第5話 ただ、きみが好きなだけ

 どうして、こんなことになったんだ、とさっきよりも随分と重いため息がつづりの口から落ちる。そっと向けた視線の先では、彼女の白い髪が不規則に揺れていた。彼女が歩くときは、いつだって、その白髪が自由に揺れて後を追いかけているものだけれど、今回ばかりは跳ねている理由が違う。はぁ、とつづりはもう一度息を吐いて、そぉっと、彼女の背中に声を投げた。

「あのー?」

 緋猩さん? と名前を呼びかけようとして、でも気恥ずかしさが勝って、つづりは口をつぐむ。それでも振り返ってくれた彼女はむぅ、と子供みたいに唇を尖らせていた。

「なにを、そんなに怒ってらっしゃるので?」

 聞いた瞬間、キッと睨みつけられて、これは悪手だったらしいと悟る。けれどまあ、後悔先に立たず、と言うように、口に出した後で気が付いても何の意味もない。

「えと、ごめん」

 何が悪かったのか、まるで分からないまま、つづりはとりあえず謝罪を口にする。自然に上がった両手は顔の横で降参のポーズをとった。我ながらどうかと思うけれど、好きな子が怒っていたら、そりゃあ全面降伏もしたくなる。

(ていうか、ほんとに、なんで怒ってるんだ?)

 明音が大仰な口調で語った通り、いくら学校といえど、夏休みまで食堂が動いているわけもなく、購買が開いているはずもない。このままじゃ夕飯を食べ損ねることに気が付いたつづり達は──最初から気づくべきだったが──とりあえず、コンビニで何か食べるものを調達してくる買い出し組と、家庭科室で食器やカトラリーを準備する居残り組に分かれて夕飯の準備をすることになった。じゃあ、役割分担を、となったところで、彼女が真っ先に買い出し組に立候補して、そこに「俺! 俺もコンビニ行きたい! つか、緋猩さんともっとお話ししてみたい!」と明音が元気よく手をあげた。だからこそ、さっきまでつづりは不本意ながら、素野と二人きりで食器の準備をしていたわけだ。

(まあ、べつに、悪くない時間だったけど)

 回想を終え、つづりは目の前の彼女に意識を戻す。相変わらず、唇を尖らせて腰に手を当てた彼女の様子に変化はない。謝っても、特に効果なしか。次はいったい、どうしたものか。頭を悩ませるつづりに向けて、彼女は小さく口を開いた。

「…………いつのまに、ひまちゃんと仲良くなったの」

(ひまちゃん? ……あぁ、素野さんか)

 苗字しか認識していなかった素野と、彼女の表情が結びついた瞬間、彼女が怒っている理由に思い至る。大事な親友だと素野は臆面もなく語った。片方がそう言えるなら当然、彼女の方も同じように感じていても何もおかしくない。

(そりゃあ、怒るよね)

 素野が朝からずっと、喧嘩を売ってきていた理由と同じだ。大事な親友に近づくやつはみんな敵。いくらつづりが、絵の題材として彼女に熱烈に求められていようと、人間として必要とされている素野には勝てない。そこに手を出すのは、超えてはならない一線だ。

 つづりが、彼女に手を伸ばしてはいけないのと、同じように。

「ごめん。でも、君の友達を、盗るつもりはないよ」

 つづりはそっと腰を折って、彼女と目を合わせた。うつむく彼女の瞳にはいつものような覇気がなくて、心臓の奥がぎゅっと痛くなる。そんな顔をさせたのは自分なのに、そんな顔しないでと身勝手に願ってしまう。笑っていて。誰にも、ぜったいに傷つけられない場所で。好きな人たちだけに囲まれて。幸せでたまらないって顔で、ずっと。

(ただ、笑っていてほしいのに)

 その、幸せで夢みたいな世界に、自分はいないのだろう。そう気づいてしまうから、それ以上言葉がでなかった。

「ひまちゃんと、仲良くしてるのやだ」

 彼女の細い声が続く。

「うん。ごめん。もうあんまり、近づかないようにする」

 答えながら、胸の中心に穴が開いて、そこを風が通り抜けるような感覚に襲われる。痛くて苦しくてさみしかった。あんな風に、君が世界で一番美しい、みたいなことを言ったくせに、大事な人に近づけさせたくないくらい、彼女にとっての自分が嫌な奴であることが悲しかった。そんなことはないよと、言いかけて、飲み込む。

「──っ、……ごめん」

 代わりに、もう一度、小さく謝った。

 ただ、その視界に映っていればよかったのに。

 ただ、言葉を交わせれば満足だったのに。

 それで充分だと、思っていたはずだったのに。

(僕はいつから、彼女の隣に立つ、なんて分不相応な夢を見ていたんだろう)

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