第3話 きっと、キミだけが知らないこと

「っハーッ! すずしー!」

 美術室に一歩足を踏み入れた途端、明音が大きな声で叫ぶ。まともに働いているエアコンの風を全身で受け止めるように、明音は両手を大きく広げて目を閉じる。ほんとに大げさだね、と口では呆れながら、つづりも床に荷物を置いて深く息を吐いた。今日の外気温は、どうやら三十五度を軽く超えていくらしく。そんな日に泊りの荷物を持って通学路を歩いてきたら、そりゃあ全身が汗でぐっしょりと濡れる羽目になる。美術室を満たす冷たい空気が張り付いたシャツと肌の間に入り込んで、体を冷やしていく。ようやく、人間の生存が許される世界に来たって感じだ。

「あれ? 飛び入り参加者、つづりさんだけじゃなかったんだ」

 つづりと明音が文明のすばらしさに感じ入っているところに現れたのは、黒い髪を頭の高いところで括った女子生徒だった。背は男子生徒の中では比較的低い部類に入るつづりと同じくらいで、すらりと長い脚がずいぶん短く折られたスカートから覗く。

(彼女が言ってた、僕を誘わないと怒る人って、素野さんのことか)

 夏期講習の最後の日、彼女に誘われた『美術部の夏期合宿』とやらは、どうも、彼女の絵がメインを飾る展示会用の絵を完成させることを目的にしているらしい。当然、美術部の部員でもない自分が参加するのは意味が分からないし、面倒くさいからいやだ、とにべもなく断ったつづりを彼女が「でも、もうとっくに締め切り過ぎてるし、きみを誘えなかったら、私が怒られるんだよ。いいの?」と謎の圧力で説得して今に至るわけだが。

 あの女王様みたいな少女が何に怯えているのかと思っていたけれど、確かに目の前の女子生徒は怒ったら怖そうだ。

 妙に納得しながら、つづりは入ってきた女子生徒に向き直る。

「あぁ、そっか。素野さんも美術部なんだっけ。ていうか、なんで『さん』づけ?」

 それも、下の名前に。

 他人との距離が近いんだか遠いんだか、まるで分からない。

「んはっ。つづりさんも『さん』付けじゃん」

「いや、苗字に『さん』付けは初対面だと妥当じゃない?」

「初対面って。一年の時同じクラスだった仲なのに、冷たいなあ」

「ほとんど喋ったことないだろ」

 お互い、別に授業をさぼっていたわけではないけれど。課題で同じ班を組むこともなければ、席が近くなったこともない。どちらも、友達百人できるかなのテンションで無暗に他人に声をかけるようなタイプでもなく。結果としては、一年間、苗字を呼び合うことすらなくクラス替えの時期がやってきた。

 つづりにとって、素野は、そういう、距離感の遠い『元』クラスメイトだ。

 間違っても、下の名前で呼び合う関係だった覚えはない。

「そーね。そーだね。ま、ぶっちゃけ、あの子がずーっとあんたの話をしてるから名前を覚えちゃったってだけなんだけど」

「あの子?」

 唐突に出てきた第三者の影に、つづりは首をかしげる。耳で名前を覚えてしまうほど自分を話題に出すような人間に心当たりはなかった。

「んは、そーいう反応?」

 ふぅん、と値踏みするような視線をなげてから、素野はにっこりと笑みを浮かべる。ほとんど初対面に近いつづりにもわかるような、はっきりとした愛想笑いだった。細められた瞳に滲む敵意──のような色──につづりも顔をしかめる。今の会話で、そんな目を向けられるのは心外だった。

「なに」

 なんか、文句でもあるの? と続きそうになった言葉はかろうじて飲み込む。さすがにそれは、喧嘩を安く買いすぎな気がした。素野は「んー?」と首を傾げたあとで、つづりとまっすぐに目を合わせた。彼女の瞳とは正反対の、輝きのない藍色の目だ。

「キミ、受け取るの下手くそだね」

「は?」

 短く、低く、言葉を返す。眉間には自然と深く皺が寄った。今、初めて会話をした人間に何かを下手くそだと評されるのは気分のいいものではない。

「え、なに。俺が荷物置いてる間になんでお前ら喧嘩してんの? こわっ」

 ぽりぽりと駄菓子を嚙みながら明音がつづりの隣に並ぶ。

「なになに、どったの。お前ら、二人ともそんな喧嘩っ早いタイプじゃないじゃん」

「食べカス、ちゃんと片付けなよ?」

 喋りながら食べるせいで、床に駄菓子のかけらがぼろぼろと転がる。小さな子供が食べ散らかした後のような惨状に、つづりの声にはため息が混じった。

「つづり、たまにおかんみたいだよな」

「君が子供すぎるんじゃなくて?」

「いやいや、お前がおかん過ぎるから、俺が子供になっちゃうだけだって。な? 素野」

「んはは、明音はずっと子供だよ」

「なんでお前ら、俺を虐める時は意気投合すんの? さっきまでバチバチだったじゃん」

「意気投合って言葉の意味、辞書で調べてきた方がいいよ。ていうか、二人は知り合いだったんだ?」

 つづりは明音に視線を向ける。「ん?」と首を傾げたあとで、彼は中途半端な笑みを浮かべて、目を伏せた。

「まー。中学いっしょですから」

「なんで敬語?」

 その、横顔に落ちる影には、気づかないふりをして。つづりはいつもの調子で明音を半目で見やる。「あはっ、なんとなく?」と明音も素知らぬふりで笑う。よかった、と思いながら投げた視線の先で、素野だけがじっと睨むように明音を見つめていた。


「はいはい! ちゅうもーく!」

 絵筆の走る音と、つづりが捲る文庫本のページが擦れる音だけが聞こえていた美術室に、明音の大きな声が唐突に響く。

「うるさ……」

 思わず呟いたつづりの言葉にまさか傷ついたわけでもないだろうに、明音はよろよろとわざとらしくその場に座り込んだ。否、へたりこんだ、と言った方が正しいだろうか。少し前に日が落ちて、室内が暗くなり始めていたのも相まって、その姿には哀愁すら漂って見える。

(陽気なバカだと思ってたけど、演技の才能あったんだ)

 もはや、ツッコミを入れるのも面倒で、つづりは頭の片隅にうかんだ思考に逃げ込む。

「明音、相変わらず騒がしいねぇ。なにがあったわけ?」

「よくぞ聞いてくれましたッ! っていうか、ほんとに、みんなちゃんと聞いて。まじ、残念なお知らせだから」

「君がそうやって大げさに前置きすると、途端に聞く気が失せるんだけど」

 なんというか、その前振りだけで、実はしょうもないことでした! というオチが見えるような気がする。

「ほんと、今回はまじで大変だから!」

 つづりは小さくため息をついて、開いたままだった文庫本に仕方なく栞を挟んだ。これはもう、彼の話を聞くまで解放されないだろうと経験則から知っている。明音と中学時代からの付き合いらしい素野も早々に絵筆を置く。ちらりと素野とは反対方向に視線を向けると、彼女はまだ絵を描いているところだった。

「ね、君も」

 すい、と彼女の視線がつづりをとらえる。ぱち、と瞬く瞳が本当に、何もわかっていなそうだから、つづりは小さく笑いかけて明音の方を指さした。

「あれ? 明音くん、帰ってきてたんだ? 学校探検どうだった なんか面白いものあった?」

「ぁあ、うん。今さっきね……。じゃなくて、聞いてほしいんだってば」

「もうとっくに聞こえてるし聞いてるよ。早く話せ」

「えーん、つづりくん、言い方が冷たい!」

 わざとらしい泣き真似につづりは絶対零度の視線を向ける。

「はいはい、わかった。ちゃんと本題に移るからそんな骨の髄まで凍り付きそうな目で見ないで? ……ええと、んんん」

 仕切りなおすようにひとつ、大きな咳ばらいを落として。

 明音が神妙な口調で語り始めたその『本題』は、確かに重要かつ命に関わる問題だった。

「今日の、夕ご飯が、ありません」

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