第16話 舞視点 過去

 強い夕日が差し込む室内で、何をするでもなくベッドに寝転んでスマホの画面と白い天井を交互に見続けている。意識して換気を行わなかったせいか、ハウスダストがそこら中に漂い日に照らされキラキラと光っている。

 人によっては今すぐにでも窓を開けたくなる様な光景が、今の私には無から湧いて出たありがたい娯楽そのものだった。その娯楽をじっと眺めていただけで、私は長い一日の内の十五分間も消費することが出来た。

 意識して時計を見たわけでは無い。一際キラキラ光るものが光らなくなった後も、じっと見てれば目で追えることに気づいたため追っていたらたまたま時計が目に入っただけだ。

「…どうしようか」

 私の人生は停滞している。

 それはここ数日に限った話ではない。バレエを辞めてから今日までの五年間ずっとだ。


 幼い頃からバレエが好きだった。仮にバレエの神様がいたとすれば、神様も間違いなく私を好きだったと思う。

 不思議と興味を持って始めたバレエの教室で習ったことが、そのまま水を吸うスポンジのように吸収でき、成果が出るからこそ誰よりもひたむきに練習に打ち込めた。

 年齢を重ねる毎に実力も上がり、小学校の三年生の時には全国のコンクールで三位に入賞することが出来た。色んな人から、滝のような称賛をその小さな体で浴びた。


 その年だった、お父さんが亡くなったのは。母はそれでも私に習い事を続けさせてくれた。子供ながらにそれがどういうことか理解していた私は、それからも練習を頑張り続け、次の年も三位、そのまた次の年はニ位に入賞することが出来た。

 来年、小学六年生になっても結果を出し、中学校も高校もバレエを続けていくんだと、微塵も疑ってはいなかった。


 ある日の夕方、私は学校もバレエ教室も終わり家に変える時だった。今にも雨が降りそうな曇り空だったのを覚えている。

 その日はお母さんから予報では夜からひどい雷雨になると聞いていたので、傘は持っていたが少し小走りで帰っていた。

 曲がり角を通る際にカーブミラーで、私の進む方向にトレンチコートを着た髪の長い女の人が歩いて来るのが見えた。

 その日はまだ九月が始まったばかりなのに、あんなコートを着ていて熱くないのかなと思ったが、雨を弾くためのものなんだなと一人で納得した。

 その女の人とすれ違う際、目が合った。あんまりにじっくりと見られたものだから、バレエで賞を取れたことやそれでテレビに出たことで有名になっちゃったのかななんて考えていた。

 その直後、私は頭から道路に叩きつけられた。

 目が覚めると妙に高くて、広くて、真っ白な天井があった。

 起きようとしても体が思うように動かず、やっとの思いで起き上がり、ここがどこか窓の景色で確認しようとした。

 ガラスに写ったのは、背の低いミイラ男だった。


 私の顔を裂いた犯人は、同じ教室に通っている女の子の母親だった。

 その女の子は母親から虐待を受けていたようで、足や腕など目立つ所は無事だったがバレエのウェアで隠れる背中だったりは痣だらけで、家では無茶な母親独自の練習を押しつけていたようだった。

 自らの娘を自身の分身のバレリーナとして輝かせようと躍起になった母親は、同じ教室に通っているのに良い成績を収め続けた私に逆恨みをし、バレエ教室から帰る際一人になったところを見計らい襲った。


 病院のベッドで顔中に包帯が巻かれた状態で警察の人からそれらを聞いた際に、怒りと悲しみで大粒の涙を流した。

 なんてことをしてくれたんだという思いと、これからどうしようという不安がせめぎあい、一人になってからもベッドの中で泣いていた。

 包帯が取れ、後遺症として出来た裂けた口元をマスクで覆いながらもバレエを続けた。

 しかし入院と怪我のリハビリによるブランクとハンデ、襲われたことのトラウマによって私は踊ることを心から楽しめなくなった。

 だがあんなことがあっても踊ることを選んだ私を、周囲は称賛し続けた。

 皆が優しかった。誰もが私に気を遣い、先生はより熱心に教えてくれて、母は傷をハンデにしないため整形まで考えてくれた。

 いつかあの通り魔が脱獄し、舞台で踊る私の喉を裂きにくる夢に叩き起こされることが何度もあっても、私がバレエを辞めることは選択肢には無かった。


 そして迎えた全国コンクール。コンクール運営に事情を話し、特例としてマスクを着用しての演技が認められた。

 出場を控えた私は、舞台袖で強いプレッシャーを感じていた。過去出場した時は緊張は感じていながらも、大勢の前で踊ることに対する楽しみが勝り、ここまで震えることは無かった。


 結果として、私の踊りは過去に類を見ない出来だった。もちろん、悪い意味で。

 舞台袖に逃げるように引っ込んだ私は、そのまま関係者通路にいる母に抱き着き、ただ泣き続けた。

 続けさせてくれたバレエがこんな結果になってしまったことに対する申し訳ない気持ちが溢れ、周りの目など気にせず背中をさすってくれる母の腕の中で泣き続けた。


 その後、順位の発表が行われた。私は全国から出場してきていた娘たちと一緒に舞台の上で並んでいた。泣き疲れ、腫れぼったい目のまま発表を待っていた私は、入賞なんて微塵も期待をしていなかった。

 順位が下の方から発表されていき、名前が呼ばれたことに喜ぶ娘達を横目で見ながらも私の心には何の感情も湧いてこなかった。

 発表される順位が上がっていく毎に会場から上がる拍手の量も大きくなり、司会進行の声にも迫力が感じられた。

『第二位入賞、志村桜』

 盛大な拍手の後に、軽くうつむいた私の前を横切る足が見えた。

 残りは最優秀賞だけ、せっかくだし最後くらいはどんな娘が呼ばれるのか見ておこうと顔を上げた私は、あることを思い出した。


 志村桜…………………あれ?


 たしかここ毎年優勝していた娘がそんな名前だった気が………


『最優秀賞受賞、関口舞』


 ………………私だ。


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 客席は、割れんばかりの拍手で覆い尽くされた。

 客席からカメラのフラッシュがスポットライトを浴びる私を捉えた。瞬いては消え、点滅し続ける様子に公園の鯉が餌を求める様を重ねた。

 横を見てみると、審査員のおじさんおばさんは皆満足そうな顔をして頷いている。

 いつまでも前に出てこない私を見かね、スタッフのお姉さんが私を前に向けて背中を押し出す。横並びの状態から前へ押し出された私は、私の名前の入った賞状を手に持ったお爺さんに向け歩きだす。

 歩き方か、顔つきか、もしくはどちらもがおかしかったんだろう。私を見た女の子たちは皆、最優秀賞の者に対してではない、何か嫌なものを見る目を向けていた。

 長い時間をかけやっと受け取りに来た私に向かい、お爺さんは賞状を読み上げる。

「賞状、関口舞殿。あなたは…」

 本来こういう場では、私は読み上げている人の目を真っ直ぐ見ることが普通なんだろう。しかし私は裏から透けた賞状を、もっと言えば逆さに書かれていた『関口舞』という名前を見つめていた。頭の中は、なんでこの名前がという疑問で一杯だった。


 閉会式が行われ、賞状と渡された花束を手に持った私は通路で待っていた母に会うなり抱きつかれた。

 耳元で「良かった」「頑張った」と声に出し涙する母に、私は小さくつぶやいた。

「ほんとに?」

 母は最初、我が娘が嬉しさのあまり現実かどうかわからない状態にあるのだと思ったんだろう。

「現実だよ!舞は、一番になれたんだよ!」

 言いながら母はポロポロと涙を流し、私を上の空の状態から現実に引き戻そうと肩を揺すってきた。

 私は持っていた花束と賞状を落とす。母は慌てて賞状を拾い上げ、一時間ほど前の泣いていた私にしたように床についた面を手でさすっていた。

「…そんなにそれが大事なの?」

 口から自然と言葉が出てきた。

「…舞?」

 母は何を言っているのかわからない様子だった。

「いらないでしょ、そんなの」

 どうしよう、止まらない。

「ちょっと…何言ってるのよ、せっかく優勝できたのに」

「優勝って…出来てないでしょ…!」

「優勝は優勝でしょう…?」

 あぁ、この人は、一体何を見ていたんだろう。

「…実力で勝ててないじゃんっ!あんな結果で一番だなんて!絶対に認めない!」

「ちょっと舞…落ち着いて」

「何でかわかる!?」

 私は足元にあった花束を思い切り踏み潰した。

「お情けだよ!良い人振りたいおじさんたちが可哀想だって、恵んであげなきゃって渡してきたんだよ!」

「まっ…舞…?」

 潰れた花に向けてただただ地団駄を繰り返す。

「私がっ!何年も!何年も!目指したのはっ!良心とかっ!善意とかでっ、結果の変わる!そんなっ!くっだらない!ものなんかじゃ、なんかじゃあ…!ぐっ…!ゔぅ…、あぁ!!」

 花が多く水分を含んでいたからか、踏む度にグチャグチャと湿った音が出た。

「はぁっ、ふぅ…っ!」

「お願いっ…落ち着いて…」

「私が、私が…!」

 マスクを剥ぎ取り、歯を噛み締めた醜い姿を母に見せつける。

「こんな顔をしてるからっ!」

「…!」

 何度も見ているはずの母も間近では目を背けずにはいられず、賞状を胸に抱えたままうずくまってしまう。

 母を見下ろしていた真っ赤な目からは、もう出ないはずの涙が一滴、頬を伝っていったが地に落ちることはなく、裂けた口元によって止まった。

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