君のただいまを待たせて
甲池 幸
第1話 まるで女王様のような口ぶりで
ずっと、許されるのを待っている。
何かを、誰かを、求めてもいいと。
君にはその権利があって、資格があって、だから、自由に、欲しいものを欲しがっていいんだと。
何かに、誰かに、許される瞬間を、ただじっと、ずっと、待っている。
「あぢー」
言いながら、
「君の口から暑いって聞くと余計に暑くなるからやめてくれる?」
前の席で椅子に横向きに座る彼の起こす風のおこぼれをもらいながら、つづりは首筋ににじんだ汗を拭う。折り目正しくたたまれたハンカチを当てたそばから噴き出す汗につづりの口がへの字に曲がった。
「暑いのは俺のせいじゃなくて、完全にあのエアコンのせいだろー? これなら、窓開けてる方がなんぼかマシだって」
ぐったりと壁に背を預けた明音が指さすのは教室の後方に設置されたエアコンだ。エアーコンディショナー。本来なら冷たい風で茹だるような夏の暑さを和らげてくれる優れもの。けれど今、明音の指さした先にある大きな機械は教室の生ぬるい空気をかき混ぜるばかりで、とてもじゃないけれど、ありがたいと思える仕事をしてくれない。
「つーか、夏期講習中くらい温度下げてもよくね? 夏休みまでガッコー来てんのにこの扱いはまじないわ」
「夏休みまで学校来てるのは君の意志だろ。夏期講習は補習と違って自由参加なんだから」
「そりゃあそうだけどさー。でもやっぱ不安になんね? なんもしてねーのって」
扇ぐ手を止めて、明音は視線で黒板の横に張られたポスターを示す。いろんな職種で働く人々の写真がコラージュされた一面の上に『さぁ、君の未来を探しに行こう』という文言が並ぶ。小学校の卒業文集に将来の夢を書いたときは、それほど悩まなかったはずなのに、より近くなったはずの未来はあの頃よりもずっと不鮮明だ。だというのに、先生から折に触れて話がある『進路』に、勝手に進んでいく季節に、すぐそばでちらつく未来に、ずっと『何かを選べ』とせかされ続ける。もう何を書いたかも上手く思い出せない文集の表紙をそっと閉じて、つづりはぽつりと言葉を落とした。
「……べつに。僕は、なれるものになるだけだから」
なりたいものに手を伸ばすなんて、高望みはしない。欲しいものを叫ぶなんて、馬鹿な子供みたいなことはしない。ただ、淡々と、先生の言うことを聞いて、できることだけやって生きていく。それが、きっと大人になるということで。それがきっと、賢い生き方というやつだ。
「ははっ! それ、聞きようによってはめっちゃ嫌味」
つづりの言葉を軽く笑い飛ばして、明音は首を傾けてつづりを覗き込む。別に嫌味を言ったつもりはないんだけど、とため息を返してながら、つづりは鞄の中からお弁当箱を取り出した。このまま、つらつらと会話をしていたら昼休みなんてあっという間に終わってしまう。特に返事を期待して投げられた言葉ではなかったのか、明音もリュックサックから菓子パンを引っ張り出してかぶりつく。メロンパンのくずが投げだされた彼の足の上に散らばった。黒い学ランの上に散らばる白い欠片はちょっと星空みたいだ。
「お子様みたいな食べ方するよね、君」
「んえ? なにそれ。ほめても、一口あげねーよ?」
「何をどう聞いたら褒めてるように聞こえるんだよ」
はぁ、とつづりはわざとらしくため息をついて冷めたミートボールをかみしめた。
夏休み終盤に設けられた夏期講習は、いよいよ今日が最終日だ。そのせいか、昼休みを迎えた教室はいつもより騒がしい。手元のスマートフォンで日付を確認し、二学期までの日数を指折り数える。あと、もう少し。もう、一桁。ふ、とつづりの口角が無意識に上がった。
(夏休みが終わったら、そうしたら)
やっと、彼女に毎日会える生活が、戻ってくる。
きゅうりの漬物を奥歯でコリコリと噛みながら、つづりはそっと廊下の方に視線を投げた。彷徨う視線は、今日もお目当てを探し当てることができずに空を切る。
(美術部も夏休み中は活動があるって言ってたけど)
美術室があるのは中庭を挟んだ特別棟の三階で、つづりたち夏期講習組が授業を受けているのは教室棟の一階だ。トイレは各棟の各階に一つずつある造りだし、購買も夏休み中は空いていない。つまりは、用事のある棟から出る理由は一つもなく。
(おんなじ建物の中に居ても、やっぱり会わないもんだね)
吐き出しかけたため息をぬるくなったきゅうりと一緒に飲み込んで、つづりは視線を前に戻した。とたん、じっとこちらを見ていたらしい明音と視線が交差する。
「美術部も今日学校来てんの?」
「……なんで急に美術部?」
考えていることが口に出ていたのかと内心だらだらと冷や汗をかきながら、つづりは平静を装って半目で明音を見る。
「えー? なんか、つづりの顔見ると美術部思い出すんだよなー。なんでだろ」
「いや、どちらかと言えば図書室の本には返却期限があるってことを思い出して欲しいんだけど」
つづりと明音は同じクラスだ。さすがに毎日顔を合わせていれば、この延滞常習犯も期限内に返すことを覚えるだろう。何事も反復が大事だ。
「あ、やべ。また返してねーや」
はぁ、とつづりは本気の呆れに話をそらせた安堵を半分混ぜて息を吐く。律儀にウェットティッシュで拭いた手をさらにティッシュでぬぐって、完全に水気を払ってから明音はリュックサックの中の文庫本を取り出した。カバーをかけられた四つ角がもれなくすり減っている古い本だ。最近は大きな特集で取り上げられることこそないけれど、ずっと、あの図書室を入れ替わり立ち代わり訪れる人たちの中でひそかに宝物として大事にされてきたのであろう本。いいセンス、とつづりは口元に笑みを浮かべた。自分が好きだと思っている本を、口角をあげて読みふける誰かを見るのは心地がいい。延滞は悪いことだけれど、それだけじっくり本に向き合ってくれるなら、急かすのは一日一度にしておこうと密かに決める。
だって、声に出してしまえば、彼は絶対に、二度と、本を返さなくなるので。
(ほんと、ちゃんと返してくれさえすれば、いい利用者なんだけど)
図書室で騒がないし、消しカスをまき散らさないし、電話に出ないし。
図書室をファミレスと勘違いしているらしい一部の利用者が頭に浮かんで、つづりは顔をしかめる。
「なぁに、きみ」
ふいに、視界が赤く塗りつぶされた。
「お弁当を食べる時まで不機嫌なの?」
明音が本から顔をあげて、あ! という顔をする。つづりの心臓が、どくん、と強く鳴った。エアコンから吐き出される風はひどく弱いはずなのに、彼女の白い髪はそれになびいて揺れる。後を引かない甘い匂いが一瞬だけ、鼻先をくすぐる。追いかけそうになった指先を、つづりは寸でのところで握りしめた。ぎこちなく、視線をあげて――。
「こんにちは、つづり。今日も変わらず美しいわね」
まるで女王様のように仁王立ちをする彼女と、視線が交差した。
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