないです」

「あ、そうなの?」

「いいよ飲んでも」


スピードの向こう側 ウマ娘ユーザーであればお気づきだろうが、サイレンススズカをイメージしたカクテルである。緑色のかき氷シロップをサイダーで割ったジュースになっている。本物にはミントリキュールが使われていて、きっと爽やかな香りが鼻腔を突き抜けていったに違いない。しかしノンアルにはそういった面白さは微塵も無い。ただのシロップソーダだ。


ロードカナロアカップ。JRA創設70周年を記念したメモリアルヒーロー投票において、ロードカナロアが高松宮記念のヒーローとして選ばれていたらしい。入場口の少し奥で配っていた刺繍はそういうことだ。そして皆々が待ち望むG1レースの前座として、その名馬の名を冠した短距離レースが開催されるというのだ。そういえば、さっきのBar2400でも[ロードババロアパフェ]なる商品が売られていた。


今回のレースはノンアルカクテルを飲みながら屋内のテレビで眺めることにした。そっちの方がよく見える。


「美雪さんこっち。次のレース始まるよ。」

「えっ、もう?」

「いや、高松宮記念じゃないけど。ほら、馬券買ってあるから。」

「いつの間に買ったんだ」


ダート短距離の優駿が決まる。歴史の1ページに残るレースになるぞと力強く宣言するVTR。競馬場入ってすぐの馬型モニターに映し出されていた映像に雰囲気が似ている。僕は馬券をしっかり彼女に見せて確認した。


「いい?3番、4番、8番だからね。」

「オッケー」

「そろそろスタートだよ。」

「うん」


各馬が準備を終え、オレンジ服を着た作業員が駆け足でゲートの前から逃げる。


スタートした。1番人気3番マリアナトレンチは序盤で中段やや後方。3番人気8番ダッシュダクラウンは大きく出遅れてしまい、最後方から3番目。ああ、あれはだめだなと嘆くおじちゃんの声が後ろから聞こえてきた。僕は8番頑張れ、とちょっと祈った。


もし、そのレースに出走する全ての馬にお金をかけるとしたら、僕らはきっと1番儲けが出る馬に勝って欲しいと願う。けど頑張っている馬・期待されている馬に勝って欲しいし、良いレース運びをしている子に勝って欲しい。心が1つじゃなくなってるんだ。


矛盾した願いの数々を同時に祈っているキメラみたいな心。この競馬場には今、僕を含めて心がキメラな人間が数え切れない程存在している。ギャンブルとはそういう世界なのだと、僕は瞬きして記憶に焼き付けた。


2番人気の4番サンテックスは先行争いに食い込んでいる。マリアナトレンチにもまだ勝ち目はありそうだ。しかしダッシュダクラウンは後方から巻き返せそうな様子が無い。11番のシゲルショウグンと1番テーオーレガシーとの1位争いを中心にレースが進行していくが、サンテックスはずっとシゲルショウグンの内側を走っている。第4コーナーカーブで内から外に進路を変えて一気に追い上げる。そこにマリアナトレンチもぐんぐんスパートをかけて登ってくる。しかし1着には間に合わない。最後は13番パーサヴィアランスとサンテックスの一騎打ち、行け!行け!


「行け!サンテックス頑張れ!」

「差し切るか!?」


隣で美雪さんも興奮気味に声を出した。4番のオッズは5.7倍。


[1着はサンテックス今ゴールイン!!差し切りました!!]

「差し切った!!」

「イエーイ!」


僕は美雪さんとハイタッチした。300円の賭け金で570円の払い戻しだから、さっきの20円負けを考慮すると、現在250円の勝ちということになる。あとはルガルが勝ってくれるかどうかだ。せいぜい勝っても400円の勝ちになるかそこらくらいだが。


「いよいよ次だな。」

「うん」


僕らの間にもはや言葉は必要なかった。急いで向かったレース場には既に人が密集しすぎていて、とてもレースなんて見ていられる状況では無かった。電光掲示板ですら見えない。しかしさっきみたいに屋内のテレビで見るというのも、だったらここに来た意味は何なんだと思うと情けないから嫌だ。


この状況で、君を肩車させてくれと真剣な顔つきでプレゼンしたら、彼女も流石に断れないか、断ろうにも申し訳なさそうにしてくれるのではないか等とくだらないことを考えている。そして斜め後ろ上の指定席からレースを眺められる人々を観て、変にケチって入場券だけにするんじゃなかったな、と後悔した。


「ごめん。」

「え、急に何」

「君にエールのラストランを見せたくて連れてきたのに。」

「ううん、」


彼女は言葉を選ぶ様子もなくすぅっと「ここに連れてきてくれただけで本当に感謝してるから」と、事もなげに、僕の方なんて見向きもしないで。かかとを上げて背伸びをし、なんとかコースを視界に捉えようと奮闘しながら言った。それで、ああ、僕はやっぱりこの人のことが好きなんだなあって。彼女に対する僕の愛情は、親心とかなんかじゃない。もっと尊敬というか、崇拝しているんだ。僕は彼女のこういう所が大好きなんだ。


「でも、指定席は取るべきだったね。」

「まあ、次からはそうした方が良いかもね」

「次もあるんだ。」

「まあ、誘ってくれたら考えるけど」

「はいはい。」


華の女子大生が彼氏でもない男と(以下略)とは言わないことにした。生演奏のファンファーレが空気を震わせた。既に周りからはエールがんばれー!の声が聞こえる。


「言わなくても良いの?エール頑張れーって。」

「レースが始まったら嫌でも言うし、レース中はずっと背伸びしてなきゃ行いけないから今は体力を温存しておく」

「ふふふ。」

「なに」

「いや、なんでもない。ほらレース始まるよ。」

「うん」


ゲートが開いた。6番ルガル、先行争いに食い込んだ。1枠の1番は中段、2番は先頭で競っている。2枠は3番がやや遅れ気味で、4番は最後方。メイケイエールを含む6枠は2頭とも中段前の方に陣取り、7枠の2頭は先頭集団にいる。


どの当たり方もあり得るレース展開だ。でも僕らにとってはルガルが2着以内では無い方が払い戻しが多くなるので都合が良い。


大寒桜賞とロードカナロアカップのレース展開を見ていると、今日のレース場は足元が悪い分、コースの内側に進路を取っている馬が有利であるらしいのが見えてきた。レース中盤に中段以降に位置し、かつコースの内側を走れている、つまり最も持久力を温存しているであろう馬は3番のナムラクレアだ。2番のマッドクールも内側を取っている。


最終コーナーを抜けて直線に入る。マッドクールとナムラクレアが抜け出してきた!わぁーっと観客の合唱がますますクレシェンドを帯びていき、もつれ込む。


美雪さんにはこのレース展開がちゃんと見えているのだろうか。右目の視線だけ彼女に向けると、背伸びをして、上半身の体幹をぐりぐり動かして悪戦苦闘していた。かわいい。


2頭はハナ差でゴールイン!そして、マッドクールが高松宮記念を制した。ルガルは10着。メイケイエールは9着だった。オグリキャップのラストランのような奇跡は起きなかった。もっとも、彼女はもしその馬券が勝ち馬券になっていたとしても換金しないであろうが。


「あれ、というか。」

「うん」

「おばあちゃんのオーダー当たってない?これ。」

「え、」


美雪さんは焦った様子で祖母分の馬券を取り出した。マッドクールは1枠、ナムラクレアは2枠の馬である。つまり、祖母さんの賭けは1つ当たっている。払戻金は1620円。これは100円あたりの金額だから、1000円ともなれば16200円の払い戻しがある。え。まじで。


美雪さんは慌てて祖母さんに電話をかけた。


「おばあちゃん!当たってる!馬券!うん!16000円!」


1000円の馬券を2枚買ってこれだから、14000円の勝ちである。すごい。それに対して僕の最終リザルトは150円の勝ちという、比べちゃうとどうしてもしょっぱい結果になった。


「美雪さんはまだ残るんだよね。」

「うん、引退式を見届けないと」

「家に帰るまでが競馬です。」

「そんなわけないじゃん」

「気を付けて帰るんだよ。」


僕は美雪さんの頭を撫でた。彼女は払い除けこそしなかったが、キッとした悪い目付きで僕のことを睨んで言った。


「分かってる、あと、私はあんたの娘じゃないんだから」


こりゃまいったね。さて、名残惜しいけれど、熱狂の余韻に浸っている暇は無い。すぐに駅まで走って電車に乗らなければ、バイトの時間に間に合わないぞ。


「それじゃ帰ります。今日は楽しかった。ありがと。おやすみ。」

「うん、おやすみ」


僕らは拳をコツンと付き合わせて、お別れした。

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飛っ車の書き残したもの 藤井由加 @fujiiyukadayo

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