第5話 ◇魔蟲と青年◇③
「ん…うぁ……?」
どれほど気を失っていたのだろうか。
森の中は変わらず淡い光に包まれていて、時間の経過は分からない。
僕は焦点の合わない目で周囲を確認する。
見渡す限り草木に囲まれていて、ここがどれくらい森の奥深くなのか、見当もつかなかった。
しかしその深い草木は僕を受け止め、クッションの役割を果たしてくれたようだった。
とはいえ受けた攻撃のダメージもあり、体が思うように動かない。
「くっ、つ〜〜……あぁ! はぁ、はぁ……」
体を起こそうと踏ん張るが、静かな森の中にガサガサという音を立てるだけで何も変わらなかった。
今のところ魔蟲が近くにいる気配もない。体が動くようになるのをじっと待つしかないだろうか。それともサナとヒイラギが助けに来てくれるだろうか。
そうだ、サナとヒイラギは無事だろうか。
最後に見た光景では二人は遠くへと飛び去っていけていたはずだ。
何事もないことを祈って、僕は頭上を覆う木を見上げた。
と、突然。
ガサガサと草木が揺れる音が聞こえた。
音の発生源は僕ではない。
一瞬魔蟲かと思ったが、その音の大きさや感じからそうではない。
どちらかといえば人くらい、もしくは動物。
しかしこの魔蟲の巣の中に何がいるのかはよく知らない。
もしかしたら危険なものの可能性は大いにある。
「…………っ」
隠れるか、迎撃できるような準備をしたいが体はうまく動かない。
僕は覚悟を決め、祈るようにして固唾を飲んで息を潜めた。
「……人?」
木々の隙間から伺えたのは人のような大きさの何かだった。
深い緑色の布のようなものを被っていて判然としない。
もう少しよく確かめようと頭を起こそうとして。
しかし体がうまく動かないことを忘れていた僕は、体に走った痛みに思わず声を上げてしまった。
「……った!」
「何者だ!」
それに気づかれ、その人らしきものは警戒するようにこちらに振り返った。
そして草木を掻き分けてこちらへ近づいてくる。
僕が落ちている雑木のエリアへと踏み入った時、僕らは互いを確と視認した。
深緑色のフード付きの外套を纏ったその人は、さほど背丈は高くなく、フードを深く被っていて顔がよく見えない。だが人であるのは確かなようだ。
その背中には竹で編まれた大きな籠を背負っている。
僕を視界にとらえたその人が驚いたように口を開いた。
「お前は……」
この人は味方か敵か。
警戒を解かないように、とはいえ敵だったとして何もできないが、じっと見つめた。
「なぜここにお前のようなものが——」
さらに言葉を続けようとしたその人は、しかしまた近づいてくる音に口を閉じた。
ガサガサ、バキ、と枝葉を分け入るというよりも折りながら、さらに地面を揺らすような地響きを携えてあれが近づいてくるのが分かった。
魔蟲が近づいてきている。
咄嗟に逃げなければと動かない体に鞭を打つ。
「ぐ、うぅぅうう!」
しかし僕の視界は突然塞がれた。
柔らかいものが僕を覆っているようだった。
「静かにしていろ」
フードを被っていた人がなだめるように僕に囁いた。
どうやらその被っていたフードを僕に被せたようだ。
逃げなくて良いのだろうかと思ったが、どうせ逃げられない。ならばこの人の言うとおり静かにしているしかないのだろうと、気づけば僕はこの人をどこか信頼していた。
少し離れたところで地鳴りのような音は止み、続いて草木を掻き分ける音が聞こえてきた。
魔蟲から逃げるように動物が近づいてきているのだろうか。
だが僕の予想は外れた。
「シェン様! なぜこのような場所に」
フードの人とは違う声が聞こえた。
どうやらまた人が来たようだ。
僅かに嗄れた低い声から考えるに、ある程度歳を重ねた男性だろう。
そしてその男が読んだ名前。シェンというのが先ほどのフードの人の名だろうか。
「私は野草を採りに来ていただけだ」
「ここは危険ですから近づかないようにと何度も申し上げているはずです」
「どこに行こうと私の勝手だ。お前たちが気にする必要はない」
「そうは言いますが、貴方様の身に何かがあってはいけないと」
シェンと男はしばらく口論を続けているようだったが、やがて男が折れるような形で話は終わった。
会話を聞いていて思ったが、シェンの方が立場が上のようだ。
しかし声質的にはシェンは明らかに若い。中性的で年齢も若いだろうということしか伺えない。
一体どういう関係性なのだろうか。
気にはなるが、それ以上知る術もなかった。
「お前こそなぜここにいる」
「はっ! 今日も懲りずに悪魔がやってきましたので、退治していたのですが、そのうちの一匹がこの辺りの森に落ちたので探しに」
「そうか、私は見ていない」
「左様ですか……。もしかしたら潜んでいるやもしれません。お気をつけください」
「あぁ」
と、再び地響きが聞こえた。
やはりガサガサ、バキと枝葉を折りながら近づいてきている。
しかし今度は離れたところで止まる様子もなく近づいてくる。
そして三人のいる場所の目の前まで来ると、音は止んだ。
僕は気になってフードを少しだけ持ち上げて外の様子を伺った。
魔蟲の巣にいた見知らぬ二人の人間、そしてそれを襲う様子もない魔蟲。
一体何が起きているのだろうか。
外の様子を見てみると、やはり二つの人影とそれに対面するようにアントスが一匹。
アントスが動きを止めた後、その頭部の一部が跳ね上がるようにして開いた。
「隊長! 悪魔は見つかりましたか?」
その開いた向こう側から一人の男が体を乗り出した。
僕にとってはそれは信じられない光景だったが、そんな驚きを処理する間もなく。
「バカ、お前っ!」
「それを私の視界に入れるな!!」
ビリビリと、鼓膜を震わせるほどの怒りを乗せてシェンが声を上げた。
その怒りを直接向けられていないトウマでさえも身が竦むほどの圧だった。
「あっ、す、すみません!」
「ここはいい! お前は別のところを探しにいけ!」
「はいっ!」
アントスに入っていた男は急いで身を引っ込めると、アントスはその頭を再び球体へと変じ、方向転換をして遠くへと消えていった。
残された隊長と呼ばれた男は地面に膝をついて。
「申し訳ありません。アイツはまだ部隊に入って日が浅く……どうかご容赦を」
「もう良い。お前も早く行け」
「はっ! それでは失礼いたします」
そう言い残してもと来た方向へと歩き去っていった。
周囲から音がなくなった頃、シェンは僕の方へと近づいてきた。
そしてフードを拾い上げた。
「お前の名は?」
突然の出来事に呆けていた僕はシェンに問われて反射的に答えた。
「あっ、え、トウマ……」
「そうか、私はシェン。よろしくな」
僕は改めてシェンを見る。
それは同じ人間とは思えないほど整った造形をしていた。
真っ白でくすみのひとつもない髪は肩の辺りで切り揃えられ、均整の取れた目鼻立ちははっきりとしている。
そしてやはり性別の読めない体つき。
芸術作品のようなその身体に思わず見惚れる。
「私の体に何かついているか?」
「あ、いや、なんでも……」
僕は恥ずかしくなって目を逸らした。
しかし巣に戻ったおかげで気になることが一つ。
「羽根がない……」
「あぁ、私は君とは違う、地上の人間だからね。まぁそれ以外にも理由はあるといえばあるが……」
見た目から察するにシェンはまだ大人ではない。
であれば羽根が生えているはずだった。だがシェンの背中には羽根が生えている様子はない。
そして地上の人間とはどういうことか。
先ほどの男もそうなのか。というかそもそもこの大魔穴の中に人がいるということ自体、聞いたことがない。
さらに気になるのは魔蟲だ。
あの中から人が出てきた。魔蟲は生物ではなかったのか、魔蟲とはなんなのか。
一体何がどうなっているのか。
思えば聞きたいことだらけだった。
僕はまずどれから聞こうと口を開きかけたが、それはシェンによって遮られた。
「聞きたいことは山ほどあるだろうが、それはまた後にしよう。まずはお前の手当てが先だ」
そういってシェンは僕を、僕の羽根を指差した。
いろんなことがありすぎて意識からすっかり抜けていたが、僕は全身怪我だらけで、羽根は一部がなくなってしまっているのだった。
目覚めた時よりかは体も動くようになってきているが、それでも動かそうとすれば全身に痛みが走る。
「助けてくれるの?」
「もちろん。私は平和主義者なんだよ」
シェンは僕を見て静かに微笑んだが、その瞳は僕を通してさらに大きなものを見ているように感じた。
僕が何かを感じ取っているとシェンは思ったか思っていないか。
特にそれ以上は言及しなかった。
「そこの二人も運ぶのを手伝ってくれ」
シェンが草むらに向かって呼びかけると、驚いたことにサナとヒイラギが警戒したように出てきた。
「アンタ一体何者なの?」
「トウマに何かしたら許さないからな……!」
「安心しろ。ただ治療するだけだ。着いておいで」
シェンは有無を言わさず歩き始めた。
サナとヒイラギは迷いながらも僕に肩を貸して、ゆっくりとシェンの後を追った。
「二人ともどうして……」
「アンタに助けられて、それで死なれちゃ気分悪いでしょ!」
「トウマだけ置いていけるわけないわな」
「ありがとう……」
二人とも無事で、それでいて僕を助けにこれたのは僥倖だった。
ヒイラギはシェンに聞こえないように囁き声で僕とサナに話しかける。
「……あの人なんなんだよ」
「わからない」
「信用していいのか?」
「たぶん……」
「トウマがそういうなら信じるけどよ。何かあったらお前も連れて逃げるからな」
ヒイラギはそう言うが、実際のところ全く動けない僕を抱えてサナとヒイラギで大魔穴を出ることは難しいだろう。
もしもの時は二人だけで逃すしかない。
僕はそう考えたが、不思議なことにそうなる可能性は低いだろうとも思っていた。
何故かは分からないが僕はシェンに対する警戒心がほとんどなくなっていた。
魔蟲がいるこの環境自体は警戒を解けないが、それでもシェンといると安心できる気がした。
不思議な人だと思う。
口調は高圧的に聞こえるが、実際話していると一切嫌な感じがない。そうあることが当然のように。
「手当てをしてもらって、いろいろ教えてもらおう」
シェンに聞きたいことは山ほどある。
それは僕がずっと抱いていた疑問、そしてついこの前あった出来事についての回答、もしくはヒントになるような気がした。
案内も無しに迷わず行くシェンの先導に、僕らは森の中を歩いた。
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