第2話 その魂に、恋をしている
「いやだよ、面倒くさい」
つづりはにべもなく断って、お弁当箱を鞄にしまった。勝手に座席を拝借して座り込んだ彼女は唇を尖らせて、不満を垂れる。
「きみはいったい、何が不満なのさ? この私が、自ら足を運んで、きみの瞳を描かせてくれってお願いまでしてるんだよ? 当然返事は『はい! 喜んで!』一択でしょう」
「どうして君のお願いだからなんて理由でそんなことを承諾しなくちゃいけないんだよ。君、どこのお姫様なの?」
「お姫様じゃなくて、天才様だよ。まったく。私に描かれる栄誉を……栄誉? 喜び? ……ええと、こう、ほら! なんか自慢できる感じ? が分からないきみじゃないでしょう」
「それ、前後の二つはだいたい同じ意味じゃないの」
「そう?」
「君の解釈は知らないけど。僕にとってはだいたい一緒」
「じゃあ、栄誉でいいや。きみ、私に描かれる栄誉が、分からないわけじゃないでしょう」
じゃあ、いいや。というのはなんだか腑に落ちない言い方だったし、せっかく逸らした話題に強引に戻されたのも癪だ。そもそも、その『分からないわけじゃないでしょう』という信頼の仕方もつづりには気に食わない。
(そんなもの、知ってるわけないだろ)
栄誉なんて、知らない。
喜びだ、なんて思ってない。
こちらを見つめる彼女の瞳は思わず息をのんでしまうほど深い赤色で、じりじりと肌が焼けていくような錯覚にとらわれる。見つめられると目が離せなくて、痛くて、苦しくて、甘くて、つらい。好きな子から求められるのはうれしいのに、その理由が絵の題材にするため、なんて。
ちっとも笑えない。
だって、きっと、その絵を描き終えたら、彼女はつづりへの興味を無くすのだ。
こんな風に、肌が焼けるような熱視線を送っておいて、つづりの中で燻る灰に熱を与えておいて、応えたが最後、彼女は二度とつづりを視界におさめないだろう。
「栄誉も名誉も要らないよ」
ふい、と彼女から視線をはがして、つづりは呟いた。そんな物より欲しいのは。思い浮かびそうになった思考に蓋をする。簡単に浮き上がってこないようにずっしりと重しをのせて。
「じゃあ、何が欲しいんだい。描かせてくれたら、買ってあげる」
体を折って、彼女はつづりの視界に無理やり映り込んでくる。はぁ、と深くため息をついて、つづりは目を閉じた。
「そもそも、君、なんでそんなに僕を描きたいわけ」
特別、美しい見た目をしているわけでもない。姿勢が綺麗なわけでもない。筋肉がすごいとか、背が高いとか、そういう何か特別なものを持っているわけでもない。教室をぐるりと見渡す間に忘れられてしまいそうな自分の、一体何が、そんなに彼女を引き付けているのか。つづりには皆目見当もつかなかった。
「君の瞳には、ひまわりが住んでいる」
唇の端を釣り上げて、彼女は勝ち気に笑う。右手の親指と人差し指で作ったモノクル越しにじっと、瞳を覗き込まれる。ほとんど正円を描く細い指先は白く、真ん中で輝く瞳は赤い。じりじりと瞳から焼けていくようだと、震える唇が細く息を吐き出す。ぽん、と浮いた沈黙をごまかすように、つづりはわざと悠長な瞬きを繰り返した。
「……それ、僕の瞳が綺麗だって褒めてる?」
ただ、言葉を理解するのに時間がかかっただけだと、言外ににじませた言い訳に、彼女が気づいたのか、どうか。
「美しいよ。私の顔と同じくらい」
さらりと付け足された二言目に、つづりはうげ、と顔をしかめてみせた。
「どうしてそう自分の顔に自信があるのかな。君は」
ぱち、ぱち、ぱち、と今度は彼女の方が瞬きを繰り返す。これはきっと、言い訳でもわざとでもなく、素の反応だろうなとあたりをつけて、つづりはほんの少しだけ口角をあげる。彼女の自信と誇りの抱き方は、とてもまっすぐで清々しい。
「どうしてって……。そんなの、簡単な話でしょう」
細い指先を胸にあてて、彼女は何かに向って宣言するように、声高に、言葉をつづけた。
「だって、美しいものを美しいと思うのは、美しい絵を描くための第一歩だもの」
唇の片端を釣り上げたいつもの、勝ち気な笑みが。きらきらと輝いてこちらを見つめる、深紅の瞳が。すとんと落ちる、長い白髪が。吐き出す言葉の力強さが。心臓に誓うように胸にあてられた、美しい指先が。
(……あぁ、好きだなぁ)
彼女を構成する要素のすべてがまぶしくて、愛おしい。零れてしまわないように、きゅっと唇をかんで、つづりは目を伏せる。
「ね、分かる? だから私は、きみの瞳が描きたいんだ」
世界でいちばん、美しいものとして。
囁くような声が頭上から降ってくる。なんて、抗いがたい魅力的な声だろう。なんて、振り払い難いうれしい言葉だろう。胸の奥が、刺すように痛かった。
「……だから、僕は、いやだってば」
だって、君は。
(その絵を描き終えたら、もうこんな風に、話しかけてくることもなくなるんだろ)
長い、長い、夏休みのように。同じ建物の中にいるのに、決して交わることのない生活が続いていくのだろう。そうして、卒業した後にはもう、きっと、思い出されることすらない。
「もう。わからず屋だなぁ、きみは」
「その言葉、のし付けて返すよ」
こてん、と彼女は首をかしげる。
「言葉にのしはつけられないでしょう」
「あぁ、よかった。のしを知らない高校生なんて天然記念物なのかと思った」
「俺知らない!」
はい! と元気よく手をあげて、明音が会話に加わる。さっきまでじっと読み込んでいた本は中盤あたりにしおりが差し込まれて、机の上に几帳面にまっすぐおかれていた。こいつ、今日も本を返す気ないな? とつづりはじっとりとねめつけたが、当の本人はどこ吹く風で彼女に「のしってなに?」と質問を始めている。
「はぁ……のしっていうのは、贈り物の意味を示すために巻く紙だよ。簡単に言うと。明音だって、お中元とかお歳暮とか見たことあるだろ」
「んーーーー? んや? やーーー? あ! あの、包装紙の上にあるやつか! なんか白い紙!」
「そう、たぶんそれ」
「あれ、ノシって言うんだ。初めて知った!」
「はいはい。よかったね」
適当に明音をあしらって、つづりは彼女に視線を戻した。
「君、いい加減に戻らなくていいの? 美術部の活動があるから、学校、来てるんだろ?」
「うん、戻らないと、怒られるかも」
迷子になった子供みたいな、頼りない声で、彼女が答える。さっきまであんなに元気だったのに、いったいどうしたのかと、つづりは彼女の顔を覗き込んだ。「どうかした?」問いかけると、ふい、と視線をそらされる。
(え)
見つめられたことはあっても、逸らされるのは稀で、つづりは内心だらだらと冷や汗をかく。もしかして、あまりにも断りすぎていい加減、もういいやって興味を無くしてしまったんじゃ。いや、それにしては浮かない顔になるタイミングがおかしい。あれ、じゃあ、なんでだ? 明音と喋っていたのが気に食わなかった? なんで?
(……もしかして、)
浮かんだ仮説は身震いするほど恐ろしいものだった。
(明音のこと、好きなのか……?)
「けど」
混乱して固まるつづりの思考を切り裂くように、彼女が細く、声を落とす。
「たぶん、今帰ると、もっと怒られる」
ぱち、ぱち、と今度はわざとじゃなく、悠長な瞬きになった。帰らないと怒られるけど、今帰ると余計に怒られる? 彼女の言葉を頭の中で反芻して、意味を紐解いていく。早く帰らないとダメ。でも、今はダメ。じゃあ、どうなったらいい?
「なにか、やらないといけないことでも、あるの?」
例えば、お使いを頼まれて、寄り道をしないで早く帰ってきなさいと念を押されて家を出たのに、買い物の前に友達と喋りすぎてしまった、みたいな。早く帰らないと怒られるけど、頼まれたものを買って帰らないとさらに怒られる、みたいな? わずかに上がっていた腰を椅子に落ちつけて、つづりは彼女の顔を下から覗き込んだ。
「うん」
(あ。ちょっと、わらった)
彼女の顔が綻んで、引き寄せられるようにつづりの頬も緩む。
「ねえ、きみ、美術部の夏期合宿に参加する気は、ない?」
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