第6話 深夜テンション
グサリ。心臓に刺さった棘は抜けないまま、いかにも明音のセレクトらしい胃に重たい夕食を終える。彼女に誓った通り、素野にはほとんど話しかけず、横にいた明音とばかり話していたから首が疲れて、少し痛い。痛む箇所を抑えながら見上げた時計は、午後八時過ぎを示している。
(まだ、眠るには少し早いかな)
もう一度、美術室に戻って作業をするだろうか。片付けじゃんけんを華麗に制し、椅子に座って談笑している三人に視線を向けて、つづりは小さく苦笑する。
(とても、そんな雰囲気じゃなさそうだね)
彼女の絵の進捗がいかほどの物かは分からないけれど、今日は一日中かなり集中して描いていたようだし、この後は寝るまで楽しくおしゃべりになるだろうか。ちゃんと最後まで、不自然にならないように笑っていなくちゃいけない。普段の自分がどんな顔をして彼女に向き合っていたのか思い出せないまま、つづりはにこりと笑みを浮かべて三人のもとへと戻る。
「この後は、どんな予定なの?」
合宿を企画したのは素野だと聞いているけれど、まさか直接問いかけるわけにもいかないから、自然と視線は彼女に向いた。
「特に決まってなかったと思うけど……」
彼女は答えを求めるように、素野に視線を投げる。
「うわ、もうこんな時間じゃんー。私、そろそろ帰らなきゃ」
「あ、そっか。ひまちゃん、外泊は許可出なかったんだっけ」
「そー。お兄が帰ってきてるせいでね。ほんと、シスコン」
心底、忌々しそうに言葉を続ける素野を追うように、明音も立ち上がった。
「んじゃ俺送るわ。家ちけーし」
「あの距離を近いって言えるの体力お化けすぎじゃない? さすがに」
「チャリで二十分は近いでしょ」
「いや遠いよ。あんたのチャリいいやつじゃん」
わいわいと言葉を交わしながら、二人はそろって帰り支度を始める。
「え、二人とも帰るの? じゃあ、僕も」
さすがに、高校生の男女が二人で残るのはまずかろうと、腰を浮かせたつづりに素野の声が突き刺さった。
「何言ってんの? 学校に緋猩ひとりで残すとか危ないじゃん」
こいつ正気か? みたいな顔を向ける素野に対し、つづりも同じ顔を返す。
「その感覚があるなら、男と二人で残す危険性についても考えようよ」
「キミはだいじょぶでしょ」
「なんの根拠があって?」
「え、じゃあ、なんかできるの?」
素野はまんまるく目を見開いて口元に指を開いた手をもっていく。明らかに馬鹿にしている仕草だ。つづりはぎゅっと眉間に皺を寄せる。こいつ、さっき、しおらしい顔してたのも演技か?
「そういう話じゃなくて、常識の話を「ねえ」
つづりの反論を、彼女の声が遮る。内臓の内側に、氷を押し当てられたような感覚。
(さっき、約束したばっかりなのに)
もう、守れなかった。
きっと今度は許されない。
絵の題材としてすら、求めてもらえないかも。
震えるつづりの袖口を、彼女をそっと、細い指で引いた。釣られるように、つづりの瞳が彼女をとらえる。
「ねえ、つづり――――」
「あははっ! 見てみて! 色が変わった!」
はしゃぐ彼女の手元で直前まで青白かった火花が赤に色を変える。一体、どんな冷たい言葉が飛び出すかと身構えたつづりに彼女が吐いたのは「花火が、したい」なんて、とても叱責とは思えないおねだりだった。緊張していた分だけ拍子抜けしたつづりは、普段の態度も忘れて「……いいけど」と答え、そのまま彼女に引きずられる形でコンビニに売っていた一番大きな花火の袋を購入し──なんとなく格好つけたくなって支払いは全額つづり持ちだ──こうして、全力で笑う彼女を目にしている。
「ほら、つづりも!」
「はいはい」
シュワア。弾けるような音を立てながら、手元で火花が爆ぜる。忍び込んだ屋上はすっかり暗くなっていて、花火の光が不規則に彼女の横顔を照らした。なめらかな頬の輪郭が花火の光に浮かび上がっては消える。それをぼうっと、隣で眺められるのが、なんだか夢みたいだった。
「つづり!」
彼女がまっすぐな声で、つづりを呼ぶ。
「なあに」
つづりは、ほかに誰もいない屋上でその声に応える。
「楽しいね!」
顔をくしゃくしゃにして笑う彼女は、泣きたくなるくらい可愛くて。この笑顔を世界中に見せびらかして賞賛させたい気持ちと、生涯独り占めしたい気持ちがせめぎあって、頭の中が忙しい。
「そうだね。楽しいね」
新しい花火に火をつけながら、つづりは笑みを浮かべた。本当に、この夜が永遠であればいいと願ってしまうくらい、楽しくてたまらない。
緋猩。
呼びかけそうになったつづりを、唐突に虹色の光が照らしだした。
「わっ! おっきな花火!」
彼女の声に少し遅れて、ドン、と大きな音があたりに響く。そういえば、今日は学校の近くで花火大会があるんだっけ。夏期講習の最中、話題に上がっていた気がする。川沿いに並んでいる光は屋台の物だろうか。屋上の手すりに駆け寄って、空を指さしながら、彼女が振り返る。
「ね、きれいだね、つづり!」
名前を呼ばれるだけで、心が浮足立って、頬が緩む。
「そうだね」
同意を返すと、彼女が嬉しそうに笑う。その顔が、あんまりに邪気がなくて素直な表情に見えるから、まるで隣に立つことを許されているような気持ちになった。
(さっき、思い知らされたばかりなのに)
恋をする脳内はいつだって、希望的観測に満ちていて。
うだるような夏夜の暑さが、ささくれのように痛む心臓の棘を溶かしてしまうから。
(せめて、この夜が明けるまでは、彼女の隣に立っていたい)
手招きをされたわけでも、言葉にして呼ばれたわけでもないのに、つづりは一歩、彼女に向って踏み出した。結局呼べなかった名前の代わりに、いつも、意識してあけていた距離を詰める。ほんの少し動けば、肩が触れてしまいそうなくらい近くに立って、視線だけはじっと花火を見つめる。
「たのしいね」
吹き付けた風が、彼女の髪をさらって、後を引かない甘い香りがつづりの鼻先でじゃれた。
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