白い蜘蛛
手にしていた試験管を立てかけ一つ伸びをする
はて、今はいつの何時だったか
脳が休息を欲して悲鳴を上げ始めた。ここいらが休み時だろう。
席を立ち、インスタントのコーヒーにお湯を注ぐ
外は雨のようだ。明るさから見て、時間は早朝。
なんともアンニュイな暁だが、オーバーヒートしかけた頭を冷やすにはもってこいだ
ふと意識を外に向ければ雨音以外に響く音がある
バタバタと窓の外を走る音、まもなく殴りつけるような音をたてて扉が開く
「ソーン先生!!助けてくれ!!相棒の様子が変なんだ!!」
そう叫ぶや否や、血相を変えて男が二人飛び込んで来る
実際にはその頭は機械であって、血管など見えないし血も通ってはいないのだが
あくまで、ただ事ではない様子という便宜上の言葉だ。許しておくれ
「昨日から横になったまま一向に目を覚まさないんだ!!
それに、よくわからない譫言を話始めて…!」
そういうと、男は担いでいた男を診療台の上に横たえた
男、そう男だ。声色から見れば、それは男だ
しかし、ジェンダーレスが叫ばれて久しいのこの時代、声色と体つきだけで性別を判断するのは時に危険であるのだが、それを逐一確かめていてはいくつ袖の下があっても足りない。というか、それは所謂ただのセクハラだ。
「先生!!聞こえてるか!!相棒を見てやってほしいんだ!!金ならある!!」
一向に言葉を発しない私に痺れをきらした男が再度大声を上げる
この場合、重要なのは「彼」が「彼」なのか「彼女」なのかではなく、私の患者を連れてきたという事実だけだ。
そう結論付け、楽しい思考実験から現実に頭を切り替える
「あぁ、聞こえているとも!一体何があったというのだね!」
男の安堵したような表情が目に映る
「あ、あぁ!とにかく見てくれ先生!!相棒が、相棒が…!」
「あ、あぁ、う、うあ、あぁ…」
もう一人の男の方に意識を向けると、何事か言葉にならない言葉を発し、
時折ゆっくりと手足をばたつかせている
体温、脈拍、いずれも異常はなし、目視の限り、回路切断の可能性も低い
典型的な内部回路不調の症例だ
「ふむ、最後に彼がメンテナンスを行ったのはいつかね?」
「先週したばっかりだ!昨日まではいつもと何も変わらなかったんだ!」
回路不調は、主にメンテナンスの不備が原因で起こる動作不良だ
回線の内部が劣化し、適切に情報が伝達できなくなる
結果として、適切に思考と人格、あるいはメモリ(記憶)がリンクできず、
適切な動作を行うことができなくなる
故に、その不調は徐々に顕在化している場合がほとんどだ
「なるほど、話を聞く限り回路不調の可能性は低い、か。そのほか心当たりは?」
「何も無いんだ!だってよ、先生、ものの数時間前までこいつはまともだったんだ!
少し疲れたって言って横になって、
次に気付いたらこの状態だ!もう訳がわからねぇよ!」
「なるほど、それではもう少し詳しく診察させてもらおうか」
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一通りの検査を終えたが、患者の身体には異常らしい異常は見受けられなかった
なるほど、これは確かに面白い
「ふむ、外傷はなし、内部機能にも問題はなし、ハード面の不調ではなさそうだ
で、あれば、だ、ソフト面の診療をしていこう」
「通常であれば対話によるカウンセリングが効果的なのだが、今回それは望めないからな。いや、新しい対話の可能性を探ることも吝かではないが、流石に意思疎通ができない状態の対話は一方的な妄想・狂信の類だろう、君も眼中に入れられていない異性に同じようなことをしていないかい?それは相手からすればコミュニケーションでは無く拷問の類だ、気を付けたまえよ?」
元気だった男が肩を落としてみるみる小さくなっていく
ふむ、違う症例を発症させてしまった気もするが、残念ながらソフト面のケアは私の得意とする分野ではない。教会か結婚相談所にでも行ってもらおう。
「さて、それであれば…あぁ、あった。これだ。」
記憶を頼りに試薬棚から1つの薬を取り出す。
「先生…それは…?」
「おや、私の治療を見るのは始めてだったかな?なに、見ていたまえ」
取り出した粉末を患者に振りかける。途端、患者の身体が淡い光に包まれる
しばらくユラリと揺蕩っていた光は、ゆっくりと、しかし明確に特定の部位に向かって集まっていく
「頭、ふむ、メモリの問題か。なるほど。それでは、失礼させていただこうか」
「 」
「え、先生、今なんて…?」
「うむ、なるほど。彼は全てのメモリを失っているな。」
「え!?メモリ……?」
「うむ、彼は初期化、つまり生まれたその時そのままの状態になっている。
それでは言葉も話せないし、身体の動かし方も分かるまい。
今の彼は生後数時間の赤子と思考レベルとしては変わらない。」
「そんな…!なんでそんな…!」
確かに、これは異常だ。
メモリを初期化する手段は確かに存在する。しかしそれには膨大なロックとセキュリティを突破する必要がある。彼の言葉を信じるならば、この事象が発生したのはわずか数日の間。そんな短時間で、そんな施術を施せる人間がそうそういるとも思えない。
まして、彼は政府の要人というわけではないのだ。
わざわざその手間をかける意図も度し難い。
つまり、これは
「怪異か。」
「怪異…?」
「うむ、君の判断は素晴らしかった。私で無ければこんな症例は匙を投げていただろう。ただ、安心していい。むしろ私は本来は、こういった症例が専門だ。」
これは、面白い。非常に面白い。
マスターへの報告は…まぁ、全てが終わってからでよいだろう。
こんなに面白いサンプルを逃す必要はない!
「さて、それであれば医療の時間は終了だ。君は運がいい!面白いものが見れるぞ!」
「先生…?」
かわいそうに、すっかり怯えた表情をしてしまった。
それはそうだ。こんな症例誰でも腰が引けるだろう。
「さて、それではまずは要因事象を特定しなければ」
「 」
「え!?」
横たわる男の頭から白く淡く光るものが立ち上る
と同時に、不意に視界が切り替わる
灰色と白の殺風景な診療所から、沢山の正方形の「線」が組み合わさる空間へ
白とも、青とも、どうにも形容できない色の地平線が広がる世界へ
その白く淡いものはこの空間を漂ったあと、1つの「穴」に吸い込まれて消えていった
いや、違う、よく見れば、何かがついている。何かが絡みついている。
何かに、引っ張られている。
白く、細く、目を凝らさねば見えぬようなそれ
「蜘蛛の…糸…?」
刹那、視界は診療所の一室に戻っていた
「なるほど、電脳空間、冥界、いや、今風にいえばサーバー?クラウド?まぁ、呼称などどうとでもいいのだが、彼の記憶はそこに引っ張られてしまったようだな」
「データサーバーに…?え、それじゃあ…」
彼の顔が急激に青ざめる
そう、データサーバー、電子の海、つまりは記憶と記録の集積所、魂の行き着く場所、
死後の世界
そこでは全ての機械の記憶と情報が混ざりあい、絡まりあう
一度そこに辿り着いてしまえば、「個」を示す記号は失われ、二度と「誰か」には戻れない
ただの「何か」になり果てる場所。
つまるところ、そこからのサルベージは絶望的だ
「ふむ、詰まるところ、事の顛末は君の想像と同じだろう」
「そんな…それじゃあ…こいつは…」
「あぁ、「彼」を「彼」として戻すことはできない。 まぁ、私で無ければだが」
「え?」
彼が素っ頓狂な声を上げると同時に私は術式を起動していた
白い蜘蛛、白い雲、さながらホワイトクラウドとでもいったところか
随分とユーモアのあるウィルスだ。
「 」
仮想空間にメモリを拾い上げるウィルス、
吸い上げられたメモリはただのデータとなり、その境界はほどけて消える
仮に全てのデータがサルベージできたとして、
混ざりあったデータを誰のものか判別して抽出不可能だろう。
ならば、なかったことにすればいい
メモリの時間を巻き戻し、メモリの吸い上げ自体をなかったことにする
するとどうだ、吸いだされた正しいメモリは、あるべき媒体に戻る
さて、それでは失礼して
途端、横たわる彼の身体がビクンと大きく跳ねる
「うっ、ぐっあぁぁ!!!痛ぇ!!!いってぇ!!!!
頭が!!!!割れる!!!ぐああああ!!」
「お、おい、しっかりしろ!!」
「ぐ…あ…?お前どうして…?というか、ここはどこだ!?」
「嘘だろ…本当にメモリが戻ってる…?い、一体どうやって…?」
時間を巻き戻しただけさ、限定的にだがね
「残念ながら、それは企業秘密だ!おっと、この場合、私は法人格をもたないから個人秘密となるのかな?それじゃあ、ただの秘密と変わらないじゃないか!なんて無粋なことは言わないでおくれよ!」
「わ、分かった…なんにせよ、先生、本当に、恩に着る…オレは…もう駄目かと…」
「患者を救うのが私の本分だ!気にすることなどないとも!
あぁ、そうだ、恐らく同じような症例の患者が他にもいるだろうからもし見つけたら声をかけて連れてくるといい!よいサンプルを提供してくれた例だ!無料で施術しようとも!」
「本当か!?分かった!仲間内にも伝えておこう!本当に世話になった!」
何が起こったのかまだ理解が追いつかない仲間を連れて、男は診療所から出て行った
やれやれ、今回は面白い怪異ではあったが、まだまだ粗い
そういうと、右手に持った試験管に目を移す
その中には、1匹の蜘蛛が納められていた
これが、このウィルスの母体、女郎蜘蛛。
電脳空間の奥、自分の巣の中でメモリを捕えては食べていた
「メモリを喰らう蜘蛛、面白いサンプルではあるがね」
元凶は抑えたが、散った小蜘蛛はまた誰かの頭の中にいるのだろう。
多少手間だが、これらには対処療法的に施術して行くしかない。
幸い、猟犬は先ほど走らせた。
巣からの足跡をたどり、まだ作動する前の小蜘蛛であれば事前に除去できるだろう。
「さて、君はどちらなのかな?」
「まぁ、それはそれとして、まずは施術の準備をしよう。既に作動してしまった小蜘蛛は、物理的に施術するしかあるまいさ」
ドタドタと扉の外から聞こえる足音がこれからの忙しさを物語っていた
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「で、これが件の蜘蛛さんか」
机が一つだけおかれた無機質な部屋
蛍光灯の擦れる音が静かに響く室内で、渡された試験管を眺める
「あぁ、そうともマスター。
機械のメモリを吸出し喰らうウィルス、便宜上「ホワイトクラウド」と呼んでいる」
「安全な電脳空間ね。何ともまぁ、皮肉じゃないか」
「存外、常世の心地は良いものだと聞くがね。今度サイトウ君にでも聞いてみるといい」
「あいつの言うことは人間にはあてにならんさ。それで、連絡はそれだけか?」
「あぁ、それともう一つ。蜘蛛の巣を解析してみたのだがね、こんなものが見つかった」
ソーンが置いた1枚のカルテ そこに写る1つの記号
「…当たりか」
「あぁ、どうやらそのようだとも」
かつて存在した宗教の象徴である人間の眼、
それを囲むように書かれる半導体メモリのピクトグラム
「神秘と技術の融合、ね…」
とある信仰宗教団体のモチーフ図
「となるとこの蜘蛛さんも」
「恐らく、そうだとも。人工的に作られた妖怪だ」
一つ大きな溜息をつく
「禁忌だ、などと、道徳を解く意味はないのだろうな」
「おや、マスター、洒落をいう余裕ができたのかね?それはとても喜ばしい!」
「言ってみただけだよ。そうでもしなきゃやってられん」
ここ最近、この類の依頼が多発している
曰く、見たことのない妖怪が現れた
曰く、正体不明のウィルスが流行している
それを辿ると出てくるのは、この宗教団体
商売が儲かるのはいいことだが、これは、流石にきな臭い
良くない気配がそこら中に漂っている
「なんにせよ、よく見つけてくれた。」
「なに、これも私の大事な仕事だ。また何か続報があったら報告するとも
あぁ、マスター、そういえば疲労が顔に出ているぞ。私の薬に頼るのもいいが、
たまにはしっかりと休息を取りたまえよ。」
そういうと白衣の術師は事務所から出て行った
「それは、オレの体調が悪いと正しく治験効果が取れないからじゃないかね、ソーン君」
深くついた溜息はどこにも届くことはなく換気扇に吸われて消えていった
試験管を棚に置いた後、深く椅子に座り直し書類の山に向き合う
さて、次はどの依頼に取り組もうか
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