第20話 作戦前夜

「いよいよ、ね」


 夕食を食べ終わって、就寝前にシャワーを浴びている最中。隣で一緒にシャワーを浴びているレイチェルに、イヴはここに来るまでのことを思い出しながら呟いた。


「……そう、ですね」


 目を閉じて、レイチェルは彼女にしては冷たい声音で言う。

 六年前の、聖霊降臨祭ペンテコステの日。イヴたちの日常だったものは、王族によって唐突に全て壊された。

 今でも覚えている。小学校の校庭の隅っこで、友だちのみんなと他愛もない話をしている時だった。


 突然、蒼穹そらが真っ赤な深紅に染まり、校庭も校舎も樹木も何もかもが一瞬にして輝く純白に染め上げられた。

 校門にいた警備員も、廊下を歩いていた先生も、校庭で走り回っていた低学年の子どもたちも。みんな、一瞬にして真っ白な塊と化して――そして、弾けていなくなった。

 身寄りをなくしたイヴたちは、毎日襲い来る異形の怪物たちから逃げるのに必死だった。明日を生きる希望など、一つもなかった。


 そんな絶望的な逃避行の最中。イヴたちは王立陸軍の総司令官――上級大将の率いる亡命部隊に偶然発見され、保護された。

 ブローディア総司令官とわずかに残った士官候補生たちとの決死の逃避行の末、イヴたちは運良くアティルナ共和国へと辿り着いた。

 その時残っていたのは、総司令官と士官候補生五名、保護された人員二三名だけだった。この旅路の結果、イヴたちのいた集団の約九割はこの世界からいなくなっていた。


「レイチェルは、怖くないの?」


 視線を壁に向けたまま、イヴは問う。


「もちろん、怖いよ」

「ならっ!」


 思わず振り向いた。それなら、一緒にここから逃げ出さないか。そんな言葉が喉まで出かけた時だった。 


「でも、何もせずにただ死ぬのを待つのは、もっと怖いから」

「……!?」


 きっと、決意の宿るあかいろの瞳が振り向けられる。いつもの柔和で幼い雰囲気の彼女は、そこにはいなかった。


「戦うのは怖いし、あのしろい世界に行くのも怖い。……でも。何もせずに、みんなが死ぬかもしれないのに待ってるだけなのは、もっと怖いから」

「……」


 不安に俯くイヴに、レイチェルは安心させるように優しい笑みを向ける。


「それに。今の私たちは戦って、それで守ることができるんです。もう、ただ見てるだけしかできなかった私たちじゃないんです」


 今の私たちには、力がある。

 六年前のように、友達を見捨てるしかなかった頃とは違う。

 あの時のように、多くの誰かを犠牲にして、希望の見えない旅路を進む必要もないのだ。

 だから。


「今回の作戦もみんなでやり遂げて、そのあとはみんなで夏至祭、やりましょう」


 そう言って差し伸べられた手を、イヴはしばしの間見つめて。

 意を決したように、その手を取った。


「……うん」


 頷くイヴの瞳には、弱気の色は消えていた。





 洗濯物を乾かすのに屋上へと出て、かごの中に入っていた軍服と男物の洗濯を全て干し終えて。

 夜の静寂があたりを支配する中を、フリットは柵に腕を置いてぼんやりと星空を見上げていた。

 六年前、祖国がなくなった時、フリットは家族旅行でアティルナ共和国を訪れていた。だから、イヴやレイチェルのように家族がみんないなくなったわけではなくて。両親も弟も、まだみんな生きている。

 だからだろうか。今になって、こんなにも死にたくないと思ってしまっているのは。


「……いや、そうじゃねぇな」


 自分に言い聞かせるように、フリットはひとり呟く。

 死にたくない。その思いは、今を生きる者ならば誰もが抱く思いだ。

 決して、自分にはまだ家族がいるからだとか、意思が弱いからだとかそういうわけじゃない。

 左の内胸ポケットに手を伸ばして、フリットはを取り出す。入っているのは、家を出る時に貰った弟の手作りのお守りだ。

 極西の島国では主流らしい、四角の布に想いを込めた紙を包んだ、極めて簡素なつくりのもの。


 ――ぜったいに帰ってきてね、お兄ちゃん。


 そう言って送り出してくれた弟の言葉が、不意に脳裏によみがえる。

 弟が一六歳を迎えるまで、あと四年。それまでに、この戦争は絶対に終わらせなければならないのだ。

 でないと、弟もこの戦場に送り込まれるかもしれない。軍属の適正がなかったら、強制労働に駆り出されるかもしれない。

 そんなことには、絶対になってほしくはないから。

 それに。戦場ここで出逢った戦友たちにも、フリットは死んでほしくはない。守りたい、大切な仲間だから。

 だから。

 口許を微かに緩めて、フリットは呟いた。


「頑張るしか、ねぇよな」





 兵舎二階の最奥。リーナの執務室で、レンはついさっきできたばかりの資料を彼女へと手渡していた。

 その資料を一通り読んで、リーナはぽつりと言葉をもらす。


「意識の変性化……ですか」

「一時的に、ではあるけどね。けど、恐怖だったり嫌な記憶が消されてしまうのは、戦場においては一番厄介な攻撃だ」


 机に置かれた資料に目を落としながら、レンは目を細める。

 戦闘において、過去の経験と周囲への警戒は何よりも必要かつ重要な要素だ。過去の記憶があるから対策を立てて予測ができるし、恐怖があるから周りに気を遣って敵の行動を察知できる。

 その二つがなくなれば、それはもうただの無謀な新兵と同じだ。戦力と言うには、あまりにも危機管理に欠ける。

 顎に手を当てて、リーナは考え込んだように眉を寄せて押し黙る。

 しばしの沈黙ののち、口を開いた。


「では、〈慈悲ケセド〉への攻撃は私と中尉で行いましょう。私であれは多少の変性意識は行動に支障がありませんし、中尉ならどう戦えば良いのかも熟知しているはずです」

「それで良いと思う。……それと、もう一つ、言いたいことがあって」


 なんでしょうか、と訊ねてくるのに、レンは真剣な表情で告げた。


「俺が危険と判断した場合には、覚醒紋章を使用する。それも、いいな?」


 その言葉に、リーナはしばし目を見開いて。

 それから、意志の炎を宿した双眸が、レンを見つめ返した。


「構いません。……が。」


 きっと、深紅の瞳を細めて。彼女は断固とした態度で言い放った。


「それを使わせるような無様は、晒しません」

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