第五章 最期の希望、果てなき絶望

第24話 雷鳴

「――以上が、今作戦における損害および成果です」


 窓外で稲妻がひらめく、駐屯基地の執務室。豪雨と雷鳴の轟く中で、ずぶ濡れのリーナは通信モニターへと報告を行っていた。


 〈勇者の弓矢ブレイヴ・スワロー〉作戦そのものは、大成功といっていい成果だった。


 作戦の主目的であった〈慈悲ケセド〉は確実に撃破し、最終決戦ロンギヌス作戦に必要な進撃路の啓開は成功した。他の〈セフィラ〉が復活しているとの情報も、レンとフリットの報告で判明して。現状が予想よりもはるかに逼迫した状況であることを伝えることができた。

 だが。〈慈悲ケセド〉の撃破後に発生した天使と竜には、逃走を許してしまった。


 それに。なにより。大切な部下の一人――レイチェルを、リーナは喪ってしまったのだ。

 リーナ自身も、全身の至るところに傷を負っていて。左腕に関しては、天使と竜の発した黒色によって完全に骨がやられていた。ずぶ濡れの軍服の内側には、あらゆるところから血が滴り落ちている。

 それらの痛みを感覚遮断魔術と理性で抑えつけながら、リーナはいつもの様子でブローディア司令の声を聞く。


『……君たちの見たという天使と竜の存在と、〈セフィラ〉の復活。その二つは、いずれも今後の戦局に大きな影響を及ぼす恐れのあるものだ。共和国軍司令部には、速やかに伝達しておこう』

「はい。よろしくお願いします」

『また、大尉の負傷については明日、こちらから救護車両を出動させる。軍病院で治療を受けたまえ』

「……え?」


 よろしいのですか、と言う前に、ブローディア司令は淡々と言葉を続けた。


『現在、大尉は私達に唯一遺された王家の血筋だ。紅瞳種ルファリアが希望の未来を掴むためには、大尉が〈運命の聖槍ロンギヌス〉作戦に参加し、そして〈奈落の門タルタロス・ゲート〉を破壊しなければならない』

「……」


 司令の言葉に、リーナはきつく目を細めて歯噛みする。

 紅瞳種ルファリアの人権回復と、王家の犯した大罪へのあがない。

 それは、忘れかけていた己の使命だった。私が果たすべき、果たさなくてはならない王家わたしの役目。

 友情や仲間という夢に溺れて、大罪人という自覚を欠いていたから。彼女は。

 どこまでも無感情に、そして淡々とした口調で、司令は言う。


『大尉が後送されている間の部隊長の選任は、君に任せる。適当と思う者に引き継ぎたまえ』

「了解、しました」


 こくりと、頷く気配。


『こちらからは以上だ。他に、何か要件は』

「ありません」

『了解した。……では』


 ぷつりと通信が切れたタイミングで、窓外が刹那白く染め上げられる。遅れて、より一層の大音響が、リーナの耳を劈いた。

 下唇を噛む力が強くなり、皮膚が破れて血が滲み出してくる。けれど。痛覚を遮断しているおかげで、痛みはちっとも感じない。


 ……大切な人の一人すら守れないで、私はいったい、何をしていたのだろう。


 絶望と後悔の狭間で、リーナは胸中で呟いていた。

 全部、間違っていたのだ。

 部下を仲間や友達だなんて思っていたから、無意識のうちに甘えが生じてしまっていた。頼るような資格もないのに、頼ってしまった。

 結果が、これだ。甘えて、頼ってしまっていたがために。私は、レイチェルを死なせてしまった。まだ一五歳の、私なんかよりもずっと生きているべき人間を殺してしまった。

 最初から、私が一人で戦っていれば。誰にも頼らず、王家の責任と罪を自覚していれば。彼女が死ぬようなこともなかったはずなのに。


「……わたしは、」


 ぽつりと、消え入りそうな声が喉からこぼれ落ちる。

 わたしは、いなくなってもいい存在なのに。

 私がいなかったら、お姉ちゃんはもっと丁寧な扱いを受けて、戦死しなかったのかもしれない。

 私がいなかったら、レイチェルはこんな過酷な戦場に送り込まれることもなかっ

 私がいなかったら、レンは今頃平穏の世界で暮らせていた

 みんな。私という存在がいたから、不幸になってしまった。安寧と平和を、私という存在のせいで掴むことができなかった。


 暗く、昏い闇へと落ちていく中で。リーナは気づいてしまった。

 周囲に厄災を振り撒き、関係のある人をみんな不幸にして。なのに、私だけがのうのうと生きている。

 王家おのれの果たすべき使命を果たしもしないで。多くの人々を苦しめ、犠牲にしながら、生きながらえている。 


 そんな私は。


 ここにいても、いいのだろうか。




  †




 雷鳴轟く豪雨の音が、レンたちを責めるように窓外で鳴り響いている。

 〈慈悲ケセド〉を撃破し、謎の天使と竜を取り逃したあと。撤退した先のアルフェン山脈の付近では、激しい雷雨が発生していた。

 そこをそのまま通過してきたものだから、部隊の四人は揃いも揃ってずぶ濡れで。駐屯基地に帰ると、レンは真っ先に更衣室で着替えを済ませていた。

 努めて平静を装って、レンはいつも通り食堂のキッチンで夕食をつくる。


「イヴ。次、空いたぞ」


 風呂場の更衣室から出てきたフリットが、ずぶ濡れのまま椅子に座っているイヴへと言葉をかける。

 けれど。無言で俯いている彼女は、微動だにもしない。

 レンとフリットは目を合わせると、いつもの調子で再び口を開いた。


「早く着替えてこいって。風邪引くぞ?」

「ほら、早く行ってきなって。夕食はまだ時間かかるからさ」

「……」


 二人の言葉も虚しく、イヴはその場を動こうともしない。ただ。虚ろなあかいろの瞳が、漫然と机の表面を見つめていた。


「……なんで、」


 ぽつりと、雷雨にかき消されそうな小さな声で、イヴは震えた言葉を紡ぐ。


「なんで、レイチェルが死ななきゃならなかったのよ……っ!?」


 悲痛な吐露に、二人は押し黙る。

 六年前の厄災を生き延びてからも、彼女とレイチェルはずっと一緒だった。苛酷な強制収容所での生活でも、ここに配属される前にあった戦闘訓練の時でも。……毎日の戦闘が終わったあとの、休息の時間でさえも。

 イヴにとって、レイチェルは親友でもあり、それでいて妹のような存在だったのだ。

 大切な人を喪ったという悲嘆と、胸に穴が空いたような大きな喪失感。その二つが分かるからこそ、レンは何一つかける言葉が思いつかなかった。

 今の彼女には、どんな慰めの言葉も心を突き刺す刃にしかならないから。


「誰よりも優しくて、誰にでも優しくて……っ! まだ、一五だったのに……!」


 絞り出すような言葉を最後に、食堂内には重い沈黙の時間が訪れる。

 雷雨の大音響が轟く中で、イヴのすすり泣く声だけが小さな音を立てていた。

 かた、と軍靴が床を叩く音がして、レンとフリットは音がした方へと視線を振り向ける。はたして、そこにはまだずぶ濡れの軍服を着たリーナがいた。

 帰ってきてからはそのまま司令部への報告に向かったので、着替える時間がなかったのだ。


「今、少しよろしいでしょうか」


 いつもの平然とした、けれども微かにおごりの感情が混ざっている声に、レンは微かに目を細める。

 こいつは、いったい何を考えてるんだ……?

 そう思ったのもつかの間。次の瞬間、イヴが動いていた。


「あんたが……!?」 


 激情をあかいろの双眸に宿したまま、イヴは足を動かしてリーナへと掴みかかる。軍服の襟を両手で掴むと、そのままの勢いで思い切り突き上げた。


「あんたのせいでレイチェルが死んだのに! なんで、そんなに平然としてるわけ!?」

「……」


 対するリーナは、無言。抵抗の素振りすらも見せずに、なされるがままで自分を突き上げる相手を見つめている。


「やめろイヴ!」


 制止に入ろうとしたフリットへと視線を向けて、イヴはなおも激情のままに言い放つ。


「あんたたちもそう! なんで、そんなに普通なの!?」

「……」


 ほとんど悲鳴のような叫びに、フリットは苦悶の表情を浮かべる。

 仲間がいなくなったのは、悲しいし悔しい。けれど、それでも仲間たちのためにと、努めて明るく振舞っていた顔が崩れた瞬間だった。

 遅れて、自分の言い放った暴言に気がついたらしい。イヴは逃げるようにしてふっと目を伏せた。


「……これで、満足でしょうか?」


 ことの顛末を静観していたリーナが、冷淡な言葉を突き立てる。

 襟を掴む手を逃れて、一歩後ずさって。立ち尽くすイヴに向かって、リーナはあざけるような口調で言い放った。


「感情の発露が必要なのは私も理解しますが。周囲に……それも上官である私に暴力を振るうとは、いったい何を考えているのですか? オーレンキール少尉」

「……」

「ええ。確かに、貴女の言う通りエールラー少尉は私を庇って死にました。……ですが。それは、部下として当然の行為です」


 はっと顔を上げるイヴに、リーナは歪んだ笑みを向ける。


「戦死したのは残念ではありますが。彼女の能力が劣っていたから、死んだに過ぎません」

「お前っ……!」


 あまりにも度が過ぎた言葉に、レンは思わずリーナに掴みかかっていた。

 いくら上官で王家エーデルヴァイスだからといっても、言っていいことと悪いことがあるだろう!


「今度は副長ともあろう中尉が上官への暴行ですか?」


 嘲りきった、意地の悪い真紅の双眸とレンは至近で睨み合う。

 その時。レンは気づいてしまった。嗤笑ししょうと冷徹の瞳の奥底に、強い自責と自己否定のいろがあることに。

 嘲弄の笑みを崩さぬまま、リーナは淡々と告げる。


「ああ。それと、あなた達への報告ですが。私は明日以降、軍病院で治療を受けることとなりました。その間の部隊の指揮は、レン・ブローディア中尉。貴方に委任します」

「……」


 しばし、レンはリーナの瞳を見つめて。掴んだ手を離して、小さく呟いた。


「……わかった」

「ありがとうございます」


 また、一歩後ずさって。リーナはわざとらしい笑みで敬礼を送ってくる。


「では、私はこれにて失礼します」


 そう言うと。リーナは暗い廊下の陰へと消えていった。




「どうしたんだ? あいつ……」


 フリットが怪訝な表情で呟くのに、レンは怒りのこもった声で吐き捨てる。


「こうなったのは全部自分のせいだって、勝手にそう思い込んでんだろ」




  †




 翌日の朝は、梅雨の時期にしては珍しい澄み渡るような蒼穹だった。

 結局、昨日のあの一件以降はリーナと会うことはなくて。今朝に向かった執務室にも、彼女の姿は見当たらなかった。

 どこに行ったんだろうと思いながら一階へと降りた先、食堂の机には、一枚のメモが残されていた。

 いつの間にか開かれていた窓からは、優しい朝の風が吹き込んできていて。そのメモ用紙の端をひらひらと舞わせている。

 歩み寄って、メモ用紙を空のコップから引き抜く。書かれていた内容に、レンは思わず目を細めた。


 ――行ってきます。


 メモ用紙には、リーナの筆跡でそれだけが書かれていた。

 昨日の言葉を弁明するでもなく、煽り立てるでもなく。ただ、淡々と、それだけが。


「輸送車、もう来てたんだな。全然気づかなかったぜ」


 先に降りていたらしい。フリットがコーヒーを片手にキッチンから出てくるのに、レンは舌打ち混じりに吐き捨てる。


「自分で出てったんだと思うよ」

「あの身体でか?」


 フリットは肩を竦めて笑う。

 というのも、リーナの怪我は全身の至るところにまで及んでいたのだ。あの状態では、まともに動くのも難しいはずだ。

 確信を持った声音で、レンは問う。


「フリットはいつ降りてきたの?」

「今から一時間ぐらい前だから……七時ぐらいだな」

「そんな時間に、軍病院の救護車がこっちに着くことがあると思う?」

「……確かに?」


 いくら二十四時間体制で運営されている軍病院とはいえ、輸送の対象は特段危篤きとくの状態でもない紅瞳種ルファリアだ。前線勤務の軍人ならまだしも、後方勤務の共和国人が、紅瞳種ルファリアのためにそんな時間帯から動くとは思えない。


「でも、なんでまたそんなことを」

「どうせあいつのことだし、俺たちに悪い印象を与えたまま去った方がいいとでも思ったんでしょ」


 悪印象を与えたままなら、例え窮地に陥ったとしてもリーナを庇うような行動はしないだろうと、そんな風に考えているのだろう。

 恐らく、昨日の見え透いた悪意と冷徹とそのためのものだ。全ては自分のせいだと、もう二度と誰かを喪いたくないという感情からくる、痛みの伴う突き放し。


 ……まぁ。こういった置き書きを残していくあたりは、やはりが。


「レン、フリット」


 背後から名前を呼ぶ少女の声が聞こえてきて、二人はそちらへと視線を向ける。はたして、そこにはいつもの軍服姿のイヴがいた。 

 泣き腫らした目元は赤い。けれど。昨日のような絶望と悲嘆だけの色は消えていた。


「もう、大丈夫なのか?」


 心配そうなフリットの言葉に、イヴはこくりと頷いて。小さな声で応える。


「うん。もう、平気。昨日は、たくさん泣いたから」


 彼女がにこりと笑うのに、レンとフリットも自然と安堵の表情を浮かべていた。

 どうやら、昨夜のうちに心の整理はだいぶついたらしい。大切な人を喪ってもなお、強く在ろうとする姿。それは、とても眩しく見えた。

 ふと、イヴは申し訳なさそうに目を伏せると。次の瞬間、頭を下げてきた。


「……その、二人とも。昨日はごめんなさい」


 頭を下げたまま、イヴは言葉を続ける。


「二人も辛いのは分かってたのに。なのに、あんな酷いこと言っちゃって……。ほんとに、ごめんなさい」


 その様子に、レンとフリットはしばし顔を見合わせて。肩を竦めて、にこりと笑った。


「気にすんな。俺は気にしてないから」


 え、とイヴが視線を上げてくるのに、レンも続ける。


「二人が六年前の事件からずっと一緒なのは俺も知ってる。だから、あんまり気にしないでいいよ」


 大切な人を喪う辛さは、レンもよく知っているから。だから、彼女の痛みがどんなものだったのかは、よく分かるのだ。

 昨日のイヴの姿は、一年前の自分にそっくりだったから。

 そんな二人の様子を、イヴはしばしの間呆けたように見つめて。程なくしてから、にこりと小さく微笑んだ。


「……二人ともありがと」


 釣られて、レンとフリットの顔にも笑みが浮かぶ。

 これで、イヴはもう大丈夫だろう。


「えと。それで、二人に聞きたいことがあって。……隊長、どこにいるか知ってる?」


 無意識に表情が硬くなる中、イヴは伏し目がちに、心底申し訳なさそうに言葉を続ける。


「私、隊長にも酷いこと言っちゃったから、謝りたくて」

「……」


 はぁ。とため息をついて。レンは努めて平静を装った声で、彼女の質問に答える。


「リーナのやつなら、今はもう軍病院だよ」

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