第4話 あぁ、なんて。最悪なタイミング

 なんでこんなことになったんだ、とつづりは朝から何度も繰り返した問いをもう一度、頭の中に吐き出す。口から零れそうになったため息はぐっと飲み込んで、ちらりと隣に視線を向ける。黙々と食器を拭き続けるのは、何度見直しても彼女ではなく素野で。つづりの脳内に、なんでこんなことになったんだ、が再度浮かんでは消える。

「んはっ。むかつく視線―」

 笑いながら毒を吐く素野の視線は相変わらず食器に向けられたままだ。

「別に見てない」

「うっそだー。なんで緋猩じゃなくて、こいつが隣にいるんだーって目ぇしてたじゃーん」

 無駄にむかつく間延びした喋り方につづりは露骨に顔をしかめる。

「別にしてないよ。なんで、あんたと二人なんだとは思ってるけど」

「んは、めっちゃ嫌われてんね? 私」

「あんたも僕のこと嫌いだろ」

 お互い様だ、と言葉を続ければ、何が愉快なのか素野はけらけらと笑った。言動の読めなさにつづりは益々苛立つ。

「はー、笑った。そんな素直に嫌いですって言えるなら、さっきも一緒に行きたいって言えばよかったのに」

 素野の言う『さっき』が、つい数分前の会話を指していることに気が付いて、つづりはぎゅっと眉間に皺を寄せた。

「別に行きたかったわけじゃない」

「うんうん、緋猩と一緒に居たかっただけだもんね」

 突然投げられたナイフのような言葉につづりの手から力が抜ける。「は」零れた声は、素直にうなずいているのと同じくらい無防備な響きだった。からん、と落ちたフォークが小さく鳴る。心臓が脈打つ音がうるさい。

「なん、で」

 呆然と返した視線の先で、素野の瞳が驚いたように見開かれる。初対面の素野に分かるくらいの何かが、零れていたのだろうか。

 だとしたら、もっと関わりのある彼女には――――?

(もうとっくに、バレてる?)

 浮かんだ可能性は、息がうまく吸えなくなるくらいの衝撃をもって、全身を貫いた。ぴくり、と指先が震える。彼女の真っ赤な瞳が、どこからか、自分をじっと見つめている気がした。罪人の、罪過を暴く、地獄の業火が宿った彼女の瞳が。

「ごめん」

「え」

 まっすぐ、九十度に腰を折った謝罪が、唐突に向けられた。

「ごめん。そんな顔、させると思ってなかった」

 ごめん、と素野はもう一度言葉を続けて、さらに深く頭を下げる。

「え、いや、べつに、謝られるようなことはなにも」

 さっきまでじわじわと遠回しに喧嘩を売ってきていたのがウソみたいに真摯な態度だ。え、あれ? なんだ、こいつ。つづりのことが好きなのか、嫌いなのか、つづりに好かれたいのか、嫌われたいのか。行動も、思考も、何もかもが自分とはかけ離れていて、予想するのが難しい。未知の生命体過ぎて、いっそ怖い。つづりは泡だらけの手もそのままに、じり、と半歩下がった。

「いや、ほんと、そんな顔すると思ってなくて」

 頭を下げたまま、素野は言葉をつづける。本当に怖くなってきたので、そろそろ頭を上げてほしい。

「好きな人がバレてるってわかった時ってもっと、なんかこう、顔を真っ赤にしたり、ちげーし! ってムキになって否定したり、いっそ開き直ったり……そういう反応すると思ってたから」

「とりあえず、その三択だと、開き直るが一番ない」

「んは、そーね。つづりさんはムキになって否定するタイプっぽい」

「勝手な憶測」

「んはは、ま、そういう態度になるかなーと思って、喧嘩を売るくらいのつもりで聞いたんだけど、まさかそんな、世界の終わりみたいな顔されるとは」

 ほんと、ごめんね。顔をあげた素野は最後にもう一度謝って、食器を拭く作業に戻る。

「ちなみに、緋猩は気づいてないと思うから、だいじょうぶ。たぶん」

 つづりも落としたフォークを洗いながら、小さく言葉を返した。

「あ、そ」

 本当は安堵でへたりこみたいくらいだったけれど、素直にそんな反応を見せるのは癪だった。だから、朝からずっと気になっていたことを代わりに声に乗せる。

「素野さんて、なんでずっと、僕に喧嘩売ってくるわけ」

 ちらり、と投げた視線が、今度は交差する。

「んは、なんでってそんなの、大事な親友狙ってる奴は、とりあえず全部、敵じゃん?」

「いや『じゃん?』って疑問形で聞かれても、僕は一ミリも同意できないんだけど」

「えー? つづりさんだって、明音に近づくやつがいたら、クズじゃないかくらい確かめたくなんない?」

「この話の流れで明音が出てくるの心外」

「んははっ。辛辣―」

 ふ、とつづりも思わず笑みを浮かべる。まあ、たとえ話は置いておくとして。そんな風に、大事に思ってくれる誰かが彼女の隣にいることに安堵する。

(なんて、何様だって話だけど)

「はい」

 洗い終えたフォークの最後の一本を素野に手渡す。

「どーも」

 素野はそれを、笑って受け取った。

「ま、私の審査的には、つづりさんは合格かなー」

「何目線なの、それ」

「んはは、親友目線!」

 手を洗って、素野に向き直る。まっすぐに見つめた素野の瞳から、もう嫌悪の色は感じない。美術部の夏期合宿は明日の夕方まで。あと二十四時間弱残っているその期間、ピリピリした空気にはならずに済みそうだ、とつづりは小さく笑った。

(あ。ほっぺのとこ、絵具飛んでる)

 さっきまで見えていたのとは反対の頬についた水玉の汚れを教えてあげようと、つづりが素野に手を伸ばした瞬間。まるで、狙いすましたように、ガラリと家庭科室の扉が開いた。

「なに、してるの」

 聞こえた声に、視線を向けると。コンビニの袋を足元に落とした、彼女が目を見開いてこちらを見ていた。

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