第9話 君の目には、こんなにも綺麗に
『え、お前、そんなんが欲しいの?』
声の方に視線を向けると、そこにいる兄は眉間に深く皺を寄せていた。抱いたおもちゃの箱が腕の中でゆがんで、くしゃりと鳴る。兄の目は鋭くて、つづりはひゅっと息をのんだ。
『そんなん欲しいのおかしいよ。お前』
兄の目を見ていられなくて、つづりは視線を左右に彷徨わせる。欲しいおもちゃが見つかって、それを買ってもらった後のことを想像して、弾んでい心が穴の開いた風船みたいにしぼんでいく。だって、と小さくこぼした声は、乱暴におもちゃを奪い取る兄によってかき消された。
(だって、これがいいって思ったんだもん)
尾を引いた思考が、寝起きの頭にぼんやりと浮かぶ。もう何年も前の誕生日の夢。あの時、何を欲しがっていたのかは思い出せないのに、兄の声と言葉と、嫌悪で満ちた表情だけは鮮明だ。嫌なことほど早く忘れてしまえればいいのに。
深くため息を吐きながら、つづりはスマホのアラームを止めて、日付を確認する。表示されているのは何度見ても、九月一日の文字で。つづりの口からもうひとつ、重たい息が落ちる。
(もう、一週間か……)
見上げた自宅の天井は真っ白で、そこに泣いていた彼女の顔が重なる。このまま休んでしまいたい気持ちをなんとか蹴り飛ばして、つづりはのそのそとベッドから起き上がった。
食欲のわかない胃に用意されていた朝ご飯を詰め込んで、ぬぐい切れない痛みを物語で押し流す。そうしてどうにか、つづりは教室の自分の席に腰を落ち着けた。はぁ、と朝からもう何度目か分からないため息が零れる。まだ登校していないのか、彼女の姿はまだない。鉢合わせなくてよかったと謝らなきゃが頭の中で混ざり合ってぐちゃぐちゃになる。
「おーはよ」
項垂れるつづりの頭を小突きながら、明音が笑う。今来たばかりなのか、いつもの黒いリュックサックを背負ったままだ。いつもはつづりよりも早く来ているのに、珍しい。
「おはよう」
小さな声で挨拶を返して、つづりはまたうつむく。どうしたってあの日のことを思い出してしまうから、正直、明音の顔も見たくはなかった。でも、こんな自分にも、まだ変わらずに接してくれることが暖かくて、露骨に無視して、切り捨ててしまうこともできずにいる。中途半端で弱い自分が嫌いだ。もう何も考えたくなくて、文庫本を開いたつづりの耳にクラスメイトの話声がふいに届く。
「ね、聞いた? あの、ほら、うちのクラスの天才サマ、海外行くらしいよ」
「えー。なにそれ、留学ってこと? 高校どうすんの」
「知らないけど、やっぱ転校? みたいにすんじゃない?」
「そんなことできんの?」
「できるんじゃない? 知らんけど」
(留学? 彼女が?)
そんな話は、一度も聞いたことがない。そりゃあ、個人的な話をするほど仲が良くなかっただけだと言われてしまえばそれまでだけど。でも、夏休み前はほとんど毎日話していたのに、一度も、そんな重大な話が出てこないことがあるか? そんなに遠かった、なんて。
(信じたくない、だけ、だけど)
まだ、謝ることすら出来ていないのに。こんな風に唐突に、ほどかれた蝶結びみたいにあっけなく、離れてしまうものなのか。いやだ。いやだ。心の中で、小さな自分が駄々をこねて泣いている。まだ、そばに居たい。まだ、話をしていたい。
まだ、もっと。
「おーはよ」
滲んだ視界に、笑う明音が映り込む。慌てて目をこすってから、つづりはどうにか挨拶を返した。
「朝からじめじめだなー? 秋雨前線にはまだはえーよ?」
「別に、しけってないよ」
ふい、と明音からそらした目線を窓の外に向ける。彼女の留学疑惑を話題に挙げていた二人組の会話はもう、昨日のテレビの話に移っていて、とても、問いただせる雰囲気ではなくなってしまった。もっとも、彼らがまだその話をしていたとしても、面と向かって確かめる勇気は出そうにないけれど。
「そーいやさ」
いつもより、少し低いトーンで明音が切り出す。
「緋猩さんの絵、見に行った? ほら、俺たちが手伝った展示会のメインの絵」
よりも寄って、今、一番考えたくない人の、一番話したくない話題に、つづりは八つ当たりで顔をしかめた。
「行ってない」
どの面下げて、絵を見に行けばいいのか、まるで分からない。
「だと思ったー。でも、お前は見た方がいいよ」
まっすぐに、明音の目がつづりを覗き込む。眉尻を下げて笑う彼の顔は、見たことがないくらい大人びていて、つづりは一瞬、言葉に詰まった。
「ぜったい、お前が見なきゃいけない絵だよ」
「…………いやだよ。面倒くさい」
視線をそらして、ぶっきらぼうに告げる。
「って言うと思ったんだよね、俺。名推理でしょ。名探偵って呼んでいいよ」
さっきまでの真面目な雰囲気はどこへやら、明音は途端にいつものふざけた顔に戻って、鞄をごぞごそと漁る。温度差が季節の変わり目の昼夜くらい激しい。目を白黒させるつづりの机に、明音はドン、と分厚い本を載せた。
「これ、その展示会のパンフ。展示会で展示されてた絵、ぜんぶ載ってんだよね。太っ腹じゃない?」
ご丁寧に、おそらくは彼女の絵のページだろうところから、蛍光色の付箋がはみ出している。伺うように視線を向ければ、明音は朗らかに笑った。
「だいじょぶ、だいじょぶ。お前が傷つくもの、差し出さないって」
ほら、な?
優しく促す声に背中を押されて、つづりは金色の箔が押された表紙に手をかける。動作は自然とゆっくりになった。震える手で、ページをめくる。あっという間に付箋の張られたページのひとつ前についてしまって、つづりは思わず唾を飲み込んだ。目を閉じて、深く息を吸う。ゆっくりと、それを吐き出す。目を開いて、いっそ一思いに殺されようと、覚悟を決めて開いたページにあったのは。
『眼差し』と名付けられた絵だった。
「な? お前が、見るべき絵だったろ?」
明音の柔らかな声に、声も出せずにうなずく。春の光だろうか。透明で薄い色に照らされた教室の絵だ。それも、つづりがいつも、彼女と一緒に過ごしているこの学校の、二年四組。いくつも描かれた机には私物が置きっぱなしになっていて、この教室にたくさんの生徒が在籍しているとわかる。
でも、描かれているのは、たった一人の男子生徒だった。
「――っ」
涙で、視界が濁る。
「こんなに、姿勢よくないだろ、僕」
後ろ姿なんて、そうそう見る機会がないのに、一目でこの男子生徒が自分だとわかる。こんなにも丁寧に描かれた後ろ姿の絵に、ついた名前が『眼差し』なんて。
それじゃあまるで、きみしか見えてないって、言ってるみたいじゃないか。
頬をしずくが伝う。絵がにじまないようにめちゃくちゃに拭って、つづりは勢いよく立ち上がった。猛烈に、彼女に会いたくてたまらなかった。
「僕、行ってくる」
「んえ?! 今!? つかどこに?!」
「彼女の家!」
叫んで、教室を飛び出す。入れ替わりで入ってきた担任が何かを叫んでいたけれど、そんな声は右から左に聞き流して、つづりは昇降口を目指して走った。
「つづり!!! 受け取れ!!!!」
明音の叫び声に驚いて振り返ると、飛んできたのは小さな鍵だった。一緒に揺れるこぶし大のふわふわなクマはもはや主役級の存在感だ。顔に激突しかけたそれをどうにか受け取ると、明音の言葉が続く。
「俺のチャリ! 南側の駐輪場の、はっしこに止まってるから!」
「あり、がとう」
明音は満面の笑みを浮かべて、親指を立てる。
「行ってこい! つづり!」
力強く、背中を押されて、つづりは前に向き直る。
「んはっ。うるさい声がするーって思ったら、つづりさんじゃんー」
がらりと、隣のクラスの廊下側の小窓が開いて顔を出したのは素野だった。
「見たんだ? あの絵」
問いかけに、つづりは素直にうなずく。
「行くんだ? あの子のとこ」
「うん」
「んはは、ほんとはあの子のこと泣かせた奴は問答無用で不合格! って言いたいとこだけど、あの絵、私も見たし……それで、授業さぼって走り出しちゃうなら、ま、ギリ合格あげてもいいかな」
目を伏せて微笑みを浮かべる素野の言葉に、つづりはぎゅっと奥歯をかみしめる。彼女だけじゃない。あの日、きっと、素野の信頼も裏切って、ひどく傷つけた。
「都葉鬼駅バスターミナル、七番線。九時半までは、あの子、そこにいるから」
まっすぐこちらを見る素野の黒い瞳を同じように見つめ返してから、つづりは九十度腰を折って頭を下げる。
「ありがとう。それと、ごめん」
「ん、いーよ」
「帰ってきたら、なんかおごる」
「んはっ。あの子、笑わせてくれたら、それでいいよ」
かみしめるように落とされた声に、今度こそ、そうできるように、深くうなずいた。
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