第29話 激闘
迫り来る無数の腕を斬り裂き、蛇のようにも見える何かを斬り捨てて、リーナは〈
狂気の絶叫が耳を
これが私の使命だから。私がやるべき、なすべきことだから。だから。どんなに身体が痛もうが、心が軋もうが。私は、絶対にこの門を破壊しなければならないのだ。
身体強化で研ぎ澄まされた感覚に、謎の直感が走る。本能のままに停止して――直後、眼前に漆黒の球体が現れた。
即座にその場を離れて、漆黒の球体は瞬く間に大きくなっていく。一秒も経たないうちに、それは先程リーナのいた場所を完全に飲み込んでいた。
ぎり、と奥歯を噛み締めて。リーナは太もものナイフを取り出す。取っ手に触ったと同時に
淡い魔力の
が。刃が球体に到達しても、そこには何の変化も見られなかった。
「え……?」
戸惑う間にも、黒い球体はどんどん小さくなっていく。そのまま完全に消滅したかと思うと、そこには
――あれは、まずい。
咄嗟にそう思った。直感が感じるままに、リーナは動く。周囲のあらゆるところで漆黒の球体が発生しては消えていく。それらの一つにでも当たれば大怪我になるのは分かりきっていた。
恐らく、この黒い球体は〈
黒い球体を避ける間にも、〈
正直、打つ手がなかった。猛攻を捌くのに精一杯で、攻勢に出る余裕がない。多少の負傷を覚悟で打って出れば最後、何もできずに死ぬ。結果は明らかだ。
とはいえ、このままではジリ貧だ。そう遠くないうちに、リーナは負ける。使命を果たせずに。〈
どうしたら、この状況を打破できるのか。焦燥の中で必死に考えを巡らせている時だった。
虚空から発生した黒い球体を
身体は速度を乗せているために、急停止はできない。かといって迎撃するにも、距離が近すぎて対応が間に合わない。
……ああ。これで、終わりか。
ゆっくりと進む時間の中で、緩慢とそう思った時だった。
『リーナ!』
聞き慣れた男の子の声と同時に、視線の先にいた腕が魔力の光条に焼き尽くされる。思わず振り向いた先、そこには左目を赤く煌めかせるレンがいた。
通信機を起動して、対象をレンに設定する。繋がるなり、リーナは怒鳴っていた。
「あ、あなたは、いったい何をしているんですか!?」
彼に課された役割は、戦域の確保だ。〈
それに。彼の左目の発光は、覚醒紋章を使用した証拠だ。
「覚醒紋章も、使うなと言ったでしょう!?」
一旦戦域を退避して、覚醒紋章を解除する傍ら、リーナは叫ぶ。覚醒紋章の代償は、
『今のあんたは、俺の上官じゃないだろ? なら、そんなの守る義務もないな』
ふ、と、軽口のような口調でレンは言ってくる。こっちは、本気で心配してるのに……!
『なぁ、リーナ』
一転、真剣な声が聞こえてきて、リーナは戸惑う。
『おれは。おれ
「っ……」
やめて。そんな言葉で、私の心を揺さぶらないで。
「……なんですか、それ」
私は、使命を果たさなくちゃならないのに。この身を捨ててでも、王家の罪を償わなければならないのに。
なのに。なんで。そんなことを言うのだろう。私が使命を果たさなければ、ここで死ななければ。あなたたち
激情を堪えた声が、通信機に届く。
『それに。こいつは、俺にとっても倒さなくちゃならない
深い、後悔の滲んだ声だった。いったい、この一年間でどれだけの後悔と悲嘆を積み重ねてきたのだろう。今の一瞬で、それは容易に想像ができた。
……彼も、リーナと同じなのだ。エルゼという大切な人を喪って、自分の存在意義が分からなくなってしまった。それこそ、生きる価値があるのかと考えてしまうほどに。
リーナの真紅の瞳に、決意の炎が宿る。
まだ、こんなところで死ぬわけにはいかない。彼の心に、新たな傷をつけたくない。そんな思いが湧き上がってきていた。
「……〈
『それが分かってたら、一年前に逃げ帰ったりなんかしてないよ』
「ですよね……」
〈
『……ただ。円の端に見える金色の輪は、一年前にはなかったやつだ』
「金色の輪……?」
言われて、リーナは〈
……他の部位への攻撃は、一年前にレンと
しばし、考えて。リーナは告げた。
「私は左手から突撃します。レンは、右手から攻撃してください」
一年前にはなかった、金色の輪への攻撃。他への攻撃に効果がないのならば、それしかないと思った。
推測に根拠はなかったとしても。前例がないのならば、可能性は残されている。
『了解』
短く、応答の声。
一度深呼吸をして、心を落ち着かせる。悠然と佇む〈
「【過去と未来、そして
直後。緋色に染まる〈
同時期。戦域に
「なんだ……!?」
二人が困惑する間にも、その球体は別の個体を形作っていく。刹那、邪悪な衝撃波を伴って、それは実体化した。
『あれって……!?』
イヴが驚愕の声を上げる。
そこに発生していたのは、竜にまたがる天使の姿――〈アスタロト〉だった。
黒い球体を
『レン! 〈アスタロト〉が出た!』
「あいつが……!?」
思わぬ事態に、声が大きくなる。〈アスタロト〉。前回の〈
いかなる攻撃も通らず、全くの為す術がなかった、破滅の悪魔。
そんなやつがなんで、今この状況下で。
『俺たちじゃあ時間稼ぎにもならねぇ! レン、いけるか!?』
イヴもフリットもここまで生き抜いてきた精鋭とはいえ、やはりレンやリーナには及ばない。彼らに〈アスタロト〉の対処を任せるのは、それこそ二人を殺しかねない選択だ。
焦りにぎり、と奥歯を鳴らしながら、レンは応答する。
「……了解!」
迫る蛇の腕を銃剣で貫いて、通信対象を二人からリーナに変更。戦場の音にかき消されないように叫んだ。
「〈アスタロト〉が出た! 俺があいつをやるから、リーナはそっちを!」
しばし、間が空いて。決然としたリーナの声が聞こえた。
『……了解しました!』
漆黒の球体が回避行動をとる戦闘機のコクピットを削り取り、無謀にも〈アスタロト〉に向かう〈ティターン〉の胴体を消し飛ばす。
神聖と
〈
憎悪と焦燥と、少しだけの恐怖と。様々な感情を弾丸に乗せて、レンは引き金を引いた。
その弾丸は
真っ直ぐな軌道を描いた弾丸は、〈アスタロト〉の前で薄紫の障壁によって阻まれていた。
「はじ……かれた……!?」
目にした光景に、レンは驚愕の声を上げる。〈
漆黒の球体が発生するのを感じて、その場を離脱する。魔力を飛行魔術へと振り分けながら、レンは苦い表情で舌打ちした。
きろり、と、〈アスタロト〉の――天使の瞳がこちらを向く。
『【哀れな仔羊。己の敵が何かも
脳に入り込んできた声に、レンは顔を
「頭に……直接入ってくる……!?」
五感のどこからでもない、奇妙で不快な声だった。ただ。レンの魂が、これは目の前の天使の声だと告げていた。
目の前の天使はこちらに向いただけで、口を動かしてすらいないのに。
「ッ……! 黙れッ!」
声を振り払うかのように、レンは〈
けれど。やはり。その弾丸たちは、ことごとくが弾かれていく。
『【己の神に見捨てられし愚民どもが、我に仇なすか】』
魂に直接響く、神性の声。
天使の声に気を取られていた、その刹那に。レンの左腕と右脚の部分に、黒い球体は発生していた。
直感を削がれた分認識が遅れてしまって、レンはそれを見ながらも回避行動が間に合わない。直後、球体が拡大した。
視界が暗転し、全身が捩じ切れるような激痛に襲われる。
「がぁっ…………!?」
身体の至るところで骨が折れ、砕け散る。何とか抜け出すと、レンは口から血を吐き出しながら呻いていた。
「こんなの……どうやって戦えってんだ……!?」
迫り来る闇と蛇の腕を斬り伏せ、周囲に発生する黒い球体を振り切りながら、リーナはただ一点、〈
狂気の絶叫が耳を
〈
直後。急降下。剣の切っ先を外縁部の輪へと突き刺した。
「堕ちろッ!」
影の腕があらゆるところから湧き上がり、リーナを握り殺さんと襲いかかってくる。それを傍目に、リーナは金色に沿って〈
銃の扱いがてんでだめなリーナでは、こうして剣で直接斬り込むしか術がないのだ。それがどれだけ危険であったとしても、やらなければこの場に居る全員が死ぬ。
それだけは、何としてでも阻止しなければならないから。
右手で〈
切った腕は跡形もなく消滅し、その間際に蛇のようなものが一瞬視界に映る。もう、何度も見た光景だ。
絶叫の声といい、この視界といい。いったい、こいつはなんなんだ。左手の剣を鞘に戻しながら目を細めた、その時だった。
「あっ――――!?」
突然、頭を割られたような激痛が生じて、リーナの意識が刹那吹き飛ぶ。意識が戻ってきた時には、全てが終わっていた。
集中力が途切れたことで、覚醒紋章と
〈
――なんで。私は。
迫る無数の腕をどこか遠い気持ちで見つめながら、リーナはひとり呟く。
この頭を割られたような激痛は、覚醒紋章の代償だ。
家臣たちの血筋が使っていた覚醒紋章と違い、
……けれど。だからって。たった数十分全力で魔力を使っただけで、限界が来るだなんて。いったい、私はどれだけ無力なんだ。
魔力を失った生身の人間に、この腕たちを撃退する手段はもはやない。よしんば腕を撃退できたとしても、リーナに待っているのは〈
王家としての使命も果たせなければ、レンたちの祈りすらも叶えられない。
自分の無力さに、涙がこぼれ落ちた――その時だった。
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