第10話 どうかまだ、遠くへ行ってしまわないで

「はぁっ! は、はぁ……ハッ」

 つづり達の通う高校から、バスターミナルまでは車で行っても四十分はかかる。つづりは汗のにじむ額を拭う余裕もなく、ペダルを全力でこいだ。腕時計の針は八時半を少し過ぎたあたりで、自転車をものすごく飛ばせば、ぎりぎり間に合うか、どうか。

「まに、あ、わせなきゃ」

 あんなに、力強く、背中を押してもらったから。

 あんなに、優しく、彼女を託してもらったから。

 あんなに、雄弁に、美しく描いてくれたから。

 その、全部に応えたかった。傷つけたことを謝りたかった。名前を呼んで、その手に触れて。

 君が好きだと、伝えたかった。

 夏みたいなギラギラした太陽に照らされて、長い坂の上には蜃気楼すら見える。汗をかくのは嫌いだし、息があがるのも嫌いだし、そもそも運動が嫌いだし。でも、この坂の、もっと向こうに彼女がいると思うと、ペダルを漕ぐ足に力が入るのだから不思議だ。

 つづりは呼吸をあらげて、長い、長い、坂を上っていく。

 八時四十五分。

 信号で足止めをくらって、気持ちだけがはやる。

 九時二分。

 ようやく、都葉鬼駅の大きな時計塔が遠くに見える。

 九時十分。

 駅までの、最後の曲がり角を右折した。

「ラスト、スパートっ」

 九時二十一分。

 最後の、長い直線を抜けて、つづりはようやく都葉鬼駅にたどり着いた。バスターミナルの近くに自転車を置いて、焦る指先で手間取りながらカギをかける。すでにがくがくの足に鞭をうって、転がるように、つづりは一直線に駆け出した。



 彼を好きになったのは、ほとんど一目惚れに近かった。高校に入学して、最初の夏。梅雨が明けても、教室にうまくなじめなくて、息がうまくできなくて、苦しくて、緋猩は逃げるように屋上へとつながる階段を上っていた。屋上って、響きからわくわくする。だからきっと、素敵な場所だ。素敵なことが待っているはずだ。期待して一段、また一段と階段を上る。手元には図書室で借りた、なんだか話題になっていそうな本を抱えていた。これも、みんなが好きだというから、きっと素敵な本だ。

(私は、これでやっと、素敵で、普通の高校生になれるんだ)

 そう、胸いっぱいに期待を詰め込んでいた、のに。たどり着いた屋上の扉は無情にもきっちりと施錠されていて、開きそうもなかった。あーあ。まあ、そんなことだろうと思ったけど。面白くない気分で、緋猩は唇を尖らせる。

「あ、やっと居た」

 背中に、低い声がかかる。唇を尖らせたまま振り返ると、ずいぶん珍しく、人間と正面から視線が交差した。

「簗瀬緋猩さんって、君のことだよね?」

 顔も知らない男子生徒にピタリと名前を当てられて、緋猩はにっこりと笑みを浮かべる。最近覚えた、愛想笑いというやつだ。

「あー、ごめんね? 私、学校ではサインとか写真とかぜんぶ断ってるんだ」

 にこにこと笑みを張りつけた唇で言葉を吐く。中学二年の終わりに、絵で賞を取ってから、緋猩の名前を知っている人はみんな、そういう物を求めてくる人だった。だからきっと、彼も、そういう人の一部だろう。

(私に興味がある人なんて、結局いない)

 必要なのは、いつだって、美しい絵だけ。

 にこにこと浮かべた笑みが、崩れるのが自分で分かった。

「え。いや、同級生のサインとか別に要らないけど」

 ぱりん、とガラスが割れる音がした。色のついたガラスの一枚板が、彼の言葉で勢いよく割れて、緋猩の視界がずいぶん久しぶりに鮮明になる。あぁ、世界って、こんなに美しい場所だったっけ。階段の踊り場で、まっすぐにこちらを見上げる彼を今度は本当に頬を緩めて見つめ返す。

「うん。じゃあ、なんの用? きみの名前は? 同級生ってことは、一年生? 何組?」

「え、は? ちょ、待って。早いって」

 若干体を後ろに引きながら、顔をしかめる彼の方に、緋猩の方から近づいた。

 そうして、名前を尋ねたのが、最初の会話だ。

 あの頃から彼は、いつだって、緋猩の下手くそな言葉をほどいて、飲み込んで、ちゃんと緋猩が欲しいところに答えを投げ返してくれる。それは時折、求めている言葉と違うこともあるけれど。それでも緋猩は、彼と話をするのが好きだった。

 ただフラットに、当たり前に、緋猩を人間として扱ってくれる彼が好きだった。

(つづりも、おんなじ気持ちだと思ってた)

 彼は、口ではなんと言っていても、最後には絶対に緋猩のやりたいことに付き合ってくれるから。どんなに無茶を言っても、次の日は普通におはようと言ってくれるから。見放さないで、見限らないで、ずっと、そばに居てくれたから。

 何よりもあの日、二人で花火を見た時の彼の顔が、君が好きだと物語っているように見えたから。

(目には、自信があったんだけどなぁ)

 突きつけられた『大嫌い』の五文字が、胸の奥に刺さってまだ抜けない。でも、それよりも、ずっと痛いのは泣いている彼の顔が瞼の裏に焼き付いて離れないことだった。ずっと、優しくしてくれた人を、踏みにじって傷つけた。

(帰ってきたら、謝らなきゃ)

 見上げた時計は九時二十五分を表示している。九時半発、成田行き。緋猩の乗るべきバスが、七番線に滑り込んでくる。

「緋猩――――!!!」

 叫ぶ、声が聞こえた。

 つづりは待合の椅子から立ち上がる彼女の名前を、思い切り叫んだ。

 二人の視線が、迷うことなく互いをとらえて交差する。

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