第31話 わるあがき

『全員速やかに退避! 〈奈落の門タルタロス・ゲート〉が爆発する!』


 魔力を介して届いたレンの叫びに、エルゼはちっと舌打ちする。


「やっぱり、そうきたね……!」


 〈奈落の門タルタロス・ゲート〉の本質は、魔力の集まりだ。それはつまり、自身を媒体として大規模な魔力の爆発を引き起こせることを意味している。

 通常の〈ティターン〉が、死滅時に爆発を引き起こすのと同じ原理だ。


「【潮時か】」


 脳内に伝わる声が、それを最後に途切れる。目を向けると、そこにいたはずの〈アスタロト〉は姿を消していた。

 どうやら、神の領域に足を踏み入れている〈アスタロト〉でさえも、あの爆発には巻き込まれたくないらしい。

 そんなものがそのまま爆発すれば、二人どころかこの戦域にいる全員の命が喪われてしまう。

 そんなことは、絶対にさせない。


「……お別れ、かな」


 消え入りそうな声で呟くと。エルゼは、紅の球体へと全速力で向かった。




 眼前に煌めく紅の光を前にして、レンとリーナは呆然と立ち尽くす。

 これほどの大きさの爆発だ。万全の状態ならばまだしも、満身創痍の今ではどうやって逃げても、防護魔術を使っても、この死は避けられない。

 無意識のうちに、二人はお互いを求めるように手を繋いでいた。


 紅の球体が、更に光を強める。そして。〈奈落の門タルタロス・ゲート〉だった球体が爆発する直前。白銀の閃光が、そこへと突っ込んで行くのが見えた。


「……え?」


 小さく呟いて。


 直後。


 紅の閃光が、リーナたちの目と意識をき払った。




  †




 気がつくと、リーナは真っ白な世界の中にいた。

 前後も左右も、上下も何もない。現実感がなくて、どことなく浮遊感を感じる純白の世界で。リーナは、お姉ちゃんエルゼの前に立っていた。


「ごめんね。リーナちゃん」


 お姉ちゃんエルゼが、申し訳なさそうに笑う。後悔と自責を覆い隠した声で。


「お姉ちゃん、二人にはとても酷いことをしちゃった。君たちに、ボク自身の勝手な想いを――ううん。呪いを、残してしまった」


 本当は、生きて帰らなければならなかったのに。一年前のあの時に、エルゼが使命を果たさなければならなかったのに。

 けれど。その、どちらもエルゼは果たせなかった。レンとリーナには、王家の使命と深い絶望だけを与えてしまった――。

 そんなお姉ちゃんの独白を、リーナはどこか夢見心地で聞いていた。


 一年前のあの日、たった一枚の紙切れでリーナの前から去って、そして二度と帰ってこなかったお姉ちゃんが。今、ここにいる。

 立ち尽くすリーナに、お姉ちゃんが近寄ってくる。さっと腕を背中に回すと、お姉ちゃんは私を思い切り抱き締めてきた。


「っ……!?」

「……ごめんね。リーナちゃん」


 深く、深く慈愛と後悔のこもった声で。エルゼは呟く。


「お姉ちゃん、必ず帰るって約束したのに。帰れなくて。本当に、ごめんね」


 ――大丈夫。お姉ちゃんは、絶対にあなたのもとに帰るから。


 徴兵通知が届いたあの日、お姉ちゃんは今みたいにリーナを抱き締めてそう言った。

 そう、約束したのに。お姉ちゃんは帰ってこなかった。

 なのに。今、お姉ちゃんはここにいる。あの時と同じように、リーナを抱き締めてくれている。


「…………ぅ……あぁ……!?」


 それを思った途端。リーナの瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちていた。

 ずっと堪えてきた、心の奥底に閉じ込めていた喪失感と絶望感が、とめどなく流れ落ちていく。もう、自分では止められない。

 ずっと辛かった、ずっと苦しかった。ずっと寂しくて、哀しかった。お姉ちゃんがもういないことが、お姉ちゃんにもう会えないことが。そんな現実を、ずっと認めたくなかった。


 嗚咽を漏らして泣きじゃくるリーナを抱き締めながら、エルゼは何度もごめんね、ごめんね、と涙声で繰り返し耳元で呟いてくる。

 閉じ込めていた絶望と孤独が、段々と溶けていく。哀しい気持ちは次第に消えて、幸福感だけがリーナの心には積もっていく。

 泣いて、いて、泣きまくって。ようやく心が落ち着いてきた時。エルゼの抱擁の中で、リーナは上目遣いでそれを聞いていた。


「お姉ちゃんも、一緒に帰れるよね?」


 〈奈落の門タルタロス・ゲート〉を壊したことで、紅瞳種ルファリアの人権は元に戻る。王家の使命も、これで果たすことができた。

 もう、二人を平穏から引きずり出すようなものはない。

 歓喜と期待に目を輝かせるリーナとは対照的に、エルゼは暗い瞳でリーナから目を逸らす。


「……それは、できないんだ」

「え……?」


 きょとんとするリーナに、エルゼは心底申し訳なさそうに、苦しげに言葉を紡ぐ。


「一年前に、ボクは〈奈落の門タルタロス・ゲート〉に食われて死んだ。は、一年前に死んだんだ」

「で、でもっ……!?」


 怯えるような瞳で、リーナはお姉ちゃんの顔を見上げる。

 お姉ちゃんは、確かにリーナの前に存在しているのに。こうして見て、触って、話しているのに。


 なのに。お姉ちゃんが、もういない……?


「ボクという存在は、〈奈落の門タルタロス・ゲート〉が持つにある。……だから。〈奈落の門タルタロス・ゲート〉が消滅した今、お姉ちゃんはこの世界にはいられないんだ」


 そう言うと。お姉ちゃんは抱擁を解いて、一歩、二歩と後ずさっていく。笑みを顔に留めたまま、お姉ちゃんは言う。


「最後に、こうして二人に会えてよかった」


 待って。いかないで。


「私を、また一人にしないでよ!?」


 悲壮な声で、リーナは叫ぶ。


 やっと会えたのに。ようやく、再会できたのに。なのに。なんで!?


 全力で走っているのに、追いかけているのに、ゆっくりと後ずさるお姉ちゃんに追いつけない。それどころか、どんどんと離されていく。

 ゆっくりと、けれど確実にお姉ちゃんとの距離は開いていく。


「大丈夫。あなたはもう、一人じゃない」


 脳裏によぎるのは、フリットにイヴに、もういなくなってしまったレイチェルに。――そして、レンの顔だ。


 違う。そうかもしれないけれど。


 それでも、私は、お姉ちゃんと一緒にいたい。

 お姉ちゃんの姿と声が遠くなる。しろい光に包まれて、視界と意識が曖昧になっていく。


「リーナちゃんが――きみたちがボクのことを覚えてくれている限り、ボクがこの世界にいたという証拠は残る。……だから。ボクは、これからもきみたちの傍にいるよ」


 いやだ。いやだいやだいやだ!


 そう思っているのに、声が出ない。意識はどんどん曖昧になっていって、思っていたことすらも白く染まって消えていく。

 意識が消える、その直前。リーナは、エルゼお姉ちゃんの最期の言葉を聞いた。


「……ばいばい、リーナちゃん。ボクは、ずっときみの幸せを祈っているよ」

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