第17話 好転

「――ということがあったの…」

 関口さんのお母さんは、傷のことの他に関口さんがバレエを辞めたきっかけについて詳しく教えてくれた。

「そんなことが…」

 お母さんは最初、俺の目を見て話してくれていたが、関口さんが傷を負ってもバレエを続けたと言ったところから机の木目を凝視し始め、明らかに何かに対し嘆くような表情をしていた。

「あの娘、コンクールが終わってからはバレエの教室も辞めるって言ってね…それからも特に何か興味の持てる物も見つからなかったみたいで…」

 お母さんの視線は、下の机から横の壁に掛けられたいくつもの額入りの表彰状に移っていった。

「…無理も無いことですけど、もったいないですね…」

 言いながら俺も表彰状へ目を向ける。

 あのしわくちゃで水滴を零した様な染みのある表彰状こそが、話に出ていた最優秀賞の物だったんだろう。

「親として、子どもの自由意志を尊重すべきか、まだ小学生ということを重く見て手綱を握るべきか、ギリギリまで決断できなくてね…。もしあの人が居てくれたら…」

 お母さんは、言い終わった後に俺の隣の椅子をチラリと見た。

 おそらく、この椅子は亡くなったという関口さんのお父さんの定位置だったのだろう。

 四人掛けの机で、幼い頃の関口さんの隣にお母さん、真正面にはお父さんが座って三人一家団らんで過ごす、幸せな風景を想像した。

 俺が何も言えないでいると、お母さんは机に手を付いて立ち上がる。

 椅子を引く音が、とても大きく聞こえた。

「…それで、知りたいことは十分知れた?」

「…十二分には」

 お母さんは俺の返答に満足してくれたのか、「それは良かった」と言い笑った。

 その笑顔には様々な感情が感じられたが、先程までの疲れや困った様子、嘆くような調子は薄まって感じられた。

「じゃあ外ももう暗くなり始めてるし、気を付けて帰ってね」

「はい、今日はあっ…!」

 一つ、重要なことを思い出した。

「…?どうしたの?」

「お母さん…すいませんが最後に一つだけお願いが…」


「舞〜!お母さんちょっとスーパーに買い物に行ってくるからね〜!」

 関口さんのお母さんがよく響く声でこれから出掛けることを伝える。そのすぐ後に、上から「は〜い」と明らかに興味の無さそうな返事が届いた。

「ありがとうございます…」

 俺はお母さんにだけにしか聞こえない声量で感謝を伝える。

「いえいえ…あなたも大変ね…」

 お母さんもまた、俺にだけ聞える声量で話してくれる。

 これで俺は堂々と玄関から出られる。

 関口さんのお母さんから「上がって」と言われてはいたが、それで俺がリビングまで入った事実を関口さんがどう受け取るかはわからない。

 これが原因で彼女から破局を言い渡される可能性もゼロではないため、こうして少しでも俺が家に上がっているということを関口さんに悟られない立ち回りが必要だ。

 もし、一階で俺とお母さんが会話をしている声が二階まで届いていたらどのみちアウトではあるが、お母さんが協力してくれるならやっておいて損は無いだろう。


「斑目くん…どうせなら家まで送っていこうか…?」

 玄関で静かに靴を履いていると、とてもありがたい申し出が舞い込んだ。

「良いんですか…?」

「学校から歩いて行ける距離でしょ…?スーパー行くついでだし乗っていきなさい…」

「ありがとうございます…」

 そうして俺は、駐車場にある関口家のシルバーの自家用車に乗り込む。

 ここ最近引っ越してきたということもあり土地勘が無く、一旦は学校に向かってもらうことにした。

「学校からなら案内できますので」

「わかったわ」

 

 車の往来が少ない住宅街から出て、交通量の多い道路へと入ろうとしていた。俺達の前には数台の車が止まっており、お母さんは右折することを知らせるウィンカーを出した。

「…あの、お母さん」

「どうしたの?」

 赤信号に止まっていることでお母さんは少しこちらを向いて横顔を見せた。

「どうして…僕に話してくれたんですか…?」

 自分から教えて欲しいと言っておきながら、全て語ってもらった後の今更になって後悔し始めた。

 俺がつい先程聞いた関口さんの過去は、本当に自分が知ってよかったのかという罪悪感に駆られる。

「どうしてかって……ねぇ………」

 信号が青に変わった事によりお母さんは前を向き、お互いに長い沈黙が続いた。

 右折することを知らせるウィンカーのカチカチとした音だけが車内に響いている。

 俺はただバックミラーから見つめるだけでは答えを催促しているように思われると感じ、ゆっくりと前に進む車の中から見える外の景色に視線を這わせていた。

「…私があの娘について後悔していることはいくつかあるけど、一番後悔しているものがあったの」

 ゆっくりと右折をしながら話しだした。

「それは…?」

「それは、周りの人との縁よ」

 前の背もたれがぎぃっと鳴り、バックミラーに写ったお母さんはどこか悔いてる表情で話し始めた。

「正直…私は昔、あの娘をすごい子だと思ってたの」

「というと…」

「一生懸命に頑張ったバレエで良い賞を何回も取って、地元のテレビもあの子を撮るため何度も学校に来て、担任の先生からはいつもクラスの人気者ですって言われてて」

 お母さんの目は何か眩しいものを見たかの様に目を細くしている。今まさに沈もうとしている夕日だけのせいでは決して無いのだろう。

「自分の娘ながらに、ドラマとか…映画の主人公なんじゃないかって思ってた」

 発する言葉の一音一音を喉から絞り出して言っているような気力の無さだった。

「親バカって思うでしょ?実際、家では私は迷ってる風に言ったけど、あの娘がバレエを辞めるって言ったときもこの子ならどうにか上手くいくんだろうなって思って二つ返事でOKしちゃってたの…」

 家で聞いていた限りだと関口さんが辞めたことは無理のないことに思えるが、お母さんはそれすらも自らの過ちのように語った。

「だから…あの子はバレエが無くても、いい友達に恵まれて、いつかは恋人も作って、特別すごいって訳じゃなくても…ずっと幸せになっていくんだろうなって、信じてたの」

 なのに…と続けたお母さんの次の台詞が、俺はなんとなくわかった。

「傷…ですか」

 察した俺をバックミラー越しに見たお母さんは小さく頷き、その後に真っ直ぐ前の方向へ目を向けた。

「直接他の人に見られてる訳じゃないんだろうけどね…。あの娘は見られることを絶対に嫌がるだろうし、この家の中でも外さないくらいには慎重だし」

 運転しながら話していたお母さんはしっかりと前を向いていたはずだが、その目は前を走る車や信号機を写さずに、どこか遠くを見ているようだった。

「劣等感…って言ったら良いのかな。それがあるからなのか、あの娘は自分のことも周りの人のこともどこか雑に扱ってる節があるのよ」

「そう…なんですか?」

 ハッキリと思い当たる記憶が無くつい聞き返した。

「なんて言ったら良いかな…相手が自分についてわからないなら知って貰おうとはしないし、逆に自分が相手についてよくわからなくてもそれでいいってスタンスなの」

「…秘密主義ってことですか?」

「それが近いかな。相手と深い仲になることが怖いんだと思う」

 関口さんについて『縁』で後悔しているとはそういうことだったのか。

「人と仲良しになりたがらないのよ。実際、小学生のとき以来なのよ?うちに舞に会う目的でお客さんが来たの」

 家庭訪問とかは別だけどと言ったお母さんは笑顔を見せており、突然の俺の来訪はどちらかといえば歓迎されていたようだった。

「だったら…整形か何かで顔を直せば良いって思うでしょ…?」

 お母さんは、どこかためらった様子で口にした。

 先程からそうだったが、関口さんについて話すときのこの人は、話の内容によって表情だったり仕草だったりがころころと変わる。

 それほどまでに感受性が豊かな人なのだろう。

「…デリケートな問題ですからねぇ」

 赤の他人がとやかく言える話題では無かったため、俺は言葉を濁した。

「そうよね…」

 お母さんも、それ以上は口にしなかった。

 俺は、関口さんが傷を整形で隠した後にクラスへ復帰することを想像してみたが、とても彼女がそうするとは思えなかった。

 整形することに反対するつもりは無いし、それが一番早く解決するのだろうが、それは『他人に自身を知ってもらう努力』にあたるだろう。

 お母さんの言っていることを全て鵜呑みにする訳では無いが、関口さんがそれを望んですることは本当に最後の最後まで無いのだと思う。


「…ところで、俺に関口さんについて話してくれたのは結局、久々に関口さんと繋がった『縁』だからってことですか?」

 俺の質問にお母さんは「そうねえ」と言ったっきりその後が続かず、深く考えている様だった。

 お互いが沈黙を続ける中で車は、またも赤信号で止まった。

 お母さんが大きく背もたれに体を預けたことでバックミラーから顔の下半分が写り、口元が動き出したのが見えた。

「斑目くんがあの娘に……一目惚れ、したって言ったところかな」

 俺は一瞬、縁って縁結びの方の縁なのか、と思った。

「そこなんですか…?」

 バックミラーに写ったお母さんの顔は上下に揺れており、口元は笑みを保っていた。

「斑目くんが本当のことを言っているのはなんとなくわかったし、あの娘が不登校の現状を自分なりにどうにかしたいってのが伝わってきたからね」

 お母さんの口振りからすると、俺が恥ずかしげもなく告白について話したことは唯一の正解だったらしい。

 自分の判断が合っていたことに安堵の息を漏らしている俺に、お母さんは「それに」と続けて姿勢を正し、バックミラーからこちらの目を見つめていた。

「斑目くん、あなた…舞について知りたいのは『告白したけど返事がまだだから』って言ってたけど、それだけじゃないんでしょ?」

 反応を見るためか、二つの目は鏡越しにじっと目を合わせている。

「…どうして、そう思うんです?」

 俺が言い終わる頃に前の信号は青に変わり、お母さんは前を見つめた。

「最近のあの娘…不登校になる前ね、とても…楽しそうだったの」

 真っ直ぐ前を向いていた目は段々と細くなり、ここ最近の関口さんのことを想起している様子だった。

「家の中でもよく笑うようになっていて、どこに行くかは話したがらなかったけど、休みは外に出掛けるようになっていて、あの娘の中で何かが変わっていってるって確信できたときはそれはそれは嬉しかったんだから」

 俺はいつかの、朝比奈さんが言っていたことを思い出した。

『それでも、あの娘の中で何かしら大きなものが変わってるってことなんだと思うよ』

 俺の口元は自然と緩み、バックミラーからお母さんにそれを悟られないよう手で顔の下半分を覆う。

「あなたが舞に告白したって聞いたときに、思ったのよ。あぁ、この子だったんだって。ずっと知りたがっていた、舞にとっての大事な『縁』なんだって」

「…そんな風に思って頂けていたなんて、知りませんでしたよ」

 自分という人間が貰った第三者からの評価が、純粋にとても嬉しかった。

「斑目くんは、これからもあの娘と…舞と仲良くしてくれる…?」

「もちろんですよ」

 関口さんへ何があっても味方すると言ったんだ。俺からその言葉を嘘にしてどうする。

 俺の言葉を聞いたお母さんは小さく「良かった」と呟いた。

「それじゃあ今後とも…あの娘を宜しくね」

「…え?」

 俺は、今のお母さんからの言葉がどういう意味を持つのかが非常に気になった。

「宜しくってことは……その…」

 言葉を上手く紡げないでいる俺を見て、お母さんは微笑んでいた。

「私としては…あなたには是非とも頑張ってほしいって思ってるとだけ言っておこうかな」

「…努力します」

 図らずとも俺と関口さんは親公認の仲となった訳だが、素直に喜んでいいのかわからなかった。

「あの娘が家に閉じ籠もるようになって、この先どうしようって心配だったの…」

 お母さんはどこかしみじみと話す。その後に「でも大丈夫よね」と続けて言った。

「あの傷を見ても、気にせずに好きになってくれてる人がいるんですもの」

「…!」

「後五年もすれば、斑目くんが私のことを『お義母さん』って言う日が来るのかもね」

 お母さんは笑っていた。

 俺がマスクの下を既に見ているものだと思っていた。

「…あの」

「学校の近くに着いたんだけど、知ってる道はある?」

「………奥の交差点を左に曲がってください」

 俺の心には、出発してすぐのときに感じていたものとは別の罪悪感が残った。


 好きな人に影響を与える。

 人に恋をしたとき、多くの人が遠からず目標にすることだろう。

 現実は恋愛漫画とは違い、相手が自分のことを都合よく好きになってくれるなんてことはまず有り得ない。

 だからこそ、なんてこと無い朝の挨拶を交わしたり、偶然を装い接近してみたりといった小さな小さな行為により、相手に自身の存在を認識してもらうことから恋は始まる。

 好きな人には自分のことを好きになってもらいたい、自分との関係が有益なものだと思ってもらいたい、自分の言動で笑顔したいと思うことは、ごく自然な思考だ。

 実際に付き合っているかは関係ない。

 自身の癖が相手に移ったのを見たときなんかは、至上の喜びを感じるものなのだろう。

 

 それが良い影響なら尚良しだが、それらが与えられずに物陰からただ見つめているだけでは我慢ならなくなった者にとって、自分でも悪い影響だとはわかっていても抑えが効かない例は、少なからずある。

 男子が好きな女子にイタズラをすることから始まり、小さな嫌がらせから悪質なストーカー行為、愛するあまりにDVを行うこともあるのだと言う。心身に付けた傷が、相手にとって自身との思い出となるのだと信じているからだ。

 俺は今まで、少なからず関口さんに良い影響を与えられてきたのだろう。

 彼女のお母さんや朝比奈さんにそのことを指摘されたときは、それはそれは嬉しかった。

 互いに互いを高め合える、素晴らしい関係だったのだ。

 しかし俺達二人は、この関係の名前を知らなかった。

 恋人では決して無く、友人と言うのは深すぎた。敢えて挙げるなら『友達以上恋人未満』という便利な言葉があるが、関口さんは俺の恋心を同情からのものとして捉えており、最初から俺達の間には温度差が存在していた。

 この名前の無い関係をズルズルと続けること一ヶ月、結局関口さんは俺のことを目的達成のための協力者と認識し、偽の恋人を続ける意味が無くなった瞬間に俺達は『友人以下のなにか』に変わったと判断したのだろう。

 俺が朝比奈さん達から言われるまでそうだったように、お互いが良い影響を与え合っていた事実に関口さんは気づけていない。

 このままだと俺は、関口さんと会話するどころか接近すらも断られ、自然消滅待ったなしだ。

 だとすれば、俺が今しなければならないことは何か。

 簡単なことだ。

 俺達は本来良い影響を与え合える関係だというのならば、無茶苦茶な方法を使ったとしてもこの関係を続けていくしか無い。たとえそれが、とんでもない悪手だとしても。

 自分の部屋でこれだけは違うと思いつつも、少しずつ俺の心と指は一番の悪手を実行に移していた。


『今週の日曜、初デートで行った公園でまたピクニックしない?』

 送ってすぐにまた次を打ち込む。

『12時にはブルーシートを広げて待ってるから、気が向いたら来てよ』


 自分で今送ったメッセージを見返して頭を抱える。

「能天気すぎる…!」

 つい数時間前にあんなことが起きたのに、ショックで記憶を失くしているとしか思えない文章だった。

 既読は付いていないのだから、メッセージを一旦取り消して文章だけ変えて送り直そうと一瞬思ったが、止めておいた。

 おそらく俺は、一度取り消してしまったらこの考えをきっと無かったことにしてしまうだろう。

 悪い影響を与える気はサラサラ無い。これ以上関口さんを傷つける気は毛頭無い。

 朝比奈さんに押し付けた嫌われ役を、俺一人が背負うときが来た。

 メッセージを送ってしばらく経っても、関口さんからの既読は付かなかった。

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