第8話 だってきみ、私のこと、好きでしょう

 その絵を、一目見た瞬間、背筋が震えた。それは、絵に対する感動からでも、描かれていた物への恐ろしさからでもなく――ただ、純粋に、彼女との時間の終わりが眼前に迫っていることに気づいたからだった。

 水道で顔を洗っても、まだ、浮ついた思考が誘拐されたんじゃ、と三弾飛ばしの予測を立てる中で、つづりはどうにか深呼吸をして現実的に彼女が居そうな場所にあたりをつける。屋上、中庭、つづりたちのクラス、それから家庭科室。指折り数えて候補をあげながら、そのどれもがしっくりこない。

「美術室、かな。やっぱり」

 まだ六時を過ぎたばかりだけれど、そもそも、締め切りをとっくに過ぎている絵を完成させるための合宿なわけだし、だというのに昨夜は遊び惚けてしまったし、遅れを取り戻そうと早朝から作業をしていてもおかしくはない。何より、彼女の居場所として、美術室は一番、ふさわしい気がした。くるり、と美術室の方へ足を向けたつづりの顔には、ちいさく、笑みが浮かぶ。どんな顔で、朝の挨拶をしよう。今日は、どんな話ができるだろう。もしも、昨日の距離感を、これからもずっと、許してもらえるなら。

 希望的観測に満ちた、幸せな思考が、美術室に足を踏み入れた瞬間に、止まる。だらり、と力の抜けた手が、体の両側に落ちる。見開いた目が、その絵をとらえる。

「……ぁ」

 これは、僕の絵だ。

 漠然と、そう理解する。目の前の、背丈よりも大きな巨大なキャンバスに描かれているのは、青空をバックに背筋を伸ばす、一輪のひまわりだ。彼女が、つづりの目に見ていたであろう、美しい花。指先が小刻みに震える。いやだ、と全身が叫んだ。

「あ、おはよう、つづり」

 がらり、と扉が開いて、彼女が笑う。「あ! ね、見てみて。きみのひまわり、美しいでしょう」自慢げに、唇の片端を釣り上げる彼女の顔を、初めて、見たくないと思った。は、と吐き出した息が震えている。「きみは知らないみたいだけど、きみのひまわりはこんなに美しいんだよ。私、描いてる間中、ずっと楽しくて」彼女の言葉が意識の外でから回る。聞きたくなくて、じりじりと後ずさった。視界が、意味も分からずににじむ。

「僕、描いていいよって、言ってない」

 まだ、終わりにしていいなんて、言ってない。

 まだ、彼女のそばに居たい。

「なんで描いたの」

 気が付くと、床しか目に入っていなかった。

「勝手に、人のこと描くなよ」

 そんなことが、言いたいわけじゃなかった。こんなに美しい物として彼女の視界に映っていることがうれしかった。ただ、彼女の隣に居たいだけだった。

「なんでって……、だめだったの? 昨日、きみと一緒に居て、いいのかなって思ったんだけど」

 彼女がつづりが逃げた分の距離を詰める。永遠であればいいと願った昨夜が最後になるなんて、いったいどんな皮肉だろう。つづりにとっては手放しがたい夜だったのに、彼女はもう満足とでも言いたいんだろうか。その証明が、この絵なんだろうか。

「昨日の僕の、どこが君にそんな勘違いをさせたんだよ」

 キッと濡れた瞳で彼女を睨みつける。傷つけたいわけじゃなかったのに、誰より幸せで居てほしいのに、頭の中がぐちゃぐちゃで彼女の顔すらうまく見えない。

「え、だって」

 瞬きをすると、視界が鮮明になって、代わりに熱い雫が頬を伝った。彼女の真っ赤な瞳と正面から視線が交差する。

「だってきみ、私のこと、好きでしょう」

 世界から、音が消える。ピーン。耳鳴りがやまない。彼女の言葉が頭の中をぐるぐると回る。だってきみ、私のこと、好きでしょう。ひく、と喉の奥で呼吸が絡まった。ぜったいに、こぼしてはいけない、胸の中に隠したはずの熱が、無遠慮に彼女の前に晒される。じりじりと、肌が焼けるようだった。ぎゅっと、両手を強く握りしめる。その言葉を、肯定するわけにはいかなかった。脳裏を彼女に告白しては玉砕して、それ以降、視界に映ることすらなくなった数多の人間が過ぎ去っていく。ねばついた唾を飲み込んで、つづりはどうにか、ぎこちなく笑みを浮かべた。

「……僕が、君を好き? 寝言は寝ているときに言いなよ」

 彼女が目を見開いている。心臓が痛かった。胸が苦しかった。息ができないくらい、彼女のことが好きだった。ほんとのことはうまく言えないのに、嘘をつくときばかり流暢になる自分が嫌だった。

「僕は、君のことなんて大嫌いだ」

 彼女の小さな唇が震える。「え」落ちた声は、頼りない響きだった。握りしめた両手が痛い。これ以上何もこぼさないように奥歯をかみしめる。どうして、こんなことになったんだ。昨日から何度目から分からない問いが、頭の中を満たす。

「……そ、っかぁ。きらい、かぁ」

 彼女はうつむいて、つづりの言葉を繰り返した。ぽつ。足元に一滴、何かが落ちる。それが一体なんであるのかを理解する前に、彼女は顔を上げてしまう。頬を伝う、透明なしずくに、時間が止まったような気がする。

「ごめんね、つづり」

 緋猩、と。呼ぶはずだった声は、彼女の謝罪に飲み込まれた。ごめんね。もう一度、呟くように告げて、彼女はつづりの脇を通り抜ける。一瞬遅れて伸ばした手は、あっけなく宙を切って。ぴしゃりと、美術室の扉が閉まった。

「――――クソ」

 自分に向けて放った悪態は、どこにも行けずに美術室を転がる。つづりは、ずるずるとその場にしゃがみこんだ。滲んだ視界の端に映るひまわりは、いっそ切り刻みたいくらい――美しい絵だった。

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